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革命 20050527 18:40更新

気になる人 人類学


カテゴリーがあるとする。例えば、「日本人」というカテゴリーがあるとする。

「日本人」という言葉を聞いたとき、次のような人間が思い浮かばないだろうか?

「メガネをかけていて、背が低く、出っ歯で、意味もなくニヤついている人」

または、次のような人間がイメージできるのではないか?

「勤勉で、頭が良く、オリジナリティはないがコピーをすることに秀でている人」

私が言いたいことは次のことである。

なんらかのカテゴリーを耳にしたとき、そのカテゴリーに含まれる人間について(いや。カテゴリーそのものについて、か?)、人は特定のイメージを思い浮かべてしまう。

カテゴリーには、「日本人」のほかに、様々なものがある。思いつくまま下記に列挙してみる。

ユダヤ人、アメリカ人、沖縄人(うちなーんちゅ)、アボリジニ、マチョ、男、女、おたく、韓国人、ドイツ人、黒人、白人、東大生、女子高生、サラリーマン、ナイチャー(やまとんちゅ)、ホームレス、引きこもり、ニート、乳幼児、○○県民。

きりがないのでここら辺で止めておく。

カテゴリーとその属性との結び付きを断ち切ることは難しいと私は考える。このことは、黒人差別について考えてみれば、一目瞭然であろう。

「黒人だから奴はだらしないのだ」

「黒人だからスト破りをするのだ」

といった想像を、かつての「アメリカ人」は自然に行っていた。いや。現在もこのような仕方で「黒人」なるカテゴリーに人を無理矢理に押し込めて、その人の今後行うであろう活動を「勝手に」想像(予測)している「アメリカ人」もいるに違いない(←これも「勝手な」想像だろう)。

ところで、さきほどから私は、「勝手に」という言葉を使っている。これには理由がある。

事態はそんなに単純ではないのである。人々は、「黒人はスト破りをする」と無根拠的に想像しているとは、必ずしも言えないのである。だからこそ私は、「勝手に」というふうに、カッコつきの「勝手に」を使用しているのである。

社会学者のマートンは「予言の自己成就」という言い回しを用いて、次のことを指摘した。

「一旦人々によって「黒人はスト破りをする」と想像されてしまうと、「黒人」は、本当にスト破りをしてしまう。」

このメカニズムの詳細は下記のようになる。

1、黒人はスト破りするに違いない、と人々が想像する。→ 2、経営者は黒人を雇うのを控える。→ 3、黒人は仕事にあぶれる。→ 4、黒人はどんな環境・条件でもいいからとにかく自分を雇ってくれる仕事場に行く。→ 5、スト破りをそそのかす経営者のもとで働く黒人、もしくは、仕事をしなければ食うに困る黒人はスト破りをする(1へ戻る)。

すなわち、「黒人」はスト破りをせざるをえない状況にまんまと立たされてしまうということである。

「黒人はスト破りをする」という見解は、客観的な事実として、単純に受け入れてはいけない(=やすやすと真に受けてはいけない)。マートンは、上記のような悪循環の図式を提示することによって、ステレオタイプ的な思考に陥ることの危険性を訴えているといえる。

しかし、だからといって、「黒人はスト破りをする」という言明は荒唐無稽で、根も葉もない単なる噂だ、と断言することもできない。

確かに、マートンの指摘は非常に優れていると言える。彼が示した悪循環の図式は、それを見る多くの者に対して説得力をもちえるものだと私は考える。

しかし、私はマートンの主張には、致命的な欠陥があるように思う。例えば、「それではマートンさん。客観的な事実として、実際にスト破りをする黒人を観察できた場合、どのような根拠でその黒人が、「黒人はスト破りをする」という噂・ステレオタイプ・偏見によって、そうせざるをえなくなったと言えるのか、証明できますか? 証拠を示してください。」と問われたならば、マートンは納得いく回答を与えることができるだろうか?

私はできないのではないかと考える。なぜなら、一旦回りだした循環に、起点を特定するのは困難な作業だからである(不可能と断言できるかもしれない)。もしかしたら、「黒人」は、「だらしなくて」かつ「スト破りをする」特質を持っているかもしれないではないか(←私はこのようには考えない。そもそも人を「黒人」というカテゴリーの中に含めることに抵抗を感じるので、「「黒人」は〜」という「語り口」そのものを自らの「語り」に引用したくない。誤解をされぬよう、念のため明確に記しておく。)。

なにをどう示せば、「黒人はスト破りをする」という噂・ステレオタイプ・偏見が、黒人をしてスト破りをさせしめたことを証明できるのか、私には見当がつかない。できることは、先の悪循環の図式が成り立つ可能性について、人々に考えさせることだけではないか。

したがって、マートンの主張─「黒人はスト破りをする」という「勝手な」想像が、その想像を根拠付ける客観的事実を、自ら作り出している─は、「現実に即した主張である」というよりも、「現実に即した主張である可能性が高い」といったほうが適切ではないだろうか?(注1)

マートンの主張は、彼が示してみせる悪循環の図式において、「黒人はスト破りをする」という言明が、その循環のそもそもの起点であることを立証することができない点で、あくまでも仮説にすぎないといえる。これを実証的に証明することは困難な作業と思われる。

「アメリカ人」たちは、現にスト破りをしている「黒人」を観察し、「ああ。やっぱりな。黒人はスト破りをするのだ」と納得する(=己の確信を深める)。そのような彼らに対して「まてまて。黒人はスト破りをすると皆が想像するからこそ、経営者は黒人を雇うことを忌避し、仕事にあぶれた黒人は、スト破りをしなければならない状況に立たされ、そして結局彼らはスト破りをするようになるのだ。」と言って聞かせたところで、この主張がどれだけの説得力をもちえるだろうか。

マートンが提示する、「語り」と「語られる現実」との相互反照的な循環の話。この話は、これを聞く者に対して説得力をもつには、実証的な証拠を欠きすぎているように思えてならない。「お話としては面白い。よくそんなことを思いつきましたね。意表をつく発想です。しかし見てください。現に黒人はスト破りをしている。だから我々は彼らを雇いたくないし、一緒に働きたくないのです」と述べる「アメリカ人」が、マートンの話を受け入れるためには、もう一工夫必要だと私は考える。

(↑例えば、「黒人の就職差別」をなくすような国の政策を立案し、トップダウン形式で、経営者に黒人を雇わせるとか。その結果、黒人は白人と同じ程度の雇用機会に恵まれてさえいれば、スト破りをしないということが後で判明するのではないか。しかしいずれにせよ、黒人が白人と似たようなものであることが後ほど判明するためには、マートンは国の政策立案者をまずは説得しなければならない。そして国の政策立案者が例の「偏見」にまみれた「アメリカ人」だとしたら、いったいどうすればマートンは彼を説得できるのであろうか。マートンの話に説得力を持たせるには、どうしたらいいのだろうか。)

前置きが長くなった。

もしも仮に、なんらかのカテゴリーに付与されてしまっている属性を、そのカテゴリーから剥ぎ取りたいならば、どうすればいいのだろうか? 

私はこのような問いを、下記の記事を読んだ際に、頭に浮かべた。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0505/23/news061.html

sifowという名のギャルによる、ギャルのための、ギャル革命に関する記事である。

上記のギャルは、自らをギャルとして自認している。彼女は自身のサイトにおいて次のように述べる。

「テレビとかであんまりいい印象がないってのを見たことがあるけど、実際に新橋でアンケートとったんだけど、やっぱり全くって言っていい程あんまいい印象がなかったの。

『汚い、うるさい、バカっぽい、適当、だらしない、すぐヤレル』とか

こんなイメージって・・・正直、変えたいです。

『ギャルでもやれるんだから!ギャルだから出来るんだから!』
っこと証明して見せまっす!」

http://www.sifow.net/gal.html

まずはじめに私は、下記のような疑問を持った。

1、どうしてsifowなるギャルは、自分自身をギャルとして堂々と認識できるのだろう? 

また、次のような疑問も持った。

2、どうしてギャルとして認識される可能性の高い己の様相を、変えようとしないのであろう?

さらに、次のような疑問も持った。

3、そもそも我々はどうして誰かを「あれはギャルだ」と認識することができるのだろう?

そして次のように反省した。

・1について

当たり前だ。他ならぬ周囲が、sifowをギャルとして扱うからこそ、sifowは自分自身をギャルとして認識したのだ。

・2について(注2)

確かに、髪を黒色にし、化粧やネイルをやめ、服装を質素なものに変えれば、他人からギャルのレッテルを張られずにすむだろう。しかし、もはや自らをギャルとして心底認識してしまったsifowには、そのような逃げは受け入れきれないのが普通ではないだろうか。sifowはギャルとしての自分に愛着を持ってしまったのだ。もしくは、ギャルであることを自認しているのではなく、sifowは、単に茶髪やガングロやネイルが好きなのだ。

・3について

おそらく、茶髪やガングロやネイルなどを目印にしているのではないだろうか。しかし私はケニアで、茶髪でガングロでマニキュアに凝っている女の人たちを見かけたけれど、「ギャルだ!」とは思わなかった。かわりに現地の人たちは、「あれはマラヤ(娼婦)だ」と言っていた。

そしてやがて、私は次のような結論に至った。

ギャル革命における真の敵とはいったいなんであろうか。特定の誰かが敵なのではなく、全ての人間に備わっているであろう「ステレオタイプ的な思考(偏見で相手を捉える傾向)」そのものに、sifowは立ち向かっているに違いない。

とにかく私は、sifowなるギャルの革命行為に、ひどく興奮したのである。

革命の成就を、私は願う。

(↑ 自分が書いた今回の文章を読み返しているうちに、違和感を覚えてきた。私はsifowに「自分自身をギャルとして人々に提示するな」と言いたくなってきた。他人が一方的に貼ってくる「ギャル」というレッテルを、どうしてそうやすやすと彼女は受け入れることができるのか。sifowは自らすすんで他者の暴力に屈しているように思えてならないのである。「私は「ギャル」ではありません。sifowです。」と自己呈示して欲しい。どうしてそのような妖しげでよく分からない、いざとなればどのような属性をも付与することのできる「ギャル」という胡散臭いカテゴリー名を、彼女は受け入れることができるのか。  sifowは単に寂しがり屋なのだろうか。「ギャル」の仲間が欲しいからこそ、「ギャル」を名乗るのであろうか。
 それとも、「ギャル」カテゴリーの属性変革という仕事を己に課すことによって、世間の注目を集めると同時に、革命という行為に従事することによって、自らの生活を充実させたものにしようとしているのであろうか。
 いずれにせよ、「ギャル」というカテゴリー名を引き受けることによって、sifowは、「ギャル」というカテゴリー名に付与されたマイナス的な属性を払拭するために活動せねばならなくなっている。これは面倒ではないか。自分自身を「ギャル」として認識してしまったばかりに、「ギャル」カテゴリーの属性を変更しなければならないはめに陥っている。面倒くさくないか。sifowsifowを名乗っていればいいのに。
 いや。やっぱり問題はsifow の周囲の人々ではないか。彼らはsifowsifowとして認めずに、「ギャル」として彼女を見る。このことが、sifowが「ギャル」というカテゴリーを引き受け、そして、「ギャル」というカテゴリーに付与された属性を変革せざるをえない理由ではないか。)

 

注1

 マートンの主張さえも、あまた存在する「語りによって言及される現実を自ら作り出す語り」のひとつではないのか? 一旦この「語り」に呪縛されたならば、人々は現実をまさにこのような現実として認識し、かつ、率先してこのような現実が実現するように行動していく、という意味での「語り」のひとつではないのか? 
 ということは、やはり「語り」を他者へ提示する際には、根拠や証拠なども一緒に提示する必要はまったくなく、他者が「語り」に呪縛されやすいような精神状態を設定する方法、または、そのような精神状態へ他者を誘導する方法が、検討するべき重要な課題になってくるのだろうか。つまり話は、より洗脳に近い話に、移っていかざるをえないのだろうか。
 さきほどから私は、なんらかの主張が他者に受け入れられるためには、しかるべき根拠や証拠が必要だと考えている。
 しかし、このようなことはむしろ稀なこと、珍しいこと、または、自然科学的な世界についてしかいえないことではないか。人々が「語り」に呪縛されさえすれば、現実はその「語り」が示すような形で自然に問答無用に否応なく構築されてしまう。そうであるならば、根拠や証拠といったものはことさら提示される必要はないのではないか。提示されたとしても、現実をある特定の仕方で経験している他者は、己の生きる現実とは異なる現実について言及する「語り」に耳を傾けることは、しないのではないか(=できないのではないか)。アザンデ人が彼らの信念体系の外にはけして出られないように。
 根拠や証拠といった言葉で私がさきほどから意味しているものは、結局は、なんらかの出来事にすぎない。私が提示するなんらかの特定の出来事が、他者を説得する際に、根拠や証拠としての身分をもつためには、私が自らの主張を説得的に提示する際に持ち出す、根拠や証拠という名を与えられた出来事を、あらかじめその他者が、根拠や証拠として受け入れられる状態にいなければならない。つまり説得という行為は、他者がすでにはまりこんでいる現実に即した「語り」を用いるか、もしくは、他者がすでにはまりこんでいる現実から、その他者をどうにかして離脱させて、別の現実に住まわせたうえでしか、成り立たないのではないか。洗脳の技術が効力を発揮するのは、もちろん後者のケースであろう。いくらアザンデ人が、「重森がかけた妖術のせいで穀物が育たない」という主張をしてきたとしても、私は妖術の存在する現実にははまりこんでいない(=生きていない)ので、このアザンデ人の主張を受け入れることはできない。日頃から私がこのアザンデ人と仲が悪く、そのことが人々の間での共通理解になっていようと、私はこのアザンデ人の主張に説得力を感じることができない。お話しとしては面白い。としか思えない。なぜなら私は、アザンデ人がはまりこんでいる現実にはまりこめていないからである。
 しかし、もしも私がアザンデ人と幼い頃から一緒に生活し、彼らの言葉を話し、彼らの「語り」に浸され続けたならば、私は彼らの主張を無視できないであろう。また、もしも私が、長時間にわたって、アザンデ人の「語り」に漬かるならば、もしかしたら、私は彼らの主張に説得力を感じるようになるかもしれない。
 したがって、マートンや社会科学を学ぶ者にできることは、対抗言説を世間にとにかく垂れ流し続けることである。根拠や証拠など付与する必要はない。「語り」を大量に他者の頭へ注入し、他者がその「語り」によって物事を考えるように仕向けのである。彼(女)が自らの頭にインストールした「語り」が、その他者をして、彼(女)が自らの頭にインストールした「語り」通りの現実を実現(構築)させしめることを、待つのである。
 他者の頭に「語り」を注入する最も効率的な方法は、やはり、テレビやラジオや新聞といったメディアを活用することであろうか。そうであるならば、マートンや社会科学を学ぶ者は、テレビ局やラジオ局や新聞社といったマスコミへ就職するか、もしくは、自らテレビ局やラジオ局や新聞社を設立させたほうがいいのかもしれない。

注2

 「汚くても、うるさくしていても、バカであっても、適当にしてても、だらしなくても、すぐにエッチしても」、「ギャル」であればそういうことをする人間として許容されるから、かえって楽だ。そういう存在として世間の人々が既に認めてくれているので、「汚く、うるさく、バカで、適当で、だらしなく、すぐにヤレル」人間でありたい自分は、「ギャル」というカテゴリーが存在しているおかけで、かえって動きやすい。と考える「ギャル」もいるのではないか? 
 私は外国に滞在しているときに、しきりに商品を売ろうとする物売りに対して、言葉が分からないふりをよくする。「外国人だから言葉が理解できないのか」というふうに納得してくれることを、私は物売りに期待しているのである。また、私はいきなり部族のチーフの家に、アポなしかつ有力者の紹介状なしに乗り込んで行ったりもする。「外国人はなにも知らないからしょうがないか」とチーフが納得してくれることを、私は期待しているのである。
 このように、私は「外国人」というカテゴリーをうまく利用しているといえる。同様に、「ギャル」というカテゴリーを利用している「ギャル」も、いるのではないか? そしてこのような「ギャル」にとっては、sifowの革命行為は、迷惑以外のなにものでもないかもしれない。せっかく「汚くても、うるさくしていても、バカであっても、適当にしてても、だらしなくても、すぐにエッチしても」、そういう存在として世間から認められているのに、この安寧状態を壊されるのはやだなあと考える「ギャル」もいるかもしれない。
 sifowが「ギャル革命」という言葉だけでなく、「ギャルの意識革命」という言葉をも掲げているのは、上記のような「ギャル」がいることを熟知しているからであろうか。ということは、sifowは、「汚くて、うるさくて、バカで、適当で、だらしなくて、すぐにエッチする」「ギャル」は認めないという、教条的で頑張り屋な「ギャル」とも言えるような気がする。私は、「ギャル」同士の間に分裂が起きる可能性を危惧する。「頑張るのが嫌いなギャル」と、「頑張るのが好きなギャル」の分裂が起きるような気がしてならない。「頑張るのが好きなギャル」は頑張ればよい。しかし、「頑張るのが嫌なギャル」や、「頑張ることは大切だと世間に思い込まされて、頑張ることをやめることができなくなっているギャル」にとって、 sifowの存在は、単なるプレッシャーになるのではないか。
 個人的に私は、西欧人の目を気にして頑張る現地の人とか、世間の目を気にして頑張るオタクとか、会社の人々の目を気にして頑張って過労死するサラリーマンとか、世間の目を気にして頑張って「自立(って何だ?)」しようとする引きこもりとか、世間の目を気にして頑張ることに疲れている自分を許せないのでもう一度頑張ろうとするニートとかを見たくない。人はただそこに存在しているだけで十分に素晴らしいと、信じているからである。そこに生きているというただそれだけの理由により、堂々と胸を張ってほしいのである。全ての人が。このような信仰は、他ならぬ私自身が、世間の目を気にしすぎる人間であり、自分勝手にわがままに生きれるようになりたいと切望している人間であることに端を発している。

【おまけ─重森のアイデンティテイについて】

 アイデンティティって何だ? よく分からない。とりあえずここでは、自分自身をどうとらえているかを言葉で表現したもの、と定義する。
 私は18年間を沖縄と呼ばれる土地で過ごした。生まれも沖縄である。しかし私は自分自身を「沖縄人(うちなーんちゅ)」であるとは思わない。そのような自覚は全くない。「「沖縄人」として〜」や「「沖縄人」の誇り」や「「沖縄人」らしく」といった語り口を私は使用する気にならない。なんといったらいいだろうか。なんともいえない気持ち悪さを感じるのである。同様に、私は自分自身を「日本人」としても認識していない。正確にいうと、自分を「日本人」として認識したくない。
 いつだっただろうか。あれは確か香港国際空港での出来事だった。「日本語を話す中年サラリーマン」が、見ず知らずの私にいきなり、「あーそこの君君、○○行きの飛行機はいつ出る?」とぶしつけに尋ねてきたのである。「こいつは俺を「日本人」だと思っているな」とむかついた私は、「ティダタウ」と咄嗟に答えてその場に背をむけた。インドネシア語で「知らない」という意味である。「こいつは自分と同じ「日本人」だ。それにこいつは自分よりも年下だから失礼な話し方をしても構わないのだ。」と考えるからこそ、「日本語を話す中年サラリーマン」はぶしつけな話し方を私にしてきたに違いない。「日本語を話す中年サラリーマン」の態度は、「同じ「日本人」だろう? だからお前はこうあらねばならないのだ。年長者を立てて、こちらの要望に素直にこたえなければならないのだ。文句を言わずにな。さあ、私が気に入るような「日本人」として振舞え」と、無言の圧力をかけてくるようなものに私には思えたのである。
 私はあくまでも重森誠仁であり、「沖縄人」でも「日本人」でも「サラリーマン」でも「人類学者」でも「仏教徒」でも「男」でも「外国人」でも「オタク」でも「黄色人種」でも「引きこもり」でも「20代」でもない。
 ただし、己の得になるときにだけ、これらのカテゴリーを適宜利用するだけである。

(↑ 私は終わっている。香港国際空港で私に話しかけてきた人間を、私は、「中年」カテゴリーと「サラリーマン」カテゴリーに「勝手に」入れてしまっている。これでは、sifowを「ギャル」として捉える人間や、色の黒い人を「黒人」と捉える人間や、太っていて人とのコミュニケーションに恐れを抱いている人を「オタク」もしくは「引きこもり」として捉える人間と、同じではないか。恥ずかしい。空港で私に話しかけてきた人間を指し示す言葉を、私は他に思いつくことができなかった。)

■参考文献

スティグマ論」
http://www.socius.jp/lec/20.html


いとう 2005/05/30/17:34:05 No.52

多分にギャップを作りだしたいのではないかしら。
「バカでだらしない」けど「金は稼げる」とか。
ただ「金は稼げる」だけだと実業家という(まぁこれも「勝手に」カテゴライズされている訳ですが)着地点につくわけで。

そのギャップが奥の手というか、保険というか。

と、そんな感じ。
長文おつかれさま。面白かったです。


重森 2005/05/31/08:31:05 No.53

いとう様

コメントありがとうございます☆

いとうが言うとおり、「ギャップが魅力になっている」といえると私も思います。しかし本人はどれだけそのギャップを意識して行動いるのかはちょっと分かりません。私は人の心は読めないので(涙)。