確信について─本音野郎と建前娘の話

なにはともあれ修士論文を出してしまったので気が抜けた。

とたんに喉が痛くなった。どうした私の免疫系。修士論文を提出し終わったという確信が気の緩みを生じさせ、私を風邪に開かれた状態にしている。なんたるていたらく。

修論を出してしまったならばしょうがない。気が緩むのはしょうがない。その結果として降りかかる出来事を、私は甘んじて受け止めねばならない。

しかしこの「何かを確信している自分」が、私は大嫌いだ。

私は修士論文を提出し終わったことを確信している。この事実を私は疑うことができない。そのおかげで緊張感がなくなり、免疫系の働きが落ち、喉に痛みを感じるはめに私は陥っている。

これはいただけない。風邪など引きたくない。

しかしだからといって「修士論文を私は実はまだ提出し終えていない」と確信し直すことはできない。このように自ら思い込むことは無理なことのように思える。「私は修士論文を提出し終えた」という事柄に対する自分自身の確信を、試みにいくら疑ってみても、「私は修士論文を提出し終えた」という否定しようのない実感がある。「私は修士論文を提出し終えた。だがしかし…(私はもしかしたら修士論文を提出していないのかもしれない)」という曖昧な心境には、どうしても至れない。修士論文を提出したという確信は絶対にゆるがない。

そしてその結果、私は喉に痛みを感じてしまっている。

くやしい。

上記の話題は、例の「演技/素」または「嘘/本当」にまつわる私の悩みと深く関係している。

忘れもしない3年前の今ごろ、とある宴の場に私は座っていた。

卒業論文を書き終えたばかりの私は、当時の指導教官(以下、大ちゃんと呼ぶ)とともに、とある飲み会に招待されていた。この宴会はYという名の先生の送別会だった。Y先生は別の大学に赴任することになっていた。そこで彼のゼミ生たちはお別れ会を企画したのである。私と大ちゃんはゲストとしてそこに呼ばれたのであった。

Y先生の専門は臨床心理学であった。彼の臨床心理ゼミの人気は高く、毎年多くの学生が殺到していた。学生たちは将来臨床心理士の資格を取り、カウンセラーになることを希望する者がほとんどであった。Y先生自身臨床心理士であり、かつ彼は催眠術のプロでもあった。

そして悩み多き私は一時期、彼のゼミに所属していたことがあった。私はもともと臨床心理ゼミにいたのだが、途中から大ちゃんの人類学ゼミに超法規的に移動したのであった。

したがってY先生は、私のかつての指導教官ということになる。彼の送別会に私が呼ばれるのはこのような理由からなのであった。

宴の場では皆が円になって座っていた。広いホールのような部屋の床にマットを敷いて、その上に座った。確か私はY先生の左隣に座った。大ちゃんは少し離れたところ、ちょうど私から見て左前の方向に座っていた。

人が全員揃った頃、やがておもむろにゼミ生たちがY先生へ感謝の言葉を述べ始めた。私の視界左斜めの奥の方に座っていた人から、順々にY先生へ何かを述べる段取りがいつのまにか設定されていた。反時計回りにスピーチをどうぞという現象である。

まず一人めの学生が話し始めた。臨床心理ゼミに入ることができたこと、統計学の難しさに悲鳴をあげたこと、ゼミの友人たちが自分を支えてくれたこと、などについて彼女は語り始めた。そして話がY先生に及び始めた頃、その女性は泣き始めた。感極まって涙がこぼれるという感じだったのだろうか。その人はしばらく涙を出しつつ最後にこう締めくくった。

「Y先生! 本当にありがとうございました!! 先生が教えてくださったことは一生忘れません!!!」

すごいなあと私は感心していた。Y先生は愛されているのだなと思いつつ、私は彼女の話を聞いていた。

しかし同時に、なんとも言い難い居心地の悪さも私は感じていた。泣いている彼女のその振る舞いがとても演技臭く思えたからである。

しかし私は、今自分が思ったことを咄嗟に否定した。きっと自分が意地悪な人間だからそういうふうに見えるのだろうと、私は考え直した。送別会の場で人が泣くのを演技くさいと感じてしまうのは単に自分がひねくれているから、という可能性もある。

しかし「なんとなく演技臭い」という私の印象は、他の学生たちがスピーチしていくにつれてどんどん強くなっていった。

先ほどの女性の右隣に座っていた女性も大げさに泣き始めたのである。

周囲の者は彼女に「泣くなYO!」とでも記述できるような、暖かいような胸温まるようなそんな声をかける。ヒックヒックと嗚咽を漏らしつつ、その人もY先生に感謝の意を述べた。

「先生のご恩は一生忘れません!!」

次の女性も似たようなものだった。

なぜか皆泣くのである。

しかし臨床心理ゼミ唯一の男子学生であるO君は泣かなかった。「お世話になりました」と淡々と礼を述べた。

私は再び考え直した。なるほど、女性は泣きやすいのかもしれない。女性は場のムードというか雰囲気に流されやすいと聞いたことがある。これが今起きているのだ。彼女たちに嘘臭さを感じるのは、やはり、私が天邪鬼だからなのだ。

そしていつしか大ちゃんの番がまわってきた。それまでややうつむき加減でじっと皆の話を聞いていた大ちゃんは、開口一番次のようなことを言った。

「お前ら嘘くせーよ。」

周囲がしーんとした。明らかにみんなの目が点になった。普段からどこを見ているのか分からないY先生は、相変わらずどこを見ているのか判別し難い目をしていた。

「あそこで黒い服着ているの。あいつの研究テーマがそれこそリアリティなんだけどよ。」

左斜めから大ちゃんが私を指差す。

「確かに嘘とリアルは両方ともすごく深い関係にあるんだけどよ。さっきから聞いてりゃ、お前ら。全然ッ駄目。臨床心理ゼミで何習ってんだか知らんけど、はっきりいって終わっていると思います。嘘やん全部。嘘。」

泣いていた一連の女の子たちは、驚いた顔をして大ちゃんを見ている。ていうか表情のない顔で大ちゃんを見ている。

私の隣に座っていたY先生が口を開いた。

「……う〜ん。嘘っていうのは分かっているんだけどね……。」

私は驚いた。

やっぱ嘘だったのか! つーか、そのことに気付いていたのかよY先生! それって悲しくないか? 涙流して「先生のこと忘れません!」と言っているゼミ生たちの行為を「あれは演技である」と了解しつつ、なんで平気でいられるわけ? むかつかないのか? それともこれが噂の社交辞令ってやつなのか? 

どこを見ているのか分からない目線をしているY先生を眺めつつ、私はうろたえていた。

「嘘やん。どう見ても。泣き真似やん。」

大ちゃんは静かに言う。周囲は水を打ったようにしんとしている。

思わず我慢できなくなって私は大ちゃんに反論してしまった。

「いーじゃんべつに! 演技を否定しちゃ駄目だよ!」

周囲が私をくわっと見る。私の反論はちゃんとした反論になっていない。突発的にそう言ってしまったにすぎない。しかし私のなかでは次のような考えが巡っていた。

「もしかしたら彼女たちは演技をしていたかもしれない。もしくはホントに悲しくて感激して泣いていたのかもしれない。彼女たちがどの状態にいたのか自信をもって確定することはできないはず。それに、演技を全否定してしまっては、私自身が毎日行っている演技まで否定されてしまうことになる。それはいやだ。人の話を聞くフリがうまいことで評判の私は、大ちゃんの主張に異議を唱えなければ。」

大ちゃんは私をちらちらと横目で見つつ、「そうかもしれんけどよ…だけどよ」とでも言いたげな顔をして可愛くうつむいた。しかしやがて顔をあげ、こころもち意地悪そうに次のように話した。

「…いやしくもカウンセラーを目指しているのであれば、リアリティについてもっと皆さん考えてみる必要があると思います。あと、Y先生にはもっと壊れることをオススメします。」

そう言って大ちゃんはスピーチを終了した。

しばしの沈黙。

大ちゃんの右隣に座っていた女性が話し始めるのに少々時間がかかった。なんとなくギクシャクした雰囲気の中、それでもスピーチは進み始めた。相変わらずゼミ生たちは指導教官であるY先生に感謝の言葉を述べる。

しかしもはや誰も泣かない。

泣きたいけどあえて我慢しているのだろうか? それとも、大ちゃんの指摘は図星だったのだろうか?

そうこうしているうちに、私の順番が回ってきてしまった。

私はこういう場では、喋り始める直前まで、話す内容について考えないようにしている。頭真っ白のまま、とにかく口から音を出すことに専念する。そして話しながら考えるようにしている。その時の私から出た言葉は次のようなものだった。

「臨床心理ゼミから人類学ゼミへ移動することを許してくださったY先生に感謝しています…。ゼミを移った理由は……私は旅に出たかったのであります…。私はもっとY先生とボコボコに殴り合えるような仲になりたかったです!」

「ボコボコに殴り合えるような」というセリフの部分が口から出たとき、私は右隣に座っていたY先生の顔を明らかに直視していたのであろう。Y先生は「…こっ!怖いよォ〜!!重森くん。」と言いながら身をのけぞらせた。

私がこれ以上喋らなかったので、Y先生がそのまま喋り出した。

「いや〜。みんなも知っているように重森くんはうちのゼミから人類の方へ途中で移っていったんだけど、僕はずっと彼を自分のゼミ生と思っていましたよ〜。」

うーん。Y先生はその他にもいろいろ喋っていたけれど、思い出せない。だけど私は彼が上記のように話したことは今でもしっかり覚えている。何を考えているのかよく分からない人だったけれど、私はけっこう彼が好きだった。Y先生も私と同じくどこか病んでいたからだ。

臨床心理学を志す人間は次の3タイプに分けることができると考えられる。(1)心理学という名前にミーハーにひかれた人。(2)商売になると計算したうえで志す人。(3)自らの病を治したい人。

Y先生も私も確実に三番目のタイプだった。

で、最初の話に戻る。私は修士論文を提出したことを確信している。そして、この確信を揺るがすことができないことを悔やんでいる。悔やむ理由として、風邪を引いたからということがあげられる。しかし悔やむ理由はこれだけではない。

一番の理由は次のようなものである。

自分の確信を自分で自由自在にコントロールできないのならば、私は(1)邪悪な本心をそのまま相手に伝えるしかないか、(2)下手な演技を披露せざるをえなくなる。そしてこのふたつの選択肢はいずれも、人に不快感を感じさせてしまう(←自分で自分をダブルバインドにかけている 笑)。

相手に対して暖かい感情を示すことが出来ないような精神状態にいるとき、うまく相手を騙すことができなければ、相手は私に嘘臭さを感じるだろう。そして相手は空しさと悲しさを感じてしまうだろう。もしかしたら私はその人に嫌われてしまうかもしれない。

たまに情緒不安定になる私は、たまに人と会いたくない。会えば笑顔を見せなきゃいけないし、思ってもいないセリフ(例、お元気ですか?)を言わなくてはならなくなる。そうしないと嫌われてしまう。

私は人嫌いなのではなく、あまりにも人が大好きで大好きでしょうがないから、人に嫌われるのを恐れているのだ。下手な演技を見せてしまい、相手に失望されるのを恐れているのだ。好かれたいという欲望が、私を演技から遠ざける。

演技を見せられた相手が悲しむから、演技をすることを拒否するのではなく、私は相手に嫌われなくないから、演技をすることを拒否するのである。

このような悩みは、私の本音そのものが相手にそのまま見せることができる種類のものであるのならば、簡単に解決する。この場合、演技をする必要はなくなる。あるのは本心のみ。Y先生のことが好きであるならば、素直にそう言えばいいだけのことになる。

しかしもしも私が本心ではY先生のことを嫌っているのならば、下手な演技をする必要が出てくる。ここに「嫌われてしまうかもしれない問題」が生じる。相手に対する好意的な振る舞いが、努めて演じられたものであることがばれたとき、相手は失望するはずである。少なくともあまりいい気持ちはしないはずである。

で、私はどちらかというと、下手な演技をする必要が出てくるような本心の持ち主だったりする。

だからこそ、上質の演技を目指さなければならないし、だからこそ、大ちゃんの主張に反論しなければならなかった。

しかし演技派を目指しておきながら、やはり私は自らの演技に自信をもてなかったりする。

だからこそ、自らの本心(=なんらかの事柄に対する確信)そのものを自らコントロールできるようになれることを私は熱望するのである。

修士論文を提出したという確信をゆるがすことができなことを悔やむのは、以上の理由による。

送別会がお開きになる頃、研究室へ大ちゃんが去っていったのを見計らったようにして、臨床心理学ゼミ生のひとりが不機嫌そうに私へつぶやいた。

「竹川先生(=大ちゃん)ひどいよ。ばらしやがって。送別会だいなし。むかつく。」

私もこのようなセリフを堂々と喋ることができるよう、他人に嫌われることを全然気にすることのない強い人になりたいなと思わないでもない。

しかし先のゼミ生がいやしくもカウンセラーを目指す身であるのならば、彼女に声を大にして言いたいことがある。

ベイトソンぐらい読め。

「サイコセラピーの場でも、病院内の環境でも、ダブルバインド状況は生み出されるということ。われわれの仮説からすると、病院側の患者に対する”善意”が、はたして患者のためになるものかどうか疑問視せざるをえない。病院は患者のために存在するのと同様に──同程度に、あるいはそれ以上に──病院のスタッフのためにも存在するのだから、そこで「患者のため」という名目で、職員の居心地を一層良くすることを目的とする活動が続けられる時には、矛盾も生じるだろう。病院側の目的に沿うように組織された制度を、「患者のため」と宣告することは、患者にとっての分裂症的状況を永続化していくことにほかならないとわれわれは考える。この種の欺瞞に対して患者は、ダブルバインド状況に対するときの反応を返すだろう。(中略) ひとつユーモラスな実例を紹介しよう。ある病棟で、献身的で”思いやり”のある医師が自室のドアに「ドクター室──いつでもノックしてください」と書いた札をかけておいた。するとひとりの従順な患者が、ドアの前を通るたびに必ずノックしていった。この医師は仕事が手につかなくなり、とうとう降参して札を外したということである。」[ベイトソン 2001:315-316]

しかし私は、「演技をせずに本音を語ればいい」と断言することはできないことも十分承知している。このことを痛く自覚するようになったのは、ある恋愛経験を通してであった。

本音(素)と建前(演技)をめぐる問題は、一筋縄ではいかなのである。

私はこの問題に対する有力な解答を、いまだ用意できずにいる。

参考引用文献

ベイトソン、グレゴリー 2000 『精神の生態学』佐藤良明訳 新思索社

M・ハマによる書き込み

「本音」(素)と「演技」(建前)って、そんなにきちんと区別できるものだろうか。

本音でやっていると思っていても、誰かから「お前、うそっぽいぞ。本当にそう思ってやっているのか?」と言われたとたんに、自分でもそれがうそっぽく見えてきて、もう前のようにはやってられなくなる、ってことはよくある話。

猿回しの猿のように、教え込まれた「芸」でも完全に身につけて身体化してしまえば、たとえば僕らにとっての歩行がそうであるように、もう演技なんかじゃない。でも、それですら、上記の問いで対象化されてしまうと、にわかにぎこちない演技に逆戻りしてしまいうる。

「だいちゃん」攻撃は、だから、繰り出せばどんな場合でもいつでも有効で、早いもの勝ちの反則技みたいなものだ。

でも、自分が身につけてしまった振る舞いや芸を、対象化して反省することなく、「本音」として生き切ってしまって平然としているのも、猿回しの猿と同じで、なんだかである。

かといって、「だいちゃん攻撃」で、他人にそれを無理やり強いるのは、僕には悪趣味で余計なおせっかいだとしか思えない。

重森による書き込み

M・ハマさま

> 「本音」(素)と「演技」(建前)って、そんなにきちんと区別できるものだろうか。

できないと思います。

虚実被膜(=曖昧)としか表現できないような状態を我々はいつも生きていると思います。

しかし私はなぜか、他人の「演技くさい言動」よりも、他人の「本音と思える言動」が好きです。私は下手な演技よりも上質の演技が好きです。きっと私は極度に人に飢えた寂しがり屋なのでしょう。その人そのものと「ふれあえた」と思い込みたいのです。

> > 本音でやっていると思っていても、誰かから「お前、うそっぽいぞ。本当にそう思ってやっているのか?」と言われたとたんに、自分でもそれがうそっぽく見えてきて、もう前のようにはやってられなくなる、ってことはよくある話。
> > 猿回しの猿のように、教え込まれた「芸」でも完全に身につけて身体化してしまえば、たとえば僕らにとっての歩行がそうであるように、もう演技なんかじゃない。でも、それですら、上記の問いで対象化されてしまうと、にわかにぎこちない演技に逆戻りしてしまいうる。

この「芸」の問題についてもっと考えたいなと思っています。私は次の三つのグループを混同して考えてしまう傾向があります。

(1)なんらかの形式の遂行

 例、電話に出たときには「もしもし」と発音する。会社に電話がかかってくる場合には「いつもお世話になっております」と相手に発音する。知り合いに道で会ったら「こんにちは」と発音する。場を去るときには残っている人々に対して「お疲れさまー」と発音する。

(2)正真正銘の演技

 例、舞台で役者がハムレットを演じている。もう一人の役者はオフィーリアを演じている。

(3)いわゆる「騙したのね!」と言われかねない行為

 例、目の前にいる相手と単にセックスがしたいだけのくせに、「好きだ。愛している。付き合って欲しい。」というセリフを相手に言う。この場合、「自分はあなたと単にセックスがしたい。」という、自らの本来の目的を相手へ忠実に知らしめてしまうようなセリフはけして発音されない。

観察者と被観察者という二つの視点、さらに、自分たちの言動が演技であることを当事者たちがあらかじめ了解しているか否かという条件も導入すると、上記の区別はもっとややこしくなると思います。

「観察者も行為者のひとりなのかどうか(=なんらかの活動に従事している被観察者たちを観察者は単に見ているだけなのかどうか)」という点。そして、なんらかの言動を示しあっている当事者たちはそれぞれ、お互いが演技を見せ合っているということを最初から理解し合っているのかどうかという点。

これらを加味するとややこしくなるように思います。

例えば、(2)の場合、ハムレットを演じる役者(=被観察者)にオフィーリアを演じる役者(=観察者)が、「あなた演技しているでしょう! 騙しやがって!」とは言えません。また、観客(=観察者)も舞台の上の俳優(=被観察者)に「お前ら演技しているだろう! 騙しやがって!」とは言えません。「演技が下手だね」とは言えると思います。演技していること自体は批判できません。

要するに何が言いたいかと言うと、「嘘くさい」という言明が発せられるのに適切なときがあると私は思うのです。「演技してんじゃねーよ。」というセリフが発言されてしかるべきときがあると思うのです。

> > 「だいちゃん」攻撃は、だから、繰り出せばどんな場合でもいつでも有効で、早いもの勝ちの反則技みたいなものだ。
> > でも、自分が身につけてしまった振る舞いや芸を、対象化して反省することなく、「本音」として生き切ってしまって平然としているのも、猿回しの猿と同じで、なんだかである。
> > かといって、「だいちゃん攻撃」で、他人にそれを無理やり強いるのは、僕には悪趣味で余計なおせっかいだとしか思えない。

「悪趣味で余計なおせっかい」をされること。そして自らもそのようなことをするのが私は大好きです☆ この活動は、現実に関する面白い議論を展開させるきっかけになると思います。人間に対する洞察力や、演技と演技することの悲しみについて当事者たちがどれくらい考えたことがあるのかを問うことになると思います。

「だいちゃん攻撃」をされて、それ以降一切泣かなくなってしまったカウンセラーの卵たちは、カウンセリングという仕事の代価として彼らに支払われる給料に見合った上質のサービスを、悩みを抱えて彼らの前にやってくるクライアントさんに対して提供することはできないように思います。

なぜなら彼らには現実に関する洞察力が欠けているからです。そしてなによりも、彼らそのものの姿が見えないということに起因した不安と悲しさが、彼らを前にしたクライエントさんたちを容赦なく襲うように思います。

「だいちゃん攻撃」をされて、それだけですっかりひよってしまうのではなく、「なんだとコラ! それが泣いている人に向かっていう言葉か?」とだいちゃんに言い返して欲しかった。半分笑いながら。もしくは完全な怒りの形相で。

または、「「本音」(素)と「演技」(建前)って、そんなにきちんと区別できるものだろうか? 私たちが演技をしているとどうしてあなたは判断できるのか? 理由を聞かせてください。」とだいちゃんに意地悪く反論して欲しかった。

そうすることによって、演技をしている(演技せざるをえない)という彼らそのものの姿(であると受け取るのにやぶさかでなくなるような姿)を、なんらかの形でちゃんと示して欲しかった。

カウンセラーの前に現われる、悩んでいる人々の多くは、嘘偽りないように思えるカウンセラーの姿と、それが演じられたものであることを暗に示す彼のメタ的な言動に面白さを感じ、それだけで結構楽になったりするように思います。周囲の人々から「癒し系」と頻繁に呼ばれる重森は、自らの乏しい経験に基づき、このように考えています。

あのカウンセラーの卵たちは、はっきりいってつまらないです。一緒にいてずっとお話していたいとは思えません。人を魅了することができなくては、カウンセラーになどなれるわけがないと、私は強く思います。

自分たちの言動が努めて演じられたものであるということを暴露されたぐらいで萎縮してしまったり、暴露した人物に敵意を持つような、器の狭いカウンセラーには私は金を出してまで看てもらいたくないです。

ちなみに、件のY先生は、ものすごくだいちゃんを慕っておりました。というよりも、だいちゃんと接しているときのY先生は、まるでカウンセラーの前のクライアントさんのようでした。

Y先生はかなりだいちゃんに癒されてしまっていたように思います。

M・ハマによる書き込み

話をややこしくしてしまって申し訳ないですが...

> > 「本音」(素)と「演技」(建前)って、そんなにきちんと区別できるものだろうか。
>
> できないと思います。
>
と言いつつ、しっかり区別してしまっているシゲちゃんがいるように見えるのは、気のせいでしょうか?。(「虚」と「実」、「演技」と「本音」という二つの異なったモノがあるんだと。
ただそれを見分けることが難しいだけなんだと。)

演技≒騙し、みたいに考えてしまうこと自体、虚/実という二分法にこだわっているからこそという感じがします。

> 人間に対する洞察力や、演技と演技することの悲しみについて当事者たちがどれくらい考えたことがあるのかを問うことになる

なんというか、↑これが「余計なお世話」なんじゃないだろうかと思うわけで。
それともそれを「問う」ことで、より立派な「カウンセラー」になってもらおうといった暖かい建設的・教育的なねらいがあったのでしょうか?

僕は、この「悪趣味な問い」には、他人のうそっぽさ、演技っぽさにたいする苛立ちというか怒りというかを感じてしまいます。うそっぽい他人(自分)は嫌いですか?でもその嫌悪の背後にはやっぱり「本当」「実」に対する根強い信仰というかがあるんじゃないですか?

自分の本当の気持ち、本音をどこまでも問い詰める作業は、永遠にうそっぽい薄皮をむき続けるような不毛な作業にどうしてもなってしまいます。だって「本当にそれがお前の本当のねらいか?」という問いに耐えられる「本当」なんてあるわけないんだから。

*もちろんこの議論は社会的(言説空間的)に構築・確定される虚/実の問題とは別のレベルの議論です。社会的に・インタラクティヴに確定する虚/実の別に、なにか存在論的根拠があると思い込んで、それを求め始めた瞬間に、この不毛な薄皮むきが始まってしまうわけです。

重森による書き込み

> > > > 「本音」(素)と「演技」(建前)って、そんなにきちんと区別できるものだろうか。

> > できないと思います。

> と言いつつ、しっかり区別してしまっているシゲちゃんがいるように見えるのは、気のせいでしょうか?。(「虚」と「実」、「演技」と「本音」という二つの異なったモノがあるんだと。
> ただそれを見分けることが難しいだけなんだと。)

そういえばそうですね。虚と実という二つの極を私は設定してしまっていると思います。

> > 演技≒騙し、みたいに考えてしまうこと自体、虚/実という二分法にこだわっているからこそという感じがします。

まさに私は虚/実という二分法にこだわっています。

> > > 人間に対する洞察力や、演技と演技することの悲しみについて当事者たちがどれくらい考えたことがあるのかを問うことになる
> > なんというか、↑これが「余計なお世話」なんじゃないだろうかと思うわけで。
> それともそれを「問う」ことで、より立派な「カウンセラー」になってもらおうといった暖かい建設的・教育的なねらいがあったのでしょうか?

だいちゃんが自分自身の行為をどのような記述のもとで眺めていたのかを、他人の私は知る由がありません。

単なる憶測ですが、彼は自分が感じた気持ち悪さや違和感を包み隠さずそのまま相手にぶつけていただけのように思います。「人類学者は他者とケンカしてなんぼ」と彼が考えているのは確かなので(←私の思い込みにすぎないかもしれませんが)。

私はだいちゃんと異なります。

現実についてたいして考えたこともないような健康的な人が、カウンセラーになるのがいやなのです。私のようなクライアントが、もしも下手な演技をだらだらとカウンセリングの場で見せつけられたら、ただただ悲しむでしょう。「虚/実という二分法に君はこだわっているんだよ」と健康的なカウンセラーは言ってくれることもないでしょう。全く面白くないです。

だからそういう中途半端なカウンセラーもどきを見かけると、私はついついとことんそいつをいじめたくなります(笑)。

しかし私が「余計なお世話」を行使するのは上記の理由からだけではありません。

私は下手な演技を相手から見せられると悲しくなります。演技を見せる相手を前にすると「その人の「本来の姿」に自分は触れることができない。アクセスすることを許されていないのだ」と感じてしまうから、悲しくなるのだと思います。だから「余計なお世話」を私は行使するのです。そうやって私は相手を壊そうとするのです。相手の服をじわじわと脱がしていくようなノリで。

「相手の「本来の姿」にアクセスできない」という上記のような私の悩みは、虚/実という二分法に私が縛られていることに起因しているのでしょうか? もしもそうであるならば、虚/実という二分法から離脱できれば、私は悩まなくなるのでしょうか? ここが考えどころだと思います。

> > 僕は、この「悪趣味な問い」には、他人のうそっぽさ、演技っぽさにたいする苛立ちというか怒りというかを感じてしまいます。うそっぽい他人(自分)は嫌いですか?でもその嫌悪の背後にはやっぱり「本当」「実」に対する根強い信仰というかがあるんじゃないですか?

まさしく私は他人のうそっぽさ、演技っぽさに苛立ちと怒りを感じます。うそっぽい他人(自分)は嫌いです。

> > 自分の本当の気持ち、本音をどこまでも問い詰める作業は、永遠にうそっぽい薄皮をむき続けるような不毛な作業にどうしてもなってしまいます。だって「本当にそれがお前の本当のねらいか?」という問いに耐えられる「本当」なんてあるわけないんだから。

私は、他者に見せるおのれの言動にうそっぽさを感じてしまいます。うそっぽさに悩むことが出来るのは、ハマが指摘していたように、私が虚/実というニ分法にこだわっているからだと思います。

しかし虚/実という二分法は、リアリティという観点から考えると、依拠してしかるべき非常に的を得た二分法だと私は考えています。

「本当などない」とハマはいいます。

しかし、少なくとも、「自分は今こう感じた」「自分は今こう思った」という否定しようのない、なんらかのことがらに対する確信を、日常生活上で、人は確実に得ているように思うのです。これは「本当」ではないものとして切り捨てることは無理ではないでしょうか? なぜならあくまでリアルだからです。

> > *もちろんこの議論は社会的(言説空間的)に構築・確定される虚/実の問題とは別のレベルの議論です。社会的に・インタラクティヴに確定する虚/実の別に、なにか存在論的根拠があると思い込んで、それを求め始めた瞬間に、この不毛な薄皮むきが始まってしまうわけです。

別のレベルの議論なのでしょうか? 私には同じ議論のように思えます。目の前にいる他人は今実際には何を思っているのか。彼はどのような記述のもとで自らの言動を眺めているのか。これを特定したいという欲望に、私はよくかられます。つまりどこかに「本当」があると私は思っているのです。

他人(自分)の言動が眺められているところの(=置かれているところの)記述という意味での「本当」は、特定可能な形で、どこかにちゃんと存在しているような気はしないでしょうか? 

しかし、どこかに存在していたとしても、特定することはできないですね。どうすれば特定できたことになるのか見当がつきません。サーバーのログみたいな物質的な形で取り出すことなどできないですね。人間はサーバーじゃないし。

私は虚/実という二分法から抜け出ることができたのだろうか?

うーん。だけど少なくとも自分自身が感じたことについては「本当」はあるように思える…。この際の私は、外部から取り入れたなんらかの記述を、自分自身の言動が眺められるところの「本当」としての記述、ということにしてしまっているのだろうか。

com2による書き込み

門外漢の割り込みすんません。
「またラカンかよ。やれやれ。バカのひとつ覚えだな。」
と思って聞いてください。

シゲとハマさんのやり取りの中で、「リアル」の捉え方が違うんじゃないかと思って見ていました。
例えばトラウマのリアルと現実界のリアルという違いなのでは、と。無理やりまとめようとすると、「リアルはあるとも言えるしないとも言える」、みたいな感じになってしまいそうです。

それでシゲが執拗にあると言っている「本当」は、やっぱり「対象a」と呼ばれているものではないでしょうか(僕の場合はそこを「写真」が埋めますが)。

>うーん。だけど少なくとも自分自身が感じたことについては「本当」はあるように思える…。この際の私は、外部から取り入れたなんらかの記述を、自分自身の言動が眺められるところの「本当」としての記述、ということにしてしまっているのだろうか。

それではダメかい?と思ってしまいます。
「私を含めた全体にとって、私がどのようなものであるのかということが、私が他者をどのように見ているかということの中に、浮かびあがる」。それで他者のところに見るのが「対象a」らしいですよ。(『ラカン精神分析』、新宮一成
また「虚実の彼岸において明滅する対象aこそが、心的装置の”リアリティ”部門を担うものなのである。」らしいです。(『文脈病-ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ』、斉藤環

ちなみに嘘臭い演技をしてしまわざるを得ない人のリアルさに対して、私は好感をもちます。

M・ハマによる書き込み

ますますややこしくなってしまいそうですが...

>しかし虚/実という二分法は、リアリティという観点から考え
>ると、依拠してしかるべき非常に的を得た二分法だと私は考え
>ています。
>
>「本当などない」とハマはいいます。
>
>しかし、少なくとも、「自分は今こう感じた」「自分は今こう
>思った」という否定しようのない、なんらかのことがらに対す
>る確信を、日常生活上で、人は確実に得ているように思うの
>です。これは「本当」ではないものとして切り捨てることは無
>理ではないでしょうか? なぜならあくまでリアルだからです。

「現実性」の問題、つまり reality ≡ sense of reality の問題一般に拡大されちゃうと、ちょっといやんです。問題がずれてしまいます。

問題は、現に目の前にあるもの(だからリアルで現実的だとうけとられているもの≡リアリティ)を、なにやら「嘘っぽいもの」、「虚」として捉えざるを得ないように仕向ける構図、つまり背後になにか「本当の本当」「実」なるものの存在を想定すること、なのですから。
現象的、表層的にリアルなものがリアルだってことでいいじゃないか、というのなら、そもそも「嘘っぽさ」の問題なんか出てこないはずです。

他者(あるいは自分にとっても)のリアリティをぶっこわし、それを「嘘っぽいもの」「虚」に強引に作り変えるのが、他者に対してあるいは自分に対して発せられる「だいちゃん攻撃」でしょ?現象しているもの、現に立ち現れているもの、表層を、単なる見せ掛け、演技、欺瞞、虚にしてしまうのは、その背後にあると想定された「本当の本当」「実」なわけで、この構図を受け入れさせられた瞬間に、すべてが嘘臭く見えて来うる。

自分にとってのリアリティ、表層の真実、現実、社会空間的に構築された虚/実の境界、こういったものの(社会的)成り立ちを吟味するために、この構図(表層の「虚」の背後あるいは裏側にある深層の「実」という構図)を方法的に(一種の判断停止の技法として)使ってみるのは、この構図そのものがなんだかへんてこりんなんだということをわきまえたうえでなら、ときに有効だと思います(私自身その常習者です。ああぁ、やめられないっ。)
ただ、それをむやみやたらに他人に対して振りかざすのは、ちょっと悪趣味だと個人的には感じるだけのことです。

一方、この構図そのもののもおかしなところがあるんだということをわきまえずに、この構図にとらえられてしまうと、ことは深刻です(病的とは言いませんが)。嘘っぽさの薄皮向きの無限作業から抜け出せなくなってしまうからです。

<少なくとも、「自分は今こう感じた」「自分は今こう思った」という否定しようのない、なんらかのことがらに対する確信>を生きているシゲちゃんは、実はこの無限作業には捕えられていない(だから健康)ってことだと思います。

悪趣味な人ならこれに対して、<いかにもそういうことを確信しているかのように断言できるなんて、嘘っぽすぎる。なるほど君は「自分が今たしかにそう思った、そう感じた」ということにしたいわけだよね。でもそうすることによって君はなにを自分から隠そうとしているの?>みたいなことを、すぐに言い出すでしょう。うっかり、こうした問いを引き受けてしまったりしたら、さあたいへん。

人が生きているリアリティをぶっこわしてあげるのは、本人の同意のもとで、ってことにしませんか?

*カウンセラーについては、私はどうでもいいです。いかがわしい存在だし、人として魅力的なカウンセラーなんて、もういかがわしすぎて鳥肌が立ちそうです。人として魅力的かどうかは別として、それがある種のコミュニケーション回路の中で不思議な効果を発揮することは、おそらく今世紀の発見の一つでしょう。でもそれはエスノメソドロジーの実験や「人工無脳」システムが示しているように、隣室にいてインターフォン越しに、乱数表をたよりに判断を下したり、相談者の言うことを単に鸚鵡返しに反復したりする装置によっても、ある程度は代替できる効果なわけです。

com2さん>
おひさしぶりです。私はラカンがわからない(というか大昔にエクリの最初の部分で頓挫したきり)のですが、最近私の関心領域でもラカンデリダ(こちらのほうがもっと苦手)が引き合いに出されることが多くて弱っています。
一度ばっちり読書会とかで教えてください。

重森による書き込み

>com2

おひさしぶり☆

ご存知だとは思いますが、上記の挨拶(=おひさしぶり☆)も演技といえます。

しかし、自分の言動を「それは演技でしょう」って他人から言われたらむかつくよねー。

でも図星だったらどうしよう。

「ごめんなさい演技してました。臨場感が乏しくてごめんなさい。うまく騙せなくてすいません。」と謝ればいいのだろうか…。

謝らなくてもいいような気もする…。

ああでも、時と場合によるか。

>ハマ

「構図」が問題なのではなく、演技をすることが好ましくない場において「演技っぽい言動を相手に見せてしまうこと」が問題ではないでしょうか。徹底的に嘘っぽかったのです。嘘泣きとしか言いようのない仕草が、あの送別会の場に厳然として存在していたのです。

> > 問題は、現に目の前にあるもの(だからリアルで現実的だとうけとられているもの≡リアリティ)を、なにやら「嘘っぽいもの」、「虚」として捉えざるを得ないように仕向ける構図、つまり背後になにか「本当の本当」「実」なるものの存在を想定すること、なのですから。
> 現象的、表層的にリアルなものがリアルだってことでいいじゃないか、というのなら、そもそも「嘘っぽさ」の問題なんか出てこないはずです。

現象的、表層的に目の前におかれたものが、全然リアルではなかったのです。

あの送別会のときに臨床心理ゼミの女の子たちが一斉に見せた仕草は、泣き真似のようにしか見えなかったのです。

だいちゃんと私以外にも、違和感を感じていた人は多数いました。

しかしそのことを取り立てて問題にするのはやはりだいちゃんと私ぐらいだったのですが…。

> > 他者(あるいは自分にとっても)のリアリティをぶっこわし、それを「嘘っぽいもの」「虚」に強引に作り変えるのが、他者に対してあるいは自分に対して発せられる「だいちゃん攻撃」でしょ?現象しているもの、現に立ち現れているもの、表層を、単なる見せ掛け、演技、欺瞞、虚にしてしまうのは、その背後にあると想定された「本当の本当」「実」なわけで、この構図を受け入れさせられた瞬間に、すべてが嘘臭く見えて来うる。

あの時見せつけられた、他者のリアリティはリアリティ足りていなかったように思うのです。少なくとも私にはそう見えた。泣き真似としか知覚できませんでした。

「構図」のせいなのだろうか。虚/実という二分法に私がこだわっていたから、あの女性たちの仕草が、泣き真似に見えたのだろうか。もしも私がこの二分法を知らなかったならば、あの女性たちの仕草は泣き真似には見えなかったということなのだろうか…。

私はハマのおっしゃりたいことを次のように理解しました。

「たとえ泣き真似に見えたとしても、そのことを指摘してはいけない。」

> > 自分にとってのリアリティ、表層の真実、現実、社会空間的に構築された虚/実の境界、こういったものの(社会的)成り立ちを吟味するために、この構図(表層の「虚」の背後あるいは裏側にある深層の「実」という構図)を方法的に(一種の判断停止の技法として)使ってみるのは、この構図そのものがなんだかへんてこりんなんだということをわきまえたうえでなら、ときに有効だと思います(私自身その常習者です。ああぁ、やめられないっ。)
> ただ、それをむやみやたらに他人に対して振りかざすのは、ちょっと悪趣味だと個人的には感じるだけのことです。

振りかざしてしかるべき場合もあるように思います…。

> > 悪趣味な人ならこれに対して、<いかにもそういうことを確信しているかのように断言できるなんて、嘘っぽすぎる。なるほど君は「自分が今たしかにそう思った、そう感じた」ということにしたいわけだよね。でもそうすることによって君はなにを自分から隠そうとしているの?>みたいなことを、すぐに言い出すでしょう。うっかり、こうした問いを引き受けてしまったりしたら、さあたいへん。
> > 人が生きているリアリティをぶっこわしてあげるのは、本人の同意のもとで、ってことにしませんか?

上記のハマの提案にはちょっと賛同できないです…。

例えば、目の前にいる女性とセックスすることだけを目的にしている男がその女性にむかって「好きだ。愛している。付き合ってくれ。」と言ったとします。男に嘘くささを感じた女性は「嘘つき。あなたは私の体だけが目的なんでしょう? あなたは私を好きではない。」と言ったとします。

ハマの意見に従うと、上記の女性は、男性の同意を得られないかぎり、「嘘つき。あなたは私の体だけが目的なんでしょう? 私のことをあなたは好きではない。」とは言えなくなってしまうように思います。

これは酷ではないでしょうか?

続けて男性は女性に対して、「君は疑いすぎだよ。それは悪い癖だよ。僕は本当に君が好きなんだ。君の体が目的じゃないよ。」と言ったとします。たとえ相変わらず男性の言動が嘘っぽかったとしても、女性はそれを受け入れないといけないのでしょうか?

男性はたとえ女性の体だけが目的だったとしても、自分を嘘つき呼ばわりすること自体を非難するのではなく、卓越した演技で女性に臨場感を徹底的に感じさせるべきだと思います。中途半端な演技を披露するからいけないのです。

でも、女性が男性のことを憎からず思っているのであれば、彼女はあえて男性に騙されてみるかもしれません。男性の言動の嘘っぽさを指摘しないで、それをそのままリアルなものとして受け入れるかもしれません。

何を書いているのかちょっと自信がなくなってきました。しかし言いたいことは下記のようなことです。

相手に演技を見せるのであれば、相手の同意のもとで、ってことにしたほうがいいのでは?

Y先生の送別会のときに、数人のゼミ生たちが泣きました。私は常日頃から「人が泣くのは悲しいからだ」と思っていました。だからこそ、(1)彼女たちの嘘っぽい仕草を見て、(2)泣くことを無理矢理演出することに違和感を感じたのです。

「送別会とは演技して泣くところだ」と私が最初から了解していれば、いくら彼女たちの仕草が嘘っぽく見えたとしても、私は違和感を感じなくてすんだと思います。

だいちゃんも文句も言わなかったはず。

舞台でハムレットを演じる役者に「演技するな!」とは言えません。演技が披露されることは皆同意済みであり、問題にできることは役者の演技がうまいかどうかなのだから。

> > *カウンセラーについては、私はどうでもいいです。いかがわしい存在だし、人として魅力的なカウンセラーなんて、もういかがわしすぎて鳥肌が立ちそうです。人として魅力的かどうかは別として、それがある種のコミュニケーション回路の中で不思議な効果を発揮することは、おそらく今世紀の発見の一つでしょう。でもそれはエスノメソドロジーの実験や「人工無脳」システムが示しているように、隣室にいてインターフォン越しに、乱数表をたよりに判断を下したり、相談者の言うことを単に鸚鵡返しに反復したりする装置によっても、ある程度は代替できる効果なわけです。

えぇー!! そんなぁー!!(←演技くさい↓)。

ハマの上記の文章はとても悲しいですー(涙)。

> > com2さん>
> おひさしぶりです。私はラカンがわからない(というか大昔にエクリの最初の部分で頓挫したきり)のですが、最近私の関心領域でもラカンデリダ(こちらのほうがもっと苦手)が引き合いに出されることが多くて弱っています。
> 一度ばっちり読書会とかで教えてください。

読書会。いいですね☆

しかし読書会よりも、今週の金曜(1月23日の午後6時頃)、浜本ゼミが終わった頃に『ビューティフルマインド』という映画を共同研究室で見るので、com2も良かったら見に来ない? リアリティと天才に関する映画です。

http://www.uipjapan.com/beautifulmind/

重森による書き込み

うぅ。これ以上、自分の首を締めるのはやめようと思います。

私は実は、演技万歳!と思わないでもないのです。
でもいいのかないいのかなと不安になるのです。
悪いことをしているような気がするのです。

その悪いことをしれっとこなしてしまえているような他者を見ると、羨ましくて憎らしくなってしまうのだと思います。

自分自身が演技することや他人が演技するのを見ることに私が違和感を感じるのには、他にも理由が考えられます。

しかしいずれにせよ、演技を否定することには何のメリットもなさそうです。

com2の下記の言葉に許されるかたちで、私も演技を否定しない(自ら実践かつ見せられることを承認する)ことにします。

>ちなみに嘘臭い演技をしてしまわざるを得ない人のリアルさに対して、私は好感をもちます。

M・ハマによる書き込み

> 例えば、目の前にいる女性とセックスすることだけを目的にしている男がその女性にむかって「好きだ。愛している。付き合ってくれ。」と言ったとします。男に嘘くささを感じた女性は...

私は、人がリアリティとして受け入れているもの(当人が本物ととらえていること)をぶち壊すということをめぐる話をしていたわけで、虚/実が(したがってそれぞれの人にとってのリアリティ=本物が)社会的なやり取りの中で成立していくという事実そのものを否定した覚えは一度もないのですが。

おまけにこの場合にしても、仮にこの男が「俺は心なんか求めていない。セックスだけが目的な奴なんだ」というのが自分の「本当」の姿だと、つまり自分にとってのリアリティだと思っているとしても、これに対して「うそっぽいなぁ。お前は自分がそういう男だといことにしたいわけだね。そう考えることによって何から逃げようとしているの?」といった薄皮剥きを開始することができるわけで... つまり「『身体が目当て』っていうのは演技だろ、嘘だろ?(自分が自分に対してついている)」という問いを突きつけることもできると。

シゲさんは、自他の振る舞いの嘘っぽさにこだわる割には虚/実の捕え方が単純すぎるような気がします。最初の嘘をあばきさえすれば、すぐに人の「本当」にたどりつけるとでもいうみたいな...

>私は実は、演技万歳!と思わないでもないのです。

いや、だからそれを「演技」と見ている段階で、それを「嘘だ」と決め付けて、その裏側に単純な「実」を想定してしまっているわけで...

逆に、送別会での女性たちの涙は、シゲさんの目にいくら嘘っぽく演技っぽく見えたとしても、当人たちにとってはどうだったんでしょ。表層的にリアルに胸に迫るものがあったのじゃないかな。
それが、そのゼミの独特の社会的インタラクションをつうじてその成員たちにとっての本物として構築されただけのものであったとしても。そして、にもかかわらず、「嘘だろ」と言われてしまうと、にわかに自分たちにとっても「嘘くさく」見えてきてしまう程度のものだったとしても。

それにしてもどうして僕はこの問題に、こんなにこだわってるんだろう。「悪は嫌い、正義好き。うそは嫌い、本当好き。退屈な奴嫌い、魅力的な人好き」みたいな一連の単純明快、割り切り、直線的スタンスをうっとうしく感じているのかも。

もしかしたら俺ってひねくれもののいやな奴+悪人なのかもしれません(「かも」じゃないって?)。これ以上いやな奴になってしまわないために、ここら辺で打ち切って、金曜日に「美しき精神」を鑑賞しましょう!

たぬによる書き込み

修士論文提出、おめでとうございます。
その割りになんか最近、グツグツしてますね。
私はカウンセリングとかジンルイガクとかテツガクとかの
難しい議論はよく分からないのですが(←分かれよ)
シゲちゃんの話を読んで、太宰の『人間失格』を思い出しました。

(もう何年も前だから間違ってたらごめんなさい)。
太宰である「僕」が
大人に気に入られるような言動をしていると、
お前がそういう<演技>をしてるのはお見通しだよ、
というようなことを同級生に耳元で言われて恥ずかしくなる、という
話があったかと思います。

私は、それを読んで自分のことを言われているのかのように感じました

ところが山田詠美も似たような感想を書いていました。

そして確か、井上ひさしも、太宰を主人公とした芝居で、ある登場人物にそんなことを
言わせていました。太宰は、みんなが感じていることを、代わりに書いてくれたんだ、と。


だから、シゲちゃんが感じているような、自分や人の
本音と演技は違うんじゃないか、
という違和感は、少なくとも、『人間失格』などという自虐的な題の本を
手にとってしまうような日本人の間では、かなりひろく共有されて
いるといえるのでしょう。

ただシゲちゃんの話を読んでいて不思議なのは
なんで共感できない人たちに
関して、こだわり続けて分析しているのかということです。

彼らを批判することによって、
何か「暴いてやった」という快感があるのでしょうか。

だったらいいんだけどね。

長い目で見て、健康によくなさそうですけどね。

そんな人たちより
未知で意味が分からないけど面白いものを分析したほうが
視界が開けるんじゃないだろうか。
世の中には、探せば面白くて頭がよくて正直な人がいるんだから、そういう人から
学んだほうがためになるんじゃないだろうか。
そうしているうちに、だんだん、「つまらない」人も別の角度から
見られるようになるんじゃないだろうか。

人生短いんだから楽しまなきゃです。

以上、余計なお世話でした☆。

重森による書き込み

> > 私は、人がリアリティとして受け入れているもの(当人が本物ととらえていること)をぶち壊すということをめぐる話をしていたわけで、虚/実が(したがってそれぞれの人にとってのリアリティ=本物が)社会的なやり取りの中で成立していくという事実そのものを否定した覚えは一度もないのですが。

どうしてハマは、ある個人がなんらかのものを「リアリティとして受け入れている」という状態をすぐさま無条件に前提することができるのか私には分かりません。「相手はなにかを『リアリティとして受け入れている』」と何を根拠にハマは断言できるのでしょうか? 相手がなにかをちゃんとしっかり「リアリティとして受け入れている」か否かが問題だと思います。

相手がなにかをリアリティとして受け入れているようには思えないような仕草をこちらに見せるから、私は違和感を感じてしまうのです。

> > おまけにこの場合にしても、仮にこの男が「俺は心なんか求めていない。セックスだけが目的な奴なんだ」というのが自分の「本当」の姿だと、つまり自分にとってのリアリティだと思っているとしても、これに対して「うそっぽいなぁ。お前は自分がそういう男だといことにしたいわけだね。そう考えることによって何から逃げようとしているの?」といった薄皮剥きを開始することができるわけで... つまり「『身体が目当て』っていうのは演技だろ、嘘だろ?(自分が自分に対してついている)」という問いを突きつけることもできると。

できると思います。

「俺は心なんか求めていない。セックスだけが目的な奴なんだ」というセリフを吐く男が、そう言いつつも、妙に愛情一杯な雰囲気を醸し出しているならば、なおさら「『身体が目当て』っていうのは演技だろ、嘘だろ?(自分が自分に対してついている)」という問いを突きつけたくなります。

> > シゲさんは、自他の振る舞いの嘘っぽさにこだわる割には虚/実の捕え方が単純すぎるような気がします。最初の嘘をあばきさえすれば、すぐに人の「本当」にたどりつけるとでもいうみたいな...

うっ。確かにこの点はハマがおっしゃるとおりです…。「物事を単純に割り切りすぎる」とまっちゃんにも言われたことがあります。

しかし、最初の嘘をあばくことができれば、その人の「本当」に少しでも近づくことができるように思います。

でも、段々その人の「本当」などどうでもよくなってきました。

ハマのように、目の前に出されたものを無条件に「本当」と思えることが重要に思えてきました。私は他人の言動を悪い方にすぐに疑ってしまう癖があるようです。不健康ですね。

> > >私は実は、演技万歳!と思わないでもないのです。
> > いや、だからそれを「演技」と見ている段階で、それを「嘘だ」と決め付けて、その裏側に単純な「実」を想定してしまっているわけで...
> > 逆に、送別会での女性たちの涙は、シゲさんの目にいくら嘘っぽく演技っぽく見えたとしても、当人たちにとってはどうだったんでしょ。表層的にリアルに胸に迫るものがあったのじゃないかな。

リアルに胸に迫るものがあったのならば、「ばらしやがって」というセリフをどうして後で私に女性たちのうちのひとりは言ったのでしょうか? 暴露されることの可能な実がそこにはあったということを、彼女は自ら吐露してしまっていたように思います。

> > それにしてもどうして僕はこの問題に、こんなにこだわってるんだろう。「悪は嫌い、正義好き。うそは嫌い、本当好き。退屈な奴嫌い、魅力的な人好き」みたいな一連の単純明快、割り切り、直線的スタンスをうっとうしく感じているのかも。

ハマがこの問題にこだわることを私もずっと不思議に思っていました。ハマが生きるリアリティはいかなるものなのか非常に気になります。

> > もしかしたら俺ってひねくれもののいやな奴+悪人なのかもしれません(「かも」じゃないって?)。これ以上いやな奴になってしまわないために、ここら辺で打ち切って、金曜日に「美しき精神」を鑑賞しましょう!

「美しき精神」は面白いですよ☆ 「美しき精神」というよりも「いやな(わがままで困った)精神」という印象を私は受けました。主人公の数学者はかなり重森そっくりの言動をします。要するにオールオアナッシングな野郎です。極端で中間がありません。もちろん嘘をつくこともようできません。

重森による書き込み

たぬさま

> 修士論文提出、おめでとうございます。

ありがとうございます☆

> その割りになんか最近、グツグツしてますね。

あと三ヶ月間しか時間がないので、いままで秘めていた問い(=悩み?)をできるだけアウトプットしておこうと思っているのです♪

> > > だから、シゲちゃんが感じているような、自分や人の
> 本音と演技は違うんじゃないか、
> という違和感は、少なくとも、『人間失格』などという自虐的な題の本を
> 手にとってしまうような日本人の間では、かなりひろく共有されて
> いるといえるのでしょう。

我ながら私も自虐的だと思います。

> > ただシゲちゃんの話を読んでいて不思議なのは
> なんで共感できない人たちに
> 関して、こだわり続けて分析しているのかということです。
> > 彼らを批判することによって、
> 何か「暴いてやった」という快感があるのでしょうか。

きっと彼らに好かれたいだけなのだと思います。可愛さあまって憎さ百倍という感じです。「俺のことお前ら嫌いだろう。ちゃんと嫌いって言え!」と迫っている感じです。

> > 人生短いんだから楽しまなきゃです。

同感です☆

> > 以上、余計なお世話でした☆。

遠い異国のキューバから、面白い書き込みどうもありがとうございました!

M・ハマによる書き込み

あらら、まだ続いているみたいですね。
シゲさんが、なんとなく納得なさってないみたいだから、一言だけ蛇足を追加します。

>リアルに胸に迫るものがあったのならば、「ばらしやがって」というセリフをどうして後で私に女性たちのうちのひとりは言ったのでしょうか? 

「だいちゃん攻撃」の<結果>として、自分たちがやっていたことが「嘘」であると判明してしまったのだ、というだけのことなのでは?つまりあとづけです。「だいちゃん攻撃」によって、事後的に彼女らの涙は、暴かれた嘘になってしまった。<表層の嘘/その背後の実>という構図で眺めることを、「だいちゃん攻撃」によって強いられさえしなければ、彼女たちにとってその涙は「本物」であり続けただろう可能性があります。

(もちろん彼女たちが馬鹿なY先生が機嫌よくいられるように適当にだましていい気にさせてやろうと、詐欺師よろしく、こずるがしこく、みんなで示し合わせて泣きの演技をやってのけたという可能性はもちろんありますが、世界がこうした詐欺師の集団からできあがっているという想定は、私が機嫌よく生きていくうえではいささか面白くない想定です。性悪説のほうが安全に生きることはできるかもしれませんが、性善説のほうが機嫌よく生きることができる。私は安全よりも機嫌よさを選びたいです。まあ、意図して選べる問題じゃなくて、これまでの人生の過程ですでに選んでしまっている--そんな風に学習させられてしまっている --構えの問題なのでいまさらどうしようもありませんが。)

もうひとつ蛇足
虚/実が、社会的に、つまりコミュニケーションのインタラクティヴな過程を通じて構築されたものだと指摘することは、それが捏造であり、根拠がなく、嘘っぱちだということとはまったく別です。(社会的な交通空間以外のところには「根拠がない」ってのは確かですが)
虚/実に、なにか絶対的な存在論的根拠があると考えるほうが、むしろおかしいし、不健康なことになりうるというのが、私が一貫して述べてきたことで、私のこの一連の書き込みにおけるやたら粘着なこだわりは、シゲさんの主張の中にほの見えた、原理主義的・本質主義的、演技か素か、ほんとか嘘かはっきりせんかい的スタンスに、居心地の悪さを感じたからなのかもしれません。

M・ハマによる書き込み

さらに蛇足

日本人って(なんという本質主義!)、「だいちゃん攻撃」が結構すきなんじゃないかと思うことがあります。たぬさんがあげている太宰治の例も、その一つだし。他人に対してだけじゃなく、自分で自分に「だいちゃん攻撃」を繰り出して悩んでいるような人も後を絶たないし。自分のやっていることから「わざとらしさ」「演技っぽさ」を取り除くことに懸命になっているようなところもあるし。

私はアメリカに留学した当初、アメリカ人たちの(本質主義!)やることなすこと--その喜びよう、驚きよう、ありがたがりよう--がわざとらしく芝居がかって見え、「本心はどうやねん?」という疑念につきまとわれたことがあります。「お前ら役者やのう」と、私もあやうく「だいちゃん攻撃」かけまくりたくなりました。でもそのうちおんなじように「かもーーん」とか「わーお」とか言ってる自分を見出すことになったわけですが。

[519]重森による書き込み

ハマさま

見たい世界を見ることが出来るよう言葉や動作を駆使して頑張りたいと思います。冴え渡る突っ込みの数々、どうもありがとうございました。

「もし全て相手の心がわかったら人間関係は破綻します。 全てお見通しでは恋はできないのです。 美しい誤解が大事なのです。また何も実行しない実力は意味がないのと同様、相手に伝わらない愛や優しさも意味がありません。心の中でいくら愛していても何も言わないのでは愛は存在しないのと同じです。又ストーカーのように自分の勝手な思い込みだけで相手に嫌な思いをさせるものも愛とは言いません。心の中で「頭にきた!」と思っていても、「いつもありがとう。あなたのおかげでいつも幸せよ!」と言う中に愛は存在しえるのです。人生にとって大事なのは心の持ち方より言葉の使い方です。 やさしさや愛は言葉にして初めて命を得るのです。言葉によって状況が変わり、状況が変わるから心が変わってくるのです。 「私は幸せだ!」と常に言っていれば幸せになります。」[島 2004]

参考引用文献
島至 2004 『念頭所感』 株式会社エスピック

重森による書き込み


他人のリアルについてはもう、干渉する気がなくなった。
どこまでも際限なくいつまでも疑うことができるから。
しかし、自分のリアルについては、まだまだ迷うところがある。

>しかし虚/実という二分法は、リアリティという観点から考え
>ると、依拠してしかるべき非常に的を得た二分法だと私は考え
>ています。
>
>「本当などない」とハマはいいます。
>
>しかし、少なくとも、「自分は今こう感じた」「自分は今こう
>思った」という否定しようのない、なんらかのことがらに対す
>る確信を、日常生活上で、人は確実に得ているように思うの
>です。これは「本当」ではないものとして切り捨てることは無
>理ではないでしょうか? なぜならあくまでリアルだからです。

上記のように述べる重森に対し、ハマは次のように述べる。

>「現実性」の問題、つまり reality ≡ sense of reality の問題一般に拡大され
>ちゃうと、ちょっといやんです。問題がずれてしまいます。

現実性の問題こそが、私を苦しめているのではないか。

私は自分を悪人だと思っている。邪悪で嫌な野郎だ。終わっているとさえ思う。
そういう確信が私にはリアルにある。これは否定しようがない。

例えば私はあまり異性を心から好きになれない。性欲の処理のために利用させていただきたいという思いが強くある。あと孤独感を埋めたいという要求もある。命懸けで守りたいと心から思えることがあまりない(たまにはある本当にたまに気まぐれに)。これが私の否定しようのないリアルだ。

しかしそのくせ私は異性にいい顔をしようとする。性欲処理のために近づいているのを出来るだけ隠そうとする。

つまり私には確実に虚/実という二分法があてはまる。

だから苦しい。

歎異抄とか読んだら楽になれるかな。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/text.12.html

この問題に拘泥するのも何のメリットもなさそうなのではあるが。

とりあえず記録に残しておく。

重森による書き込み


> さらに蛇足
> > 日本人って(なんという本質主義!)、「だいちゃん攻撃」が結構すきなんじゃないかと思うことがあります。たぬさんがあげている太宰治の例も、その一つだし。他人に対してだけじゃなく、自分で自分に「だいちゃん攻撃」を繰り出して悩んでいるような人も後を絶たないし。自分のやっていることから「わざとらしさ」「演技っぽさ」を取り除くことに懸命になっているようなところもあるし。

なんででしょうね全く。我ながら不思議です。「いい人であれ、正しき人であれ、善人であれ、素直であれ、正直であれ」というメッセージをことあるごとに周囲から吹き込まれるからでしょうか。

そしてこの至上命令を忠実に遂行して苦しむ。

馬鹿ですね☆

「わざとらしさ」「演技っぽさ」を取り除くことに懸命になる理由。
そしてこの癖を取り除く方法。
この二点が明らかになればなあと思います。

halによる書き込み

たいしたことは全くもって言えませんが、割り込ませてください。

他者に対して演技をすること、これっていいことだと私は思います。
もちろん、独り善がりな演技もあるでしょうけれど、他者を意識しているからこそ、その人は演技をするんじゃないでしょうか?

最初からすべて演技なしに接してくる人こそ、他者を認めていないというか、存在をどうでもよいと思っているような気がします。

>例えば私はあまり異性を心から好きになれない。

↑ここのくだりについて、重森さんは「孤独感を埋めたい」という心の欲求と、「性欲」という体の欲求を、異性を求めているように私は読み取りました。
これって、すっごくバランス取れてませんか?どうして苦しむのでしょう。

> 「わざとらしさ」「演技っぽさ」を取り除くことに懸命になる理由。

自分への罪悪感。
んー、違うかな……

>私は自分を悪人だと思っている。邪悪で嫌な野郎だ。終わっているとさえ思う。
>そういう確信が私にはリアルにある。

これが、理由じゃないんでしょうか?
悪人である自分が、他人に対して演技(=気遣い・よく思われたい)をすること。
…あ、でも、重森さんは、他者が演技をすることも嫌なんですっけ?そうなるとこれも違いますね。

なんだか目を引かれた所だけについて発言してしまって、失礼もあると思いますがお赦しください。

最後に。書き溜めていた歌からひとつ、引っ張り出しました。

有り過ぎて 溢れ返るか 無さ過ぎて 殺風景な 極論の君

重森による書き込み

halさま

> たいしたことは全くもって言えませんが、割り込ませてください。

ご意見どうもありがとうございます☆

> 他者に対して演技をすること、これっていいことだと私は思います。
> もちろん、独り善がりな演技もあるでしょうけれど、他者を意識しているからこそ、その人は演技をするんじゃないでしょうか?
>
> 最初からすべて演技なしに接してくる人こそ、他者を認めていないというか、存在をどうでもよいと思っているような気がします。

全く同感です。

しかし、

(1)演技ばかり見せつけてしまうと相手は不快になるのではないか。
(2)演技をして自分の本来の目的を相手から見えないようにするのは卑怯ではないか。

とも考えてしまうのです。(1)も(2)も場合によるとは思うのですが。

> >例えば私はあまり異性を心から好きになれない。
>
> ↑ここのくだりについて、重森さんは「孤独感を埋めたい」という心の欲求と、「性欲」という体の欲求を、異性を求めているように私は読み取りました。
> これって、すっごくバランス取れてませんか?どうして苦しむのでしょう。

もっと崇高な心持ちを相手に対して私は持つべきだと思うのです。「あなたのためなら死ねる」と心から言うことができなければならないと思うのです。

> > 「わざとらしさ」「演技っぽさ」を取り除くことに懸命になる理由。
>
> 自分への罪悪感。
> んー、違うかな……
>
> >私は自分を悪人だと思っている。邪悪で嫌な野郎だ。終わっているとさえ思う。
> >そういう確信が私にはリアルにある。
>
> これが、理由じゃないんでしょうか?
> 悪人である自分が、他人に対して演技(=気遣い・よく思われたい)をすること。

他の人(太宰とか)はどうなのか分からないですが、私が演技を嫌う理由のひとつはこれだと思います。上記の(2)と同じ理由ですね。

> …あ、でも、重森さんは、他者が演技をすることも嫌なんですっけ?そうなるとこれも違いますね。

他者が演技することを私が嫌う理由は三つあると思います。

(1)嫉妬

自分が遂行するのにいちいち躊躇する演技という実践を、目の前の他人はこともなげに行っているように見えるので、腹が立つのだと思います。「羨ましい!」と嫉妬しているのだと思います。

(2)疎隔感

また、演技を見せつけられると悲しくもなります。腹を割ってくれない間柄なのだなあと、距離感を相手に感じてしまうのだと思います。

(3)陰謀説

あと、自分は騙されていると脅えるときもあります。自分のことを好きと言ってくれる人に対して、「こいつは私に依存したいだけだ。演技をしてそれを隠そうとしている。」と深読みして一人でびびります。この場合は、単に私が勝手に疑心暗鬼に陥っているといえます。困ったものです。

> なんだか目を引かれた所だけについて発言してしまって、失礼もあると思いますがお赦しください。
>
> 最後に。書き溜めていた歌からひとつ、引っ張り出しました。
>
> 有り過ぎて 溢れ返るか 無さ過ぎて 殺風景な 極論の君

極論の君! この言葉をひねりだすことのできるhalさんの感性は素敵です☆

しかし極論の君はとても格好悪い存在ですよね。極論に基づいて行動するのはとてもラクチンなのですが、いろいろなものを切り捨てすぎて殺伐とした雰囲気です。

もっとバランスが取れるようになりたいです。

たぬによる書き込み

一言でやめておこうかとおもったが、
目が点になったのでもう一言。

本心か演技か、心か体か、という議論に関して
読んでいる本と
恋愛に関して読んでいる本の「格」が違いすぎませんか。

島至 2004 『念頭所感』 株式会社エスピック

だああ?!

しかもなんだ、この気色悪い文章。

こんなレベルの低い恋愛論なんか読んでたら
まともな女性は口説けないし、
それ相応のお馬鹿ちゃんしかひっかからないよ。

古典を読みなさい!文学を読みなさい!
いやしくも大学院を出るなら
恋愛教則本でもせめて岩波とかみすずから
出ている本を読んでくれ。
文庫でいいから。

小谷野の『もてない男』を読んで
潔いもてなさぶりに学べ!

com2による書き込み

読書会は勘弁して下さい。
ひきこもり系写真家なので(ニャニャニャニャーイ)。

たぬさんの指摘が面白かったので(僕もイタイんですが)、シゲのcom2以上の生真面目さにツッコミを入れてから眠りたいと思います。

> 例えば、目の前にいる女性とセックスすることだけを目的にしている男がその女性にむかって「好きだ。愛している。付き合ってくれ。」と言ったとします。男に嘘くささを感じた女性は「嘘つき。あなたは私の体だけが目的なんでしょう? あなたは私を好きではない。」と言ったとします。

この後二人は笑みを交わしてホテルへ。。。
ならダブルバインドに引き裂かれますか?

宮台の吉幾三問題を思い出しました。

http://www.miyadai.com/texts/azuma/02.php

金曜日、行くかもしれない、じゃだめ?
外出はするけどひきこもりがちなので。行けたら勝手に行きます。

M・ハマによる書き込み

[519]読んでびっくりして、もうおとなしくしてようと思ったのですが、ちょっと一言質問です。

> (1)演技ばかり見せつけてしまうと相手は不快になるのではないか。
>(2)演技をして自分の本来の目的を相手から見えないようにするのは卑怯ではないか。

シゲさんは、ほんとうに自分のやることなすことが「演技」に見えちゃってるのか?他人のすることなすことすべてが「演技」に見えてしまうのか?

もう一度、私が繰り返し言ってたことを別の言い方で言うと、僕らが「自分は演技している」という二重意識のもとで行動していることって、そうあるものじゃなく(むしろ芝居空間、詐欺、学習状況といった特別な状況)、普通は演技とかどうとかの意識なしに、先生やったり(未熟)、父親やったり(ちょっと苦手)、恋人やったり(めちゃ苦手)、いい人やったり(うそ)しているわけですね。演技であるという事実は、誰かから指摘されて(「だいちゃん攻撃」)あるいは、事後的に<あとづけで>わかること(だから「とりかえしがつかない」ような悔悟=嫌悪の念をともなったりするわけですが)なのじゃないか、ということです。

演技という二重意識のありようと、日常の実践における意識のありようの相互関係についてはよくわかりません(憑依論へのつながりあり?)が、少なくともこうした二重意識を維持し続けようとすると、円滑で優雅な振る舞いは難しくなりそうですね。走りながら、おっと今俺は右足を動かしているな、じゃ、次は絶妙のタイミングで左足だ、などと考えているようなもので、足が絡まって転倒するのがいいところ。

一方、他人の振る舞いがすべて「演技」に見えてしまう状況というのも、まあどんなもんでしょう。もはや他人と機嫌よくお付き合いできる状況でないことは確か。

自分に対して常に二重意識を発動させ、他人の振る舞いをつねにこの二重構造の中でながめることと、虚/実=表層/深層の単純で邪悪な二分法的世界観が、密接にからまっているように見えて、なんだかとってもいやぁな感じがした、というのが私のここでの一連の反応の引き金です(後付的説明?)

こうしたどうしようもない配置の中では、人は「真実の人」にはなれるかもしれないけれど、どう考えても「機嫌のいい人」にはなれそうにないですね。(僕は、ニホンジンの多くが大好きらしい、「ぼっちゃん」以来のこの「真実の人」「まっすぐな人」信仰がうっとうしくて嫌いです→私=いやな奴?)。

*[519]は、なんだかすごく小ざかしい、表面的な「演技のすすめ」みたいな提言(おまけにすごく月並みな)ですが、「そんな表面的な演技なんかすぐバレますがな、あんた。夫婦って怖いもんでっせ。」と言っておきたいと思います(謎)。

重森による書き込み

たぬさま

> こんなレベルの低い恋愛論なんか読んでたら
> まともな女性は口説けないし、
> それ相応のお馬鹿ちゃんしかひっかからないよ。

私はお馬鹿ちゃんになりたいのです。

> 古典を読みなさい!文学を読みなさい!
> いやしくも大学院を出るなら
> 恋愛教則本でもせめて岩波とかみすずから
> 出ている本を読んでくれ。
> 文庫でいいから。
>
> 小谷野の『もてない男』を読んで
> 潔いもてなさぶりに学べ!

さっそくamazonに注文しました☆

重森による書き込み

com2さま

> 読書会は勘弁して下さい。
> ひきこもり系写真家なので(ニャニャニャニャーイ)。

了解です。しかしこの効果音はなんなのよ?↑

> たぬさんの指摘が面白かったので(僕もイタイんですが)、シゲのcom2以上の生真面目さにツッコミを入れてから眠りたいと思います。
>
> >例えば、目の前にいる女性とセックスすることだけを目的にしている男がその女性にむかって「好きだ。愛している。付き合ってくれ。」と言ったとします。男に嘘くささを感じた女性は「嘘つき。あなたは私の体だけが目的なんでしょう? あなたは私を好きではない。」と言ったとします。
>
> この後二人は笑みを交わしてホテルへ。。。
> ならダブルバインドに引き裂かれますか?

ハッピーエンドですか!!

ダブルバインドとは、相矛盾するメッセージを相手に同時に発することによって、相手を論理的に混乱させることである、と私は理解しています。上記のケースにはダブルバインドは見当たらないように思います。体目当ての男が「愛している」というメッセージを発し、女はそのメッセージをそのまま受け入れもせず、かといって全面的にも否定しない。ここにはダブルバインドに悩む人間はひとりもいないと思います。

つまりこれが健康的な大人の会話なのですか!?

> 宮台の吉幾三問題を思い出しました。
> ↓
> http://www.miyadai.com/texts/azuma/02.php

ウインナーコーヒー…。
吉幾三のウインナーコーヒー的なるものがこの世界」なのでしょうね確かに。考えるだけ無駄なのですね。しかし考えることをストップできないから苦しいんだよね。

> 金曜日、行くかもしれない、じゃだめ?
> 外出はするけどひきこもりがちなので。行けたら勝手に行きます。

はーい。もしよければ絶対に来てください☆