私は「呪われている」という「言葉」を多義的に用いすぎている。これはまずい。


「呪われている」という「言葉」で私が頭に思い浮かべている事態は多岐にわたる。今後の議論を円滑に進めるためにも、ここにその種類を明確に列挙しておきたい。

1、「出来事Aと出来事Bが結び付けられている命題」のその内容を鵜呑みにしていること。

 例

「私が病気になったのは、隣人がかけた妖術のせいである」と、調査地の人々は人類学者に語る。ここでは「私が病気になったこと」という出来事と、「隣人が妖術をかけたこと」という出来事が、結び付けられているといえる(注1)。かくして、このような事態に遭遇した際に、「彼らは呪われている」という「言葉」を、人類学者は使用する。なお、「出来事Aと出来事Bが結び付けられている命題」は、「物語」や「言説」という「言葉」によっても言い換えられる。すなわち、「出来事Aと出来事Bが結び付けられている命題」=「物語」=「言説」ということになる。

2、「言葉(=比喩、メタファー」そのものを、世界について言及する際に、ある人が違和感なく当たり前のように使用し、かつそれによって思考し、さらに悩んだり悲しんだり喜んだりしていること。

 例

「俺、彼女と別れたんだ」「えっ! マジ?」という会話を、日本のとある街角で人類学者が耳にしたとする。ここで使用されている「別れた」という「言葉」は、「定義することによって初めて遂行可能となるような行為」、すなわち、「構成的規則」の性質を持つ行為に付けられた「名前」である。つまり、「構成的規則」の性質を持つ行為は、常に「比喩的な言い回し(=メタファー)」でしか表現できない、ということである(注2)。このような、「比喩的な言い回し(=メタファー)」を人が違和感なく当たり前のように使用し、かつそれによって思考し、さらに悩んだり悲しんだり喜んだりしている事態に遭遇したとき、人類学者は「彼らは呪われている」という「言葉」を用いて彼らについて言及するのである。

3、なんらかの命題のその内容を鵜呑みにしていること。

 例

口裂け女が街に出没する」という命題を鵜呑みにして恐れおののく人々を前にしたとき、人類学者は「彼らは呪われている」と述べる。なお、3は1とほとんど同じである。しかし3は、1を細分化したものといえる(注3)。

以上の3つの意味において私は、「呪われている」という「言葉」を使用している。

・注1

「丑三つ時に藁人形に五寸釘を打つと、憎い相手が死ぬ」という、最も我々にとって馴染み深い「丑の刻参り」の話も、1の範疇に含めることのできるものである。

http://www.urami.net/index.htm

ここでは、「丑三つ時に藁人形に五寸釘を打つこと」という出来事と、「憎い相手が死ぬ」という出来事が結び付けられている。話はそれるが、このような結びつきがどうして成立するのかという問題について考えたのが、フレイザーウィトゲンシュタイン、そして浜本満であった。彼らとは異なった観点から、私はこの結びつき自体が成立している理由について考察している途中である。この結びつきは、ベイトソンが提起した「メタファーの三段論法」、つまり、アブダクションの考え方によって、「論理的に」説明することができるような気がする。

10月19日を参照のこと
http://member.nifty.ne.jp/simokitazawa/new99-10.html

3月3日を参照のこと
http://member.nifty.ne.jp/simokitazawa/new03-03.html

つまり、

藁人形は釘で打たれる
憎いあいつは釘で打たれる
藁人形は憎いあいつである

というふうに、人は「論理的に」納得できてしまうからこそ、このような結びつきが説得力をもって成立するように思われる。

・注2

まさしくこの部分に関して、比喩とリアリティについて思索したレイコフやニーチェによる議論が関わってくる。

・注3

「黒人はスト破りをする」「A型は几帳面である」「隣人は私を憎んでいる」という命題もここに含まれてくる。