修士論文発表会リハーサル後の反省

1、リアリティという言葉について

「Aが妖術にリアリティをもつ。」「Aは妖術をリアルに感じる。」

私が論文上で使用する上記の言い回しは、次のことを意味する。

「妖術という語彙の含まれた言明をAは違和感なく受け入れている。」

このことを本番の発表では視聴者に伝えるべき。

2、「存在する/存在しない」、「ある/ない」、「実在する/実在しない」という言い回しを妖術信仰について研究する際に採用することの誤謬

妖術信仰の当事者たちは、「妖術」という語彙を、上記のような「自然主義的な比喩」[前田 2004:4]のもとでは捉えない。しかし人類学者はこの比喩のもとで「妖術」を捉えてしまう。すなわち、人類学者は次のように言い切ってしまうのである。妖術は「客観的な存在ではない」[Evans‐Pritchard, E. E. 2001:75]。

そのうえで人類学者は「「妖術」という実在が自明視されるのはなぜか?」という問いを立ててしまう。今回の修士論文において私がしてしまったのがまさにこれである。

しかしこのような問の立て方は間違っている。

妖術信仰の当事者たちは「妖術」という語彙を用いて身近に起こった出来事について語っているだけである。ここには、「自然主義的な比喩」[ibid]はそぐわない。

例えば、「時間」という語彙を「時間を無駄使いする」「時間がない」という言い回しにおいて我々は使用する。その際我々は「『時間を無駄使い』すれば、その結果として『時間が足りなくな』ってしまうことが当たり前であるような秩序を生きている」[浜本 2001:146]といえる。しかし、「時間」が客観的に存在しているかどうか、我々は問題にしてはいない。ただただ「時間を消費する」や「時間がない」という言い回しを使用し、自らの状況について語っているだけである。時間と呼ばれる物質が存在するかどうかいちいち考えていない([502] 比喩のリアル参照)。

したがって私は以下のような問いを設定するべきであった。

「いかにして当事者たちは妖術の語彙が含まれた言明を違和感なく受け入れることができているのか?(=真に受けることができるのか?)」

つまり私の修士論文は致命的な問題を抱えているといえる。

とはいえ、妖術という概念と時間という概念を同じものとして扱っても良いのだろうか?

3、ファブレサアダが妖術をリアルに感じたことについて

「ファブレサアダは妖術をリアルに感じた」と修士論文において私は記述している。

しかし彼女はただ単に、調査地における情報提供者から聞いた話に一時的に恐怖を感じているだけではないだろうか?

もしもそうだとしたら、「ファブレサアダは妖術をリアルに感じた」とは言えないのではないか?

幽霊を扱ったホラー映画を見た後に、一時的に我々は暗闇を恐れたりする。

このときの我々について、「我々は幽霊をリアルに感じた」と述べることは、少々大げさではないだろうか?

いや。でも、一時的に幽霊や妖術に怯えることも、「幽霊や妖術をリアルに感じた」という言い回しで表現できることにしよう。そのように本番では皆に説明しよう。

いいのかこれで?

4、「I think, but still...」という言い回しが指し示す、信仰をめぐる白黒判別つけがたい灰色の領域を、私は無視していることについて

例えば私は宇宙人はいないと確信している。だから、「もしかしたら宇宙人はいるのかも...」と私は思うことがない。つまり、灰色の領域、白黒判別つけがたい状況に陥ることが皆無なのである。

ただし、『エイリアン』や『惑星からの物体X』などの宇宙人を扱ったホラー映画を見ている最中や、見終わった後に、一時的に暗闇が怖くなるときはある。

しかし私が3において行った宣言に忠実に従うならば、上記の状態の私は「宇宙人をリアルに感じている」と記述され得ることになる。

これは問題ではないだろうか。

なんか変だ。

もうちょっと「○○をリアルに感じる」という、修士論文上で自分自身が使用する重要な言い回しについて、発表本番前まで考えてみよう。

◆1/31/2004 8:00 PM 加筆

亜細亜主義北一輝〜21世紀の亜細亜主義』という文章の中で宮台氏は北一輝について論じている。北一輝が提示する理論には、論理的整合性が十分に確認できることを認めつつ、さらに一方で宮台氏は、北一輝の擬古文そのものに、別の次元で聞き手に作用する「言葉の力?」とでも呼びうるような「なにか」を見出している。

「皆さん、擬古文──森鴎外の『舞姫』でもいいですよ──で「声に出して読む日本語」をして下さい。何かこう、力が湧いてきませんか(笑)。気高い精神性が自らに宿ったかのごときミメーシスが生じませんか(笑)。「宮台、またおかしくなりゃがった」と思われるかもしれませんが、やってみてください。こういうことに免疫がないと、自分が〈表現〉に説得されているつもりが、実は〈表出〉に感応させられているだけなのだ、という勘違いが起こりえます。」[宮台 2004]

表出という概念について私はなにも知らない。しかし、「感応」という言い回しを用いて宮台氏が上記で言わんとしていることは、明らかにリアリティの問題であることは理解できる。

宮台氏が伝えたいことは、亜細亜主義という概念の内容である。これが彼の論考のメインの部分である。私はこの議論にも強く興味を覚えた。

しかしそれ以上に、宮台氏の議論の後半部分において、やや唐突に言及されるリアリティ(=体感、臨場感、アウラ?)をめぐる問題に、非常に興味をひかれた。

普通の人が宮台氏の上記の考察を読めば、「なんてオカルト的な議論だ」と即断し、彼の主張を否定すると思われる。

しかし私は宮台氏の主張を否定することができない。

我々は論理だけで動いていない。それ以外の「なにか」に強く呪縛されて生きているはず。すなわち言葉(の力)に。すなわち比喩に。

我々は比喩的な言い回し(を使用したり、読んだり、聞いたりすること)によって、なんらかのリアリティに生きることを余儀なくされているはず。

いや。もしかしたら宮台氏が問題にしていることは、単に音の問題ではないだろうか? 聞いていて耳に心地よい音波(=空気の振動)があるという、至極単純な事実が問題にされているだけではないだろうか?

だったら比喩がどうのこうのという話ではなくなるな。

◆2/01/2004 8:00 PM 加筆

ある文章が論理的整合性を備えていると人々によって絶賛されているとき、その文章の中には、「比喩的な論理」も含まれていると考えられる。

そうであるならば、当該の比喩に、馴染みの無い人々にとっては、その文章は、非合理的なものとなる。真に受けることのできないものとなる。

したがって万人にとって論理的な文章を書くことは不可能になる。

しかしこのことを回避する方法はある。

その文章中に現われる比喩の形態を、相手が既に生きてしまっている比喩に出来るだけ近いものにしたり、相手が既に生きてしまっている比喩に主眼を置いて、自らが使用する比喩を、相手が生きる比喩を少しだけ変形させたものとして提示できるかどうかが重要なのだ。

人を納得させるという作業はかくも難しい作業なのだ。

相手が自分の押し付ける比喩を素直に盲目的に受け入れてくれるならば、自分が矛盾しないかぎり、説得は可能になるはず。

ということで、比喩を自由自在に使いこなせるようになりたい。

◆2004年1月30日現在の重森誠仁 2/01/2004 23:49 PM 加筆

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~shigemori/19.jpg

健康そうな私の写真が撮れたので思わず開示。

虫歯が一本見つかったけど、私は元気です。

◆参考引用文献

Evans‐Pritchard, E. E. 1937 『Witchcraft, Oracles and Magic among the Azande』 Calrendon Press(邦訳『アザンデ人の世界』向井元子訳、2001年、みすず書房

浜本満 2001 『秩序の方法』 弘文堂

前田健一郎 2004 「マオリ研究の系譜─1920〜30年代ニュージーランドにおける「文化接触」研究と、アピラナ・ンガタの集会所建築プロジェクト」 一橋大学大学院社会学研究科修士論文

宮台真司 2004 『亜細亜主義北一輝〜21世紀の亜細亜主義』 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=67