傾向性

やはり傾向性dispositionについて考えてみたい。

基本的に私は、周囲の人々から疎んじられていると思い込んでいる。

周囲の人々は私を憎み嫌っている。そう私は確信している。

例えば私は、目の前で私に笑顔を見せている他者に対し、「演技しやがってこの野郎」と思うことがある。それもかなりの頻度で。

小中高時代と較べて、今は段々その頻度は少なくなってきた。

現象学や人類学といった学問に浸りまくることによって、上記のような思い込みに飲み込まれてしまうことから、私はかろうじて身を翻すことができるようになった。上記のような思い込みに振り回されることを、なんとかして食い止めようと試みることができるようになった。

これはとてもいいことである。

しかし油断していると、あっという間に私は、「周囲の人はみんな敵である」という命題をリアルに受け取ってしまう。

それだけ強く、「周囲の人はみんな敵である」という命題に、私は呪縛されているといえる。

もちろん、周囲の人々は、私を嫌っているわけではない。また、私を好いているわけでもない。さらに、私のことなどなんとも思っていない人もいるに違いない。私に対する人々の思惑は、さまざまな種類のものがあり、そしてそれらには人により濃淡があるのである。

しかし私は、本来は容易には割り切ることができないような上記の事態を、「周囲の人はみんな敵である」という命題を用いて、分かりやすくまとめあげてしまう。

私は「周囲の人はみんな敵である」と思い込んでいるのである。

演技か素か、という二項対立に私がこだわってしまうのは、私が自分自身を「他人に忌み嫌われる存在」として勝手に捉えているからである。

他者がふいに私に見せた好意的な言動は、私には本来不適切な種類のものだと、すぐさま私は判断してしまうのである。

つまり、私を呪縛する「周囲の人はみんな敵である」という思い込みの力はあまりにも強いので、この思い込みと相反するような、他者によって示される言動は、有無を言わさず「演技(まがいもの)、偽物、嘘」として私に受け取られるのである。そのように翻訳されてしまうのである。

このような、傍から見たらひねくれているとしか思えない私の有様に対し、「意地をはるな」というコメントをして下さる人がいる。「人に優しくされたら本当は嬉しいだろ? 素直になろうぜ」というコメントである。

私は断言したい。私は故意に意地をはっているのではない。意地をはろうという意図を持っているのではない。どうしてか自然にあらがいようもなく否応なく、そのようにリアルに感じてしまうのだ。

そもそも、「意地をはる」という言い回しは、もともと意図して遂行できるような種類の行為ではないのではなかろうか。観察者が被観察者に対して使う言い回しであるように思える。もしくは、自分自身を俯瞰して内省的に把握しようと試みたときに、はじめて自分が自分に対して使用することのできる言い回しに思える。

したがって、「周囲の人は私を忌み嫌っている」という命題をリアルに感じている私には、「意地をはっている」という指摘が当てはまる。しかしただそれだけである。このように指摘されたからといって、私は自分自身が陥ってしまっている状態から逃げ出すことができるわけではない。そして、自ら自分自身に対して、このような言い回しを使用することも難しい作業なのである。

すなわち、私が直面している状況は、私が一生懸命努力しても、どだい制御することのできない種類のものなのである。「意地をはるな」と言われて、「そうですね☆ これからは意地をはらないようにしますね♪」と答えて、意地をはらないようにできるものではないのである。

私は穴にはまっているようなものなのである。気がつくと地中深く落ち込んでしまっている私に対して、上から覗き込むようにして誰かが「穴には落ちないように」と忠告してきても、穴の底にいる私は、ただただ困ってしまうのである。「好きで穴に落ちたんじゃないよー。いつのまにか落ちているんですー。」と泣きたくなってしまうのである。

「意地をはる」という言い回しについてはさておき。

「周囲の人は私を忌み嫌っている」という命題だけでなく、「自分は邪悪な人間だ」という命題にも、私は捕われている。

だから他人に優しく働きかける自分自身に気付いた途端、私はいやぁな感じに襲われるのである。「本音を偽って演技をしてしまっている」という罪悪感にさいなまれてしまうのである(←単にその時の機嫌が悪かっただけでは? 常に他人に対して優しい気持ちを持てる人は稀ではないだろうか? それに不機嫌な気分の時はそれをそのまま相手に見せる必要は全然ないようにも思える。単にわがままな人を「誠実」とは呼べないだろう)。

まさしく、がんじがらめである。

笑いがとまらない。

私は、私が呪縛されるところの命題通りの現実を、自ら作り出さずにはいられないのである。他人に嘘くささを認めた私は、相手を嘘つきとなじる。また、相手に出来るだけ優しく振舞ってしまわないよう努めるあまり、私は相手につっけんどんに対応する。その結果、「周囲は私を忌み嫌っている」という命題に合致した現実を私は見事に実現させてしまうのである。

かくして私の思い込みは正しい現実認識となる。

もちろん悲しい。

しかしどこかでしっくりきていたりもするのである。

慣れ親しんだ故郷にいるような気分なのである。

苦しくて悲しくてとてもとても厭なのだけれど、居心地がいいのである。やっぱこうでなくちゃと納得してしまうのである。

まるで、虐待され続けた人間が、自分自身が虐待され続けている家庭から逃れることをいつしかやめて、その環境を愛してしまうようになるように。

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自分の周囲に張り巡らされた檻の存在を強固に否定しつつも、なぜかその檻なしでは生きられなくなるという、薄気味悪い共依存状態なのである。

パターンにはまっているのである。

アル中の夫から離れることのできない妻なのである。

いままで私は複数の女性に同じセリフを言われたことがある。彼らはお互いに全然面識がないのだが、「あなたはいつのまにかひとりでいなくなってしまいそうだ」と言った。

やはり私はひとりになりたがり屋なのである。悲しいけれどホッとするのである。

私はこれまで、命題という言葉を用いて、自分自身のひねくれた状態を説明してきた。

しかし、命題という言葉は不適切な用語のように思える。私自身の状態を説明するのにそぐわない言葉に思える。

なぜなら、私は他人を前にしたとき、なんともいえない恐怖を感じるからである。これはまさに、「言葉にできない」ものである。感覚なのである。とにかく怖いのである。出来ることならその場から逃げ出してしまいたくなるような、いやぁな感じなのである。

このような状態に陥っている私に対し、「周囲の人は私を忌み嫌っている」という命題を貼り付けることは、適切な行為ではないように思える。

私は脅えているのである。

「周囲の人は私を忌み嫌っている」という命題は、否定しようのない恐怖の真っ只中にいる私にとって、どこか間延びした言葉なのである。言葉で表現できないものを、無理矢理言葉で表現しようとする際に感じる違和感が、ここにはあるのである。

で、何が言いたいかというと、世界の見え方を根本から変えることは難しいな、ということなのである。

しみじみとそう思ったのである。

世界の見え方を変えるために、私はこれまで様々な活動に従事してきた。箇条書きすれば次のようになる。

1、精神科で薬を処方してもらい、それを飲む
2、自律訓練法を習う
3、スポーツをする
4、旅に出る
5、社会学や人類学といった学問に埋没する
6、日記をサイトで公開し、他者に私の思い込みを指摘してもらう

上記の活動の中で、特に私にとって有益なのは、6である。思い込みから完全に離脱することはできないが、私が目下感じているところの感覚が、「本来は」感じる必要のない感覚であるということを、6の営みは教えてくれる。1もなかなか効果があるが、あまり長続きしない。2はとにかく時間がかかるのであまりお奨めできない。3はそこそこにいい。しかし対症療法的であるのは否めない。4もそこそこ。しかし金がかかる。5についてはメリットとデメリットがある。メリットは、人はさまざまな虚構を生きる動物であることを知ることができ、自分にもその考えを適用させて、幾分気持ちを落ち着かせることができるところだ。デメリットは、研究生活を開始すると、部屋にひとりで引きこもることを余儀なくされるので孤独になってしまい、かえって邪悪で単純な思い込みを強化してしまう可能性があることである(←だからウェブ日記を書くんだろ)。

私は「時に暗く時に明るい、神経質で思い込みの激しい、引きこもりがちだけど果敢に他者と関係していくことをあきらめない、一部の人々にカルト的な人気を持つ、ややユニークでファンタスティックな人間」だ。

昨日、私は思い切って自分自身を上記のように描いてみたが、やはり違和感があった。

この違和感に触発されてついつい文章をだらだらと書いてしまった。

(↑いや上記の自己イメージは結構言いえて妙ではないだろうか?)