比喩のリアル


私は以前、妖術(≒呪術、邪術、呪い)について修士論文を書いたことがある。

そこにおいて私は、次のような問いを立てた。

「妖術とそれにまつわる活動に従事する人々は、どうして妖術の実在を確信することができるのだろうか?」

しかし、論文提出後になって、友人の人類学者から、次のような突っ込みを受けた。

「妖術の実在を確信していなくても、人は妖術の話をリアルに受け止めるのでは?(=妖術の話に脅えるのでは?)」

全くその通りだと思う。

自然科学的な思考に偏るあまり、実在にこだったのがいけなかった。自分自身が使用する「言い回し」に含まれているなんらかの存在について、人はそれが客観的物理的に実在しているかどうかいちいち把握してはいない。このことに今になって気付いた。

友人の指摘を受け入れることができるようになったのは、レイコフの『認知意味論』を読み始めたからともいえる。

レイコフは次のように述べている。

「もし私が<時間は資源である>というメタファーを受け入れ、そのメタファーに基づいて行動するならば、「ある人が今朝私の時間のうち1時間を消費した」という文は真となり得る。このことは、経験基盤主義の真理についての説明に基づけば理解することはできない。われわれにとって最も重要な真理の多くは物理的な真理ではなく、人間が概念体系に一致した行動をとる結果生じる真理であり、そのような概念体系は、人間の経験から完全に切り離された現実に適合するとはとても言えない。人間の経験もまた、岩や木や猫や敷物と全く変わらないくらい、やはり現実なのである。われわれがわれわれの概念体系に一致した行動をとり、そしてわれわれの行動が現実のものであるために、われわれの概念体系は現実を創造する際に主要な役割を担っていると言える。人間の行動が関わる場合、形而上学、すなわち、何が存在し、何が現実であるのかということについてのわれわれの考え方は、人間の理解や知識という広い意味での認識論から独立したものではない」[レイコフ 359:1993]。

つまり、私は「経験基盤主義の真理」もしくは「物理的な真理」にこだわるあまり、「概念体系」または「比喩的論理」の領域を無視しすぎていたのである。

「時間を消費した」と我々が語るとき、我々は必ずしも「時間」という存在を客観的物理的に実在するものとして把握してはいない。言及しはするものの、それが実在するかどうかなど気にもとめていない。

妖術についても同様ではないか?

「妖術が不幸を引き起こした」と人が語るとき、その人は必ずしも「妖術」という存在を客観的物理的に実在するものとして把握してはいない。言及しはするものの、それが実在するかどうかなど気にもとめていない。

私が立てるべき問いは、「妖術の実在を人はいかにして確信できるのか?」という問いではなく、「なんらかの比喩的な言い回しをいかにして人は違和感なく使いこなせるようになるのか?」という問いだったのだ。

「時間を消費する」「相性の悪さのせいで齟齬が起きる」「つきのなさが原因でギャンブルで負ける」

こういった比喩的な「言い回し」がリアルに感じられるメカニズムを、私は明らかにするべきだったのだ。比喩的な表現が人に血肉化されるプロセスを明らかにするべきだったのだ。

「「時間」を大切に使う」「時間を無駄に使う」といった表現をドゥルマ語に直訳しても、意味をなさない表現になる。しかし英語を学んだ若者たちが、ドゥルマ語の会話に、英語で表現されたこの表現を挟み込んで使っているのを耳にしたことがある。またスワヒリ語の「時間を失う(ku-poteza wakati)」という表現も彼らによってしばしば使われている。ある語り口の採用は、ある経験を身につけることに等しい。彼らは、こうした新しい表現にそって時間というものを眺める見方を手にいれて始めているのかもしれない。」[浜本 2001:126]

「いかにしてドゥルマ族の青年たちは、彼らにとっては奇異に思えたであろう「時間を無駄に使う」という比喩的な言い回しの英語を違和感無く使いこなせるようになったのだろう? どうやって「ある語り口を採用」できるようになったのか? どうやって言葉(=ある語り口、比喩的な表現)にリアリティをもつことができるようになったのだろう?」

私は上記の問いを立てるべきだった。

「あるものを何か別のものに見立てるということ、つまり比喩としての比喩と、それがその別のものに見えてしまうこと、つまりリアリティとの違いなどわずかなものである。もっともウィトゲンシュタインのアヒル・ウサギの絵にアヒルを見るかウサギを見るかといった二つの見方を行き来するようには簡単には行き来できない。それが単なるものの見方の問題ではなく、世界に対する実践的な姿勢の問題、生き方の体制化までをも含んでいるとすれば──そして構造的比喩の問題はまさに生の体制化の問題にかかわっているのだが──そのわずかの違いを実践的に行き来することは頭で考えるほど簡単ではないだろうし、頭で考えただけでは無理な相談だろう。しかしそれが自他の絶対的な差異を根拠づけるほどのものであるわけではない。」[浜本 2001:257-258]

「ある種のリアリティは比喩によってしか語ることができないし、あるいは同じことなのだが、リアリティとして経験されてしまっている比喩もある。単一の孤立した比喩によってというよりは、互いに関連しあった比喩群、比喩的な語り口の網の目によって、と言った方がより正確だろう。そのとき人は、いわば比喩が作り出している網の目にあまりにも絡みとられてしまっているので、自分が現実だと思っているものをまさに見えるようにしてくれているのが、自分の身体を支えているその網の目であるという事実が見えなくなっているのだ。(中略) しばしば特定の経験について具体的に語るための唯一の語り口となってさえいるこれらの表現は、もはや修辞学的な意味での比喩ではなくて、その特定のリアリティについての字義通りの表現であるような比喩であり、ということは、それに絡みとられた当人たちにとってはそれらは比喩などではなく事実の記述そのものである。そしてまさにその同じ理由から、それに絡みとられていない者には、これらはまったく無意味であるか、せいぜいのところ単なる奇異な比喩にしか見えようがないということにもなる。」[浜本 2001:258-259]

参考引用文献

浜本満 2001 『秩序の方法』 弘文堂
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4335560982/qid=1074079491/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-8962794-9568309

ジョージ・レイコフ 1993 『認知意味論』池上嘉彦訳 紀伊国屋書店
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314005750/ref=sr_aps_b_2/249-8962794-9568309