確信について─本音野郎と建前娘の話(つづき)

はまさま

> シゲさんは、ほんとうに自分のやることなすことが「演技」に見えちゃってるのか?他人のすることなすことすべてが「演技」に見えてしまうのか?

いつもすべてが「演技」に見えるわけではないです。「演技」に見えない時もちゃんとあります。でも、そのときは本音のように見える演技か?と思うときもあります。しかしちゃんと本音で接してくる人もいるのも分かっています。

たまに「演技」に見えるのです。だから大丈夫です。

> もう一度、私が繰り返し言ってたことを別の言い方で言うと、僕らが「自分は演技している」という二重意識のもとで行動していることって、そうあるものじゃなく(むしろ芝居空間、詐欺、学習状況といった特別な状況)、普通は演技とかどうとかの意識なしに、先生やったり(未熟)、父親やったり(ちょっと苦手)、恋人やったり(めちゃ苦手)、いい人やったり(うそ)しているわけですね。演技であるという事実は、誰かから指摘されて(「だいちゃん攻撃」)あるいは、事後的に<あとづけで>わかること(だから「とりかえしがつかない」ような悔悟=嫌悪の念をともなったりするわけですが)なのじゃないか、ということです。

おっしゃることはよく分かります。しかし私にとって、上記のような考え方はとても新鮮でした。

> 演技という二重意識のありようと、日常の実践における意識のありようの相互関係についてはよくわかりません(憑依論へのつながりあり?)が、少なくともこうした二重意識を維持し続けようとすると、円滑で優雅な振る舞いは難しくなりそうですね。走りながら、おっと今俺は右足を動かしているな、じゃ、次は絶妙のタイミングで左足だ、などと考えているようなもので、足が絡まって転倒するのがいいところ。

まさしく、時折私の足は絡まってしまっているように思います。

> 一方、他人の振る舞いがすべて「演技」に見えてしまう状況というのも、まあどんなもんでしょう。もはや他人と機嫌よくお付き合いできる状況でないことは確か。

はい。非常に疲れます。だから私はしばしばひきこもるのです。

> 自分に対して常に二重意識を発動させ、他人の振る舞いをつねにこの二重構造の中でながめることと、虚/実=表層/深層の単純で邪悪な二分法的世界観が、密接にからまっているように見えて、なんだかとってもいやぁな感じがした、というのが私のここでの一連の反応の引き金です(後付的説明?)

いやぁな感じです。本当に。疲れます。

> こうしたどうしようもない配置の中では、人は「真実の人」にはなれるかもしれないけれど、どう考えても「機嫌のいい人」にはなれそうにないですね。(僕は、ニホンジンの多くが大好きらしい、「ぼっちゃん」以来のこの「真実の人」「まっすぐな人」信仰がうっとうしくて嫌いです→私=いやな奴?)。

どうしてこういう「真実の人」「まっすぐな人」が誕生してしまうのか。どうしてこのような人々に対する信仰が存在するのか。これらの問いに取り組むと、結構面白い研究ができるように思います。近代化とか近代的自我(←よく知らないのですが)とかが絡んでくるのかな。ゴッフマンとかも絡んでくるような気がします。

> *[519]は、なんだかすごく小ざかしい、表面的な「演技のすすめ」みたいな提言(おまけにすごく月並みな)ですが、「そんな表面的な演技なんかすぐバレますがな、あんた。夫婦って怖いもんでっせ。」と言っておきたいと思います(謎)。

いくら演技っぽく見えたとしても、そのことを指摘してはいけないとハマは言っていたと思います。不毛な薄皮剥きに精を出すのをハマは戒めたように理解しています。つまり虚/実という二分法にこだわらないことを勧めていたと思います。

しかし私にとっては虚/実という二分法はリアルなのです。だから、[519]の提言が、的を得たものとして受け入れ可能になっているのです。自分が実際に今思ったこと感じたことはリアルです。しかしそのリアルをそのまま表に出すと問題が起こります。だから、より良い世界が出現するよう、つとめて頑張って演技をするのです。これはよくあることだと思います。

そのときには、「自分は演技している」という二重意識のもとで行動していることになるので、そのことを意識しすぎると辛くなります。

これは私があまりにも自分のリアルを注視しすぎるからなのかもしれません。つまりここには、特定可能な「実」が存在してしまっているのです。

なんでハマは二重意識に捕われないのか不思議です。羨ましいです。

たぬによる書き込み

ううむ、なかなかコミュニケーションがうまくとれない(--;;。

> それ相応のお馬鹿ちゃんしかひっかからないよ。

私はお馬鹿ちゃんになりたいのです。

違うっちゅうねん。
シゲちゃんにとって面白くもなんともない
お馬鹿ちゃんしかひっかからないっちゅうねん。

ていうか、性欲処理だけのために近づきたいなら、
そういう女の子を探せばいいだけのこと。
そんなのいるはずない、という思い込みに囚われてませんか?
それとも性交のお手並みだけで相手に査定されるのが怖いのかな。
後にあっさり「ばいばーい」と言われたら
逆に「僕の体だけが目的だったのね」とか
言い出しちゃったりしてね。

自分が査定される恐怖を、相手の行動の虚実を査定し、
糾弾することに転嫁してませんか。

フィールドワークの心得(?)として指導教官に言われたことに
「人は自分相応のものしか見ることができない」というのがあります。
これは別に、フィールドに限ったことではないでしょう。
愚痴っぽい人はなにを見ても悲観的に、
楽天的な人はなにを見てもノープロブレムに物事を捉えたりするでしょう。

こうした既に培われた考え方の傾向を、破壊する可能性のあるものが恋愛なのではないでしょうか。
(つっこみ入れられる前に「近代西洋発祥」の、
とこれまたつっこまれそうな但し書きを急いで付け加えておいたりして)。

つまり、統一性のある自己とか、虚か実かという
近代主義的なフィクションを壊すものとして、
恋愛が、病のように恐れられもすれば
宗教のように讃えられたりもするようになったのではないですか。

現在は、恋愛の良さのプロパガンダばかりが一人歩きして
「恋愛教」が蔓延している、と小谷野はいいます。
そして彼は果敢にも叫ぶ。
本来、「選ばれた人」しかできないものなんだから、
「その他大勢」は恋愛を諦めるべきだ!と。

とはいえ「その他大勢」にも手軽に恋愛気分が味わえるように
漫画・ドラマや青年雑誌や[519]のような実業家さんが、
まともに傷つくことを避けるような「楽しい恋愛講座」をしてくれるわけですが。
(彼らはみんな、性愛・恋愛への欲望を喚起し、
結婚に定着させることによって儲かる人たちだからね)。
    
虚/実の二分法に囚われている点で、
嘘泣きした女の子たちも、シゲちゃんも、
私には同類に見えます。
そして、これは私の価値観でしかありませんが、そういう考え方は子供っぽく、独善的だと思います。

ついでにいえば、一度は演劇を志したものとして、
シゲちゃんによる本心/演技の区別も、浅薄すぎて許しがたいものを感じます。

大人になりましょう(@ピチカート・ファイヴ

ダブル・バインドよりも、バリ人の優雅な振る舞いに学べ(@ギアツ

M・ハマによる書き込み

> ちゃんと本音で接してくる人もいるのも分かっています。

> たまに「演技」に見えるのです。だから大丈夫です。
>
大丈夫っていうか...うーむ。やっぱり演技か素か、嘘か本音かの区別にこだわってしまってますね。その区別を通して見ることから抜けられないってことで、これはシゲちゃんの秩序の方法にとっての構造化する比喩なんだな、きっと。

ほとんどの行為や出来事には、実は、こんな区別があてはまらないんだと考えてみれませんか?たいていの行為は「灰色」で、演技か素か区別しがたいんだ、なんて言っているわけじゃありませんよ(こう言うこと自体、この「区別」にとらわれた言い方です)。たいていの行為にとって、そもそもこんな区別は関係ない。こんな区別は当てはまらない、not applicable, irrelevant, まとはずれということです。

たとえば、普通、誰かが水を飲みたいと言えば、たいてい水が飲みたいんだなと思うわけで、まめな人ならさっとグラスに入った水を差し出してくれるでしょう。そこで、はたしてそれは本心か、とか水を飲みたい振りをしているだけでは、とか、水を飲みたいと言うことによって本当は何が言いたいんだろうとか、問題にしたりしないわけです。
演技/素の区別をそもそも適用しようという気にもならないです。こんな区別、そこで進行していることにとってなんの関係もないからです。
僕らの周りでおこるほとんどは、ほぼこんな具合なわけで、演技/素、嘘/ほんとのパラダイムは行為の普遍的な枠組みなんてものからは程遠いものだとわかるはずです。

...まあ、自分が周りの人々や世界にチューニングがあっているときは。
でもときにチューニングが合わなくなってしまうときがくる。何が真で何が嘘か、どれが本音でどれが演技か、が突然問題になってくるのはこういう状況かもしれません。「水が飲みたいわ」と言われて、水の入ったコップを差し出すことがなんだか間抜けに感じる。彼女は暗に「部屋が暑苦しい、息苦しい」と言っているのだ。それは僕が一緒にいるから気詰まりだという意味だ。で、ドアを開けて、「いやなら帰れよ」とか言ってしまったりする。いや、それともこれは何かについてのさりげない合図かも。本当は何が言いたいんだろう。で彼女は僕のぐずぐず加減に頭にきて、自分で冷蔵庫に向かう。と、これほどチューンが外れる状況もそうないだろうけれど、逆に、周囲や世界と完璧にチューンがあってるような機嫌のいい人もそうはいないわけで、みんな適度にノイズや調子っぱずれと格闘しながら、四苦八苦して世界と付き合っているんだろう。

演技/素、虚/実のパラダイム(比喩)は、こうしたチューンはずれな状況を把握する(それに対する独特の対処法をも備えた)一種の比喩装置だと考えてもいいかもしれない。

人によって世界との調子っぱずれ具合には差があって、この比喩に直面する状況が頻繁な人と、それほどでもない人がいたりするのかもしれない。前者はまあ、頻繁にその比喩で世界を眺めざるをえないのだろう。でも、あくまでもそれは、調子がはずれたこうした非常時用の比喩、理解枠組みでしかない。とすると、それをそうした状況以外でも常時使用すること、あらゆる状況をその区別の比喩でながめようとすること、それが本来不適切な状況に強引にそれを適用しようとすることは、イカガナモノカなのではないだろうか。

そのことによって、状況はますますチューンのはずれたものになってしまうだろう。「だいちゃん攻撃」によって誰もが、自分は何か本音を隠して演技をしているんだといった後ろ暗い気分になって、もう右足を出してよいのやら左足を出してよいのやらわからなくなって、みんなが足を絡ませて転倒しまくるという状況が出現するかもしれない。調子っぱずれの状況を把握する比喩を適用すること自体が、状況を調子っぱずれにしてしまう。

そこでは誰も機嫌のよい人にはなれず、せいぜい真っ正直な本音な正義な人---でも調子っぱずれではた迷惑な---(まぁ、かつての私のような...)になれるだけ。

> なんでハマは二重意識に捕われないのか不思議です。羨ましいです。

週の半分以上を引きこもり生活している私がそう見えるとしたら、世の中機嫌のいい人だらけってことですね。というか、こうした二重意識と無縁な人はいないでしょう。でもこの二重意識をすべての局面に一貫して適用することも、同様に不可能なはずです。シゲだって、喫茶店でウエイトレスに「何になさいますか」と聞かれて、「ふん、おれのことに興味なんかないくせに、俺の希望を知りたいような振りをしやがって」「おまえ本当に俺のほしいものを知りたいのか」「いやいや、もしかしたら僕に食事にさそってほしいのかも」とか考えないはずです。

世界とチューンがあっていないと、いろいろしんどいですが、その状態を虚/実、演技/素の区別を通してしかとらえられないってことになると、ますますチューンが合いにくいことになって、それこそポジティヴ・フィードバックループ大爆発になりかねません。
シゲにとっては、今、この比喩はあきらかに有害です。実は世界はこんな比喩で動いてないんだ、こんな比喩はほとんどの場合不適切なんだと「合点」する必要があるのかも。「みんなどうせ演技なんだよ。人生は一幕の舞台さ。」なんていう、実はとっても機嫌のいい人(世界とチューンばっちりの人)の言い出しそうな気の利いたせりふを、けっして真に受けたりしないように。

重森による書き込み

たぬさま

> ううむ、なかなかコミュニケーションがうまくとれない(--;;。
>
> > それ相応のお馬鹿ちゃんしかひっかからないよ。
>
> 私はお馬鹿ちゃんになりたいのです。
>
> 違うっちゅうねん。
> シゲちゃんにとって面白くもなんともない
> お馬鹿ちゃんしかひっかからないっちゅうねん。

了解です!

> ていうか、性欲処理だけのために近づきたいなら、
> そういう女の子を探せばいいだけのこと。
> そんなのいるはずない、という思い込みに囚われてませんか?

そういう女の子が存在することを私は知っています。

> それとも性交のお手並みだけで相手に査定されるのが怖いのかな。
> 後にあっさり「ばいばーい」と言われたら
> 逆に「僕の体だけが目的だったのね」とか
> 言い出しちゃったりしてね。

むしろ、「性交のお手並みだけで相手に査定され」てみたいです。

私は非常に小心者なので、そのような状況をそもそも迎えることができません。つまり、性欲処理だけを目的とした女性を見つけるために、街で女性をナンパすることができないのです。したがって、「性交のお手並みだけで相手に査定されること」を恐れることができません。それ以前の段階でひよっております。

まずはナンパできるようにならなければと思います。

だから下記のような講習会に通おうかなと本気で思っています。

http://sanzi.net/

http://www.daisuke-souka.com/

> 自分が査定される恐怖を、相手の行動の虚実を査定し、
> 糾弾することに転嫁してませんか。

したがって上記の読みは私には当てはまりません。
しかし、セックスするに値する男かどうかという点で査定されることを恐れているのは確かだと思います。その恐怖を、相手の行動の虚実を査定し、糾弾することに転嫁しているのでしょう。要するに私は好かれたがり屋なのだと思います。

こーんなつまらないことで悩んでいるはやめたいですね。はっきりいって。なんとかして強くならなければならないと思います。

> フィールドワークの心得(?)として指導教官に言われたことに
> 「人は自分相応のものしか見ることができない」というのがあります。
> これは別に、フィールドに限ったことではないでしょう。
> 愚痴っぽい人はなにを見ても悲観的に、
> 楽天的な人はなにを見てもノープロブレムに物事を捉えたりするでしょう。

おっしゃることはよく理解できます。

> こうした既に培われた考え方の傾向を、破壊する可能性のあるものが恋愛なのではないでしょうか。
> (つっこみ入れられる前に「近代西洋発祥」の、
> とこれまたつっこまれそうな但し書きを急いで付け加えておいたりして)。

恋愛とは、相手を心から好きになることだと私は定義していました。しかし、「既に培われた考え方の傾向」を壊す側面も確かにあるのかもしれませんね。このことを立証する事例があれば、是非知りたいです☆

> つまり、統一性のある自己とか、虚か実かという
> 近代主義的なフィクションを壊すものとして、
> 恋愛が、病のように恐れられもすれば
> 宗教のように讃えられたりもするようになったのではないですか。

恋愛がそのようなものと主張できる根拠を教えてくれませんか?(お忙しいのであれば結構です☆)

> 現在は、恋愛の良さのプロパガンダばかりが一人歩きして
> 「恋愛教」が蔓延している、と小谷野はいいます。
> そして彼は果敢にも叫ぶ。
> 本来、「選ばれた人」しかできないものなんだから、
> 「その他大勢」は恋愛を諦めるべきだ!と。

それではなぜ小谷野さんは結婚したのだろう?と私は不思議に思っています。恋愛を諦めて、そのうえで結婚したのでしょうね。

http://www.shobunsha.co.jp/html/tyosya/tyosya-2k1-3.html

小谷野さんは相手の女性を心から想っているのでしょうか。これが気になります。

違和感を感じます。

私は結婚制度(戸籍制度)にも異議があるので、二重に違和感を小谷野さんに感じています。

> とはいえ「その他大勢」にも手軽に恋愛気分が味わえるように
> 漫画・ドラマや青年雑誌や[519]のような実業家さんが、
> まともに傷つくことを避けるような「楽しい恋愛講座」をしてくれるわけですが。
> (彼らはみんな、性愛・恋愛への欲望を喚起し、
> 結婚に定着させることによって儲かる人たちだからね)。

「まともに傷つくことを避けるような『楽しい恋愛講座』」という言葉の意味が分からないです。まともに傷つくとは、どういうことなのでしょうか? どういうときにまともに傷つくのでしょうか? 
    
> 虚/実の二分法に囚われている点で、
> 嘘泣きした女の子たちも、シゲちゃんも、
> 私には同類に見えます。
> そして、これは私の価値観でしかありませんが、そういう考え方は子供っぽく、独善的だと思います。

大人になりたいです。

> ついでにいえば、一度は演劇を志したものとして、
> シゲちゃんによる本心/演技の区別も、浅薄すぎて許しがたいものを感じます。
>
> 大人になりましょう(@ピチカート・ファイヴ

なれるものならなりたいです。いかにしたら大人になれるのでしょうか。

> ダブル・バインドよりも、バリ人の優雅な振る舞いに学べ(@ギアツ

私がバリ島で出会ったバリ人男性(なんという本質主義!)の何人かは、日本人女性と結婚していました。

私のインフォーマントであるバリ人女性は、そのようなバリ人男性のひとりについて次のように教えてくれました。

「あいつは、自分は独身だと言ってあの日本人女性と結婚したんだけど、実はバリ人女性の奥さんもちゃんといるのだ。で、バリ人女性の奥さんのほうは、日本人女性からお金がしぼりとれるという理由で、自分の夫の行動を全然咎めない。夫婦揃って口裏を合わせて日本人女性を騙しているのだ。」

これが「本当」のことだとしたら、確かに「バリ人」は優雅な人たちだと思います。ナイスチームプレーです。

私なら罪悪感に苛まれるように思います。

このクールな生活感覚を私は学ばなければならないのかもしれませんね☆

重森による書き込み

> > ちゃんと本音で接してくる人もいるのも分かっています。
> :
> > たまに「演技」に見えるのです。だから大丈夫です。

> 大丈夫っていうか...うーむ。やっぱり演技か素か、嘘か本音かの区別にこだわってしまってますね。その区別を通して見ることから抜けられないってことで、これはシゲちゃんの秩序の方法にとっての構造化する比喩なんだな、きっと。

構造化する比喩って格好いいですね☆

それはともかく、

ハマの仰るとおり、私は「演技か素か、嘘か本音かの区別」にこだわっています。それには下記のような理由があります。

私は、あくまでも、私自身が感じる否定しようのないリアルな思い(例、あの女性とセックスだけがしたい)を「素、本音、実」と呼んでおります。そして、この「素、本音、実」が確実に存在しているくせに、それを相手から見えないようにして、相手へ「好きです。愛しています。付き合ってください。」と言ったりすることを「演技、嘘、虚」と捉えているのです。

つまり、あくまでも私に関して言えば、「演技か素か、嘘か本音かの区別」は成り立つのです。

しかし、この区別を他人にも適用してしまうのが、私の悪い癖でした。今はこのことを十分理解しております。

皆が皆私のように邪悪な行いをするような人ではないと思うので、相手を疑うのは不毛(というよりも迷惑で酷い)な行為だと今では理解しています。

> ほとんどの行為や出来事には、実は、こんな区別があてはまらないんだと考えてみれませんか?たいていの行為は「灰色」で、演技か素か区別しがたいんだ、なんて言っているわけじゃありませんよ(こう言うこと自体、この「区別」にとらわれた言い方です)。たいていの行為にとって、そもそもこんな区別は関係ない。こんな区別は当てはまらない、not applicable, irrelevant, まとはずれということです。
>
> たとえば、普通、誰かが水を飲みたいと言えば、たいてい水が飲みたいんだなと思うわけで、まめな人ならさっとグラスに入った水を差し出してくれるでしょう。そこで、はたしてそれは本心か、とか水を飲みたい振りをしているだけでは、とか、水を飲みたいと言うことによって本当は何が言いたいんだろうとか、問題にしたりしないわけです。
> 演技/素の区別をそもそも適用しようという気にもならないです。こんな区別、そこで進行していることにとってなんの関係もないからです。
> 僕らの周りでおこるほとんどは、ほぼこんな具合なわけで、演技/素、嘘/ほんとのパラダイムは行為の普遍的な枠組みなんてものからは程遠いものだとわかるはずです。

仰ることはよく理解できます。しかし、上記の論理を私のような邪悪な人間が、おのれの主張を正当化するために利用するとも考えられます。

私は自分についてだけは、「演技/素、嘘/ほんとのパラダイム」がしっかり当てはまると思うのです。

うーん。自分を徹底的に悪いものとして描いているので、かなり抵抗があります。

しかし、やはりリアルなので、しょうがないです。

人を心から好きになれれば、演技をする必要はないと思うので、人を心から好きになれるようになりたいなと思うわけです。

> ...まあ、自分が周りの人々や世界にチューニングがあっているときは。
> でもときにチューニングが合わなくなってしまうときがくる。何が真で何が嘘か、どれが本音でどれが演技か、が突然問題になってくるのはこういう状況かもしれません。「水が飲みたいわ」と言われて、水の入ったコップを差し出すことがなんだか間抜けに感じる。彼女は暗に「部屋が暑苦しい、息苦しい」と言っているのだ。それは僕が一緒にいるから気詰まりだという意味だ。で、ドアを開けて、「いやなら帰れよ」とか言ってしまったりする。いや、それともこれは何かについてのさりげない合図かも。本当は何が言いたいんだろう。で彼女は僕のぐずぐず加減に頭にきて、自分で冷蔵庫に向かう。と、これほどチューンが外れる状況もそうないだろうけれど、逆に、周囲や世界と完璧にチューンがあってるような機嫌のいい人もそうはいないわけで、みんな適度にノイズや調子っぱずれと格闘しながら、四苦八苦して世界と付き合っているんだろう。
>
> 演技/素、虚/実のパラダイム(比喩)は、こうしたチューンはずれな状況を把握する(それに対する独特の対処法をも備えた)一種の比喩装置だと考えてもいいかもしれない。

人をチューンはずれな状況に陥れる行為こそが、ダブルバインドだったと思います。私は相手をダブルバインドに陥らせることを出来るだけ避けたいと考えています。私が自分の本心とは異なる言動を相手に示したくない理由のひとつがこれです。「好きだよ」と言いつつ厭そうな表情を相手に見せたくないのです。相手は混乱します。

しかし、ダブルバインドにかかるのは相手次第だとも言えるので、上記の私の心配は杞憂なのかもしれません。

> 人によって世界との調子っぱずれ具合には差があって、この比喩に直面する状況が頻繁な人と、それほどでもない人がいたりするのかもしれない。前者はまあ、頻繁にその比喩で世界を眺めざるをえないのだろう。でも、あくまでもそれは、調子がはずれたこうした非常時用の比喩、理解枠組みでしかない。とすると、それをそうした状況以外でも常時使用すること、あらゆる状況をその区別の比喩でながめようとすること、それが本来不適切な状況に強引にそれを適用しようとすることは、イカガナモノカなのではないだろうか。
>
> そのことによって、状況はますますチューンのはずれたものになってしまうだろう。「だいちゃん攻撃」によって誰もが、自分は何か本音を隠して演技をしているんだといった後ろ暗い気分になって、もう右足を出してよいのやら左足を出してよいのやらわからなくなって、みんなが足を絡ませて転倒しまくるという状況が出現するかもしれない。調子っぱずれの状況を把握する比喩を適用すること自体が、状況を調子っぱずれにしてしまう。

上の状況には、「世界はこのようなものである」という想定どおりの世界が実現してしまうという自己成就的予言がそのまま当てはまると思います。しかしこの理論を理解していながら、私はこの理論が描く悪循環にはまっているように思います。

他人に対して邪悪な比喩を適用するのをやめるには、まず第一に、自分自身に感じるこの邪悪な比喩の適切性に疑問を徹底的に感じることができなければならないように思います。私にはこれがまだできません。自分自身の邪悪さをリアルに感じてしまうからこそ、他人にもその邪悪さを見つけようとしてしまうのだと思います。自分が邪悪である限り、私は別の比喩で世界を眺めることが難しいと思います。またさらに、一度身についてしまった比喩は、それ自身なかなか無視することができないものなのかもしれません。

> そこでは誰も機嫌のよい人にはなれず、せいぜい真っ正直な本音な正義な人---でも調子っぱずれではた迷惑な---(まぁ、かつての私のような...)になれるだけ。

まさしくジョン・ナッシュって感じだと思います。彼はひたすら真っ正直な気がします。今、明日見る『ビューティフルマインド』の原作を読んでいるのですが、彼はとても周囲に迷惑をかけまくりです。本音だけではだめだと実感しています。

> > なんでハマは二重意識に捕われないのか不思議です。羨ましいです。
>
> 週の半分以上を引きこもり生活している私がそう見えるとしたら、世の中機嫌のいい人だらけってことですね。というか、こうした二重意識と無縁な人はいないでしょう。でもこの二重意識をすべての局面に一貫して適用することも、同様に不可能なはずです。シゲだって、喫茶店でウエイトレスに「何になさいますか」と聞かれて、「ふん、おれのことに興味なんかないくせに、俺の希望を知りたいような振りをしやがって」「おまえ本当に俺のほしいものを知りたいのか」「いやいや、もしかしたら僕に食事にさそってほしいのかも」とか考えないはずです。

それが、恥ずかしながら、「ふん、おれのことに興味なんかないくせに、俺の希望を知りたいような振りをしやがって」というリアルな思いをよく感じてしまいます。昔からそうです。だから、自分の実感を私は常に疑う必要があるのです。自分の実感を絶えず疑う私は、その実感を隠蔽しようと頑張ります。表に出さないように努めます。そうすると、演技をしているような気になります。すなわち、二重意識は必然的に生まれてこざるをえないのだと思います(←なんか最悪ですね。書いてて悲しくなってきました)。

> 世界とチューンがあっていないと、いろいろしんどいですが、その状態を虚/実、演技/素の区別を通してしかとらえられないってことになると、ますますチューンが合いにくいことになって、それこそポジティヴ・フィードバックループ大爆発になりかねません。

ものすごく昔からこのことは理解しているつもりです。

> シゲにとっては、今、この比喩はあきらかに有害です。実は世界はこんな比喩で動いてないんだ、こんな比喩はほとんどの場合不適切なんだと「合点」する必要があるのかも。「みんなどうせ演技なんだよ。人生は一幕の舞台さ。」なんていう、実はとっても機嫌のいい人(世界とチューンばっちりの人)の言い出しそうな気の利いたせりふを、けっして真に受けたりしないように。

有害であることは十分承知しております。私はある程度は「実は世界はこんな比喩で動いてないんだ、こんな比喩はほとんどの場合不適切なんだ」と「合点」できているように思います。

しかし、疲れるとたまに、この有害な比喩に己の世界の見え方を縛られてしまいます。完璧に「合点」できるようになるにはどうしたらいいのでしょうか。これが私の疑問なのです。

修士論文ではこの問題を扱ったつもりです。身に染み付き血肉化してしまった比喩の呪縛から別の比喩に己を再呪縛させる方法はないものかと思います。

邪悪な比喩に絡めとられないためには、新しい比喩に身を浸しまくればいいのではないかと思っております。つまり、いろいろな人とコミュニケーションしまくって、絶えず頭の中に健康的な比喩を叩き込み続ければいいと思います。これが救われる方法だと思っています。

M・ハマによる書き込み

> 私は、あくまでも、私自身が感じる否定しようのないリアルな思い(例、あの女性とセックスだけがしたい)を「素、本音、実」と呼んでおります。そして、この「素、本音、実」が確実に存在しているくせに、それを相手から見えないようにして、相手へ「好きです。愛しています。付き合ってください。」と言ったりすることを「演技、嘘、虚」と捉えているのです。

すごく表面的なレベルの話だったんですね。泥棒が善人のふりをして家の様子を窺っているといったのに類した....

>つまり、あくまでも私に関して言えば、「演技か素か、嘘か本音かの区別」は成り立つのです。

上のようなごく特殊な場面で、ごくまれには...ということですね。

定食屋でさばみそ定食をかっくらっている自分にも、この区別をあてはめたりしてますか?

たぬによる書き込み

オトナのなり方を考える前に人に聞いてしまうのはコドモなのではなかろうか。

でも、シゲちゃんは、もう社会にでるのだから
きっと私のような患者(長期入院中)よりも早くオトナになることができるに違いない。

まー、あとは、自分で考えてちょ。

ちなみに週刊誌の見出しみたいな材料だけで判断しないで
ちゃんと本を読んでから意見しましょう。小谷野さんは芸能人じゃないんだからね。

あと、バリ人夫婦と日本人女性に関しても、罪悪感に苛まされる自分を想像するより前に、
その背後にある「他人の事情」というものに思いを馳せるのがオトナと言うものではないだろうか。

まあ、そんなことは
自分で稼いで家計を切り盛りするようになれば自ずと
分かるようになるんじゃなかろうか。

というわけで、退院おめでとう。

M・ハマによる書き込み

しつこいよだけど、「誤解」があるといやだから「表面的」ってことの意味を補足しておきますね。ほんとうはこんな補足なんかいらないとは思うんだけど。

泥棒や詐欺師が、相手から巻き上げてやろうと思っているとき、その「本音」を相手に伝えることは、当の目的の達成を妨げるわけで、したがってその「本音」を隠して善良な紳士を「演技」することは、当初の目的にかなった、つまり彼の「本音」に忠実な行為だということになる。

つまりセックスがしたいだけという「本音」を見せないように「演技」することは、セックスだけがしたいという「本音」に忠実な行動だということです。だからシゲちゃんは、自分の本音にしたがって素直に生きてるんだから安心していいよ。

...って、要するに本音/演技の区別そのものが、てんで有効じゃないってことなんですが。

重森による書き込み

> オトナのなり方を考える前に人に聞いてしまうのはコドモなのではなかろうか。

なるほど!(←コドモ)。

> でも、シゲちゃんは、もう社会にでるのだから
> きっと私のような患者(長期入院中)よりも早くオトナになることができるに違いない。

かなりあやしいと思います。社会に適応できるかどうか心配です。

> まー、あとは、自分で考えてちょ。

自分で考えることには限界があるので、たまにご意見を聞かせて下さると嬉しいです☆

> ちなみに週刊誌の見出しみたいな材料だけで判断しないで
> ちゃんと本を読んでから意見しましょう。小谷野さんは芸能人じゃないんだからね。

すいません。先ほど『もてない男』が郵便で届きました! 今からじっくり読んでみます。

> あと、バリ人夫婦と日本人女性に関しても、罪悪感に苛まされる自分を想像するより前に、
> その背後にある「他人の事情」というものに思いを馳せるのがオトナと言うものではないだろうか。

たぬさんは、その対象について熟知しているように何事かを述べるわりには、実はその対象についてあまりよく知らないのではないかと感じました。暖簾に腕押しという感じがするのです。オトナになりましょうとたぬさんは言いつつ、肝心のオトナとは何か、明確に示してくれない。

なんか悲しいです(←コドモ)。

たぬさんが言うところのオトナとはつまり、

1、本心/演技の区別にこだわらない
2、自分でものを考える
3、他人の事情に思いを馳せる

という特性を備えている人のことなのですね?

そうであるならば、最初からそう言ってくだされば嬉しいです。オトナという意味不明な言葉を使わなくても、上記のことは説明可能ではないでしょうか。オトナというものを実は私はよく知りません。だからたぬさんに「オトナになるにはどうしたらいいのでしょう?」と質問させていただきました。するとたぬさんは、「自分で考えなさい」と突っぱねる。

オトナというのはつまり、メタメッセージ的に相手に学習させる行動パターンの名称でもあるのですね? そしてそのうえでさらに、「本心/演技の区別にこだわらない」という特性や、「他人の事情に思いを馳せる」という特性が加わるのですね?

…。

こんなふうに病的に厳密さを相手に求めるから、私はコドモなのでしょう。

> まあ、そんなことは
> 自分で稼いで家計を切り盛りするようになれば自ずと
> 分かるようになるんじゃなかろうか。
>
> というわけで、退院おめでとう。

ありがとうございます☆(と言いつつもなぜかあまり嬉しくなかったりする。何故だろう)。

重森による書き込み

> 泥棒や詐欺師が、相手から巻き上げてやろうと思っているとき、その「本音」を相手に伝えることは、当の目的の達成を妨げるわけで、したがってその「本音」を隠して善良な紳士を「演技」することは、当初の目的にかなった、つまり彼の「本音」に忠実な行為だということになる。
>
> つまりセックスがしたいだけという「本音」を見せないように「演技」することは、セックスだけがしたいという「本音」に忠実な行動だということです。だからシゲちゃんは、自分の本音にしたがって素直に生きてるんだから安心していいよ。

わーい。なんか嬉しいです☆。

しかし、まだ問題は残っていると思います。

私は以下のような前提に密かに捕われています。

1、恋愛とは、相手を心から好きになることである。
2、付き合うという行為は、心から好きな人と行うものである。

しかし、私はセックスがしたいだけという「本音」を見せないように「演技」します。つまり、セックスだけがしたいくせに、「付き合ってくれ」と言ったりします。

そうすると、上記の前提と矛盾してしまいます。

この矛盾が私にとって苦痛なのかもしれません。

本音に忠実であることと、上記の1と2の前提が、くいちがうのです。衝突するのです。ここに違和感が生じてるような気がします。

> ...って、要するに本音/演技の区別そのものが、てんで有効じゃないってことなんですが。

本音/演技の区別は確かに私の苦しみを説明するためには有効ではないような気がしてまいりました。

しかし新たな問題が浮上してきたように思います。

私を苦しめる張本人は、上記の1と2の前提であるように思えてきました。

orangeによる書き込み

以前、匿名希望という名で「最初に」書き込んだ者です。

[502]の話は面白いなと思いました。
比喩がリアリティをもって生きられてる状態、メカニズム、
ってどんななんでしょう。
それがわからずに[533]の救われる方法というのは、
ちょっと論理の飛躍を感じたり、感じなかったりです。

[519]の社長さんの言葉は、私は素直に読めました。
かつてうちの祖母が言った言葉に似ていました。
なんでもない一言でも、意外と自分に大切なのはいくらもあります。

表層・深層、うそ・ほんと、の話は、正直、よくわかりません。
ただ授業で聞いた話では、最近は「本当の自分」に悩むような人は減ってきているそうです。
むしろ、解(乖だったかも)離とかいって、幾つもの自分を渡り歩く人が増えてるそうです。。多重人格とかもそうなんでしょうか。

あと、臨床心理学の先生と人類学の先生の話です。カウンセラー(の卵?)にカウンセラーとはと説教するのは、よっぽど自信があって、しかも相手を思う気持ちがないとできないかなと思いました。
あ、ちなみに私の「攻撃?」には皆さんの為を思う気持ちなんてないです。現実逃避っす。(汗)

最後になりましたが、修士論文提出、お疲れ様でした♪
追伸。ハマさん(先生なのですか?)の例え話、たまに余計わかりにくいです(爆)

あすかによる書き込み

>私を苦しめる張本人は、上記の1と2の前提であるように思えてきました。

なんでもいいけどさ…私は人間は理屈じゃ変われないと思うよ。
悩みとか迷い(特に存在論に近いようなやつ)は、理屈やら分析やらで何もかも解決できるとは思えない。
恋愛本読んだからって、恋愛ができるわけでも、重ちゃんの恋愛の仕方が載ってるわけでもないでしょう。
この前の話とか、ここの書き込みとかの感想なんだけど、愛情も愛欲も性欲も、人の虚と実も、たぶん、ほとんど「観念」や「概念」でしか捉えられていないのかもしれないと思った。(否定するだろうけど。まあ、文章化すればことさら概念にすぎなくなるわけだけど、それにしても。)そのうちそれらが観念だけではなくなっていくと思うよ。大事なのは、好きになった人にも、好きだという自分の気持ちに対しても真剣に向き合って、時間をかけて信頼関係を作っていくことだと思うよ。「好きになった人」を「やろうと決めた仕事」とか「なりたい自分」に変えてもいいし。ある程度、自分自身とも信頼関係を作らなきゃ。演技云々の苦しみをどうにかするには、自分の痛みも人の痛みも、「痛みという観念」ではなくて「痛み」として感じられるようになることが重要だと思う。それはものの見方とかルールとか、そういう問題じゃないっしょ。

重森による書き込み

『今日の思い込み』をご覧のみなさま、大変お騒がせ致しました。

わたくし重森誠仁は『確信について─本音野郎と建前娘の話』という問題については、「考えること」をしばらく停止したいと思います。

ちょっと疲れてしまいました。

なんだか、考えても無駄なことに没頭しているようにも思えてきました。

というか、考えれば考えるほど、駄目になっていくように思えてきました。

もっと、「直感」とか「勘」とか、「身体性」だとか「ハート」だとか、そういう優しげでふにゃっとしたものに、進んで身を任せてみたいと思います。

もっと柔軟に自然に爽やかに機嫌よく流れるように、そして大げさに騒がずに、淡々と生きたいなと思います。

悩むことが目的になってしまっているようにも思います。これはむっちゃ不毛です。

きっと、「ああ!この人は!」と否応なく思えてしまう人に私はいつか出会えるのだと思います。そうすれば、私が私自身に感じる嘘くささは、消えてなくなると思います。もしかしたら、そういう人には一生出会えないかもしれません。これはとても寂しいけれど、それもまた運命なのでしょう。

そして、他人を「演技してるしてないという観点」から眺めることを、(なんらかの方法で)やめるようにしようと思います。そうとしか眺めることができないとしても、己のこの感覚をさっくり無視することに努めたいと思います。

いろいろコメントしていただき、どうもありがとうございました☆

orangeさま

どうもありがとうございます! もしよろしければ修士論文を読んでください☆

あすかさま

綺麗なおねーさんが書き込んでくれると重森は喜びます☆ しかし、あすかさんの主張にはちょっと納得がいかないところがあるので、今度会った時に議論しましょう。