春だ!痴的に爆発青二才


今日は、東京大学駒場キャンパスで、「人類学の古典を読む会」に参加してきました。

サーリンズという人が書いた『歴史の島々』という古典について、皆で議論を行いました。

この本の中には、「構造」という言葉がいっぱい出てきます。青二才は「構造」という言葉の意味が分かりません。

だから言ってしまいました。皆の前で堂々と。「私は構造は分かりません」と。

さらに、参加者の一人が「構造といっても、その言葉を使用する論者により意味あいが大きく異なる。だから、どのような視点から議論をするのかあらかじめ決めたほうがいいのではないか」という提案をしました。

それを受けて、別の参加者が次のように言いました。

「人類学の論文には曖昧なところが多々ある。ルールを決めたほうがいいかもしれない。」

早とちりで思い込みの激しい青二才は、脳髄反射的に以下のようにくってかかってしまったわけです。

「人類学のウリは、多様性であって、何でもありなところではないですか!!むしろ!!」

変な口調でいきなり喋りだした目つきのやや鋭い青年に対し、参加者は「いや。それはそうなんだけど…。」と返答に窮する。

妄想青年はここぞとたたみかける。

「いちいち、論文中に出てくる言葉の定義をしていたら、きりがないですよ!さっきから議論中に出てくる言葉の中にも、意味不明なものがいっぱいあるじゃないですか! 構造もそうですが、例えば、文化とか、歴史とか。これらをいちいち定義するんですか!」

妄想青年はまだ、この時点においては、自らの重大な問題傾向に気付いていない。

そして後でやっと気付くのであった。やはり思い込みが激しい上に、昨日呼んでいた本の影響をやすやすと受けてしまい、自分が耳にするすべての言葉を、その本のコンテクストに基づいてやすやすと解釈し、一人勝手に爆発してしまうことに。

「そもそも人類学は、中心的なものの見方や考え方に対して異なる見方や考え方の可能性を示し、その多様性のなかに人間の未来の可能性を賭けようとしてきた学問でした。(中略) 単一性への統一によりも、分散し共振し合う多様性のなかに未来の可能性を見る、そうした学問が自らの未来のヴィジョンを単一の色で染め上げてしまうわけがないではないですか。本書を読んでかえって人類学がとらえどころがなくなったというあなた、あなたはある意味で正しく本書を読んでいるのです。」(浜本 2005:300)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4790711021/249-6544120-3099550

コンテクストが違うだろう明らかに。

誰も人類学のあり方を問題にしていない。人類学の論文上における用語の意味を、できるだけ明確に分かりやすく定義したうえで、議論をしようというだけの話ではないか。

言葉の意味が人によって異なっていたら、議論が成り立たない。この混乱状態を、多様性という言葉で言い換えようとするのは、いかがなものか。

妄想青年は、相変わらず、青二才であった。
2005年4月24日(日) No.38
重森 2005/04/25/21:04:27 No.39
しかし、我々は、「文化」や「構造」や「歴史」といった言葉を耳にしたとき、まさになんとなく、「いい」加減に、自然に普通に、なにごとかを理解しているのではないだろうか? いくらこれらの言葉が、突き詰めて考えてみると、よく分からないものだとしても、これらの言葉を操ることによって、他者を納得に導くことができるではないか。そしてそのとき、他ならぬ自分自身も、これらの言葉に違和感を感じることはほとんどないではないか。

レイコフが言うところの「メタファー」を、違和感なく使いこなすことと、上記の「文化」や「構造」や「歴史」といった言葉を違和感なく使いこなすことの間には、どのような関係があるのだろうか。あるいは、関係などないのであろうか。

初めて行った外国で、慣れない現地語を話しているとき、まるで自分が単なる音の羅列を口から出しているだけのような、妙な浮いた感覚を感じることと、上記の話題には何か関係があるのだろうか?

とある人類学者が、「火」という漢字を30回書けば至ることができるとした、あの感覚は、今回の私の問題意識と、どのように接続できるだろうか。

http://megalodon.jp/fish.php?url=http://web.archive.org/web/20040607064509/http://bunjin6.hus.osaka-u.ac.jp/~satoshi/anthrop/class/mind_and_culture/anthropologist.html&date=20060403003300


重森 2005/04/26/07:42:54 No.40
↑上記に書いた感想は、自分自身による下記の発言に対して思ったこと。

「いちいち、論文中に出てくる言葉の定義をしていたら、きりがないですよ!さっきから議論中に出てくる言葉の中にも、意味不明なものがいっぱいあるじゃないですか! 構造もそうですが、例えば、文化とか、歴史とか。これらをいちいち定義するんですか!」
重森 2005/04/27/22:36:49 No.41
私はまず第一に、「語り」について徹底的に考えるべきだと思う。

「語り」にからめとられる。「metaphors we live by」「表象」は感染する。ある「語り口」の採用は、あるリアリティに生きるための必須条件である。

という「語り」を耳にするが、これは実際、どういうことなのだろうか?

たとえば、私が「付き合う」や「彼女」という「語り口」を採用したとき、すなわち、自らの「語り」にこれらの「語り口」を引用し始めたとき、私にいったい何が起きているのか? 初めて足を踏み入れた異国において、そこで流通していた耳慣れない「語り口」をやがて身につけ、世界について今までとは別様の仕方で語れるようになったとき、私の頭ではいったい何が起きているのか?

「語り」は比喩(=メタファー)とも呼称される。

私は比喩について、研究するべきではないか。

そろそろ、ニーチェに取り組んでみようと思う。

レイコフ(1994)によると、ニーチェは『古典ギリシアの精神』収録「超越道徳における真と偽(On truth and falsity in their ultramoral sense)」において、次のように述べているそうだ。

「されば真理とは何か? それは陸続たる隠喩、喚喩、擬人法の隊列に過ぎない。即わち、人間関係の集積が詩的・修辞的に強化され、変容し、飾られ、長年の間使われることで国民にとって固定的、規範的、そして束縛的となったもののことである。真理とは人が幻想であることを忘却した幻想に過ぎない。それは感覚にうったえる力を喪った隠喩のことなのだ。」(レイコフ 1994:230)

そしてニーチェは、「全てが隠喩」と主張しているという。

それでは、そのことを彼は、どのように証明しているのだろうか?

とても気になる。

(↑ 「証明する」という営み自体が、あるなんらかの恣意的な「語り口が織り成す連関」にからみとられた上で初めて成り立つ営みであるとしたら、自らが少しでも有利に立てるように、私は自らを利するような「語り口」のみを、音声や文字を媒介にして、周囲の人々の頭にひたすら注入させ続けることしかできないということになる。そしてこのことは、とてもくやしいことではないか。人間は「語り」を入れるための容器でしかないというのは、悲しい結論ではないだろうか。しかしこんなことは成り立たないと私は信じている。もっと、ちゃんとした、バリバリにハードで(自然科学的で)、数学や物理嫌いの構築主義者では窺い知ることのできない、「厳然たる論理の世界」があるはずだと思う。混乱してきた。明日会社なのでここでストップ。)

(↑意味わかんねー。上記の文章において、「人間が「語り」の容器であること」と、「自然科学が描写するところの物理的な世界のありよう」が、どうして関係させられているのだろう。) 追記 2005/04/28 23:08

参考文献

『詩と認知』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314006900/249-6544120-3099550

『古典ギリシアの精神』
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA10355094