読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

靖国


いつものように土日は駅ビルの紀伊国屋へ立ち読みに行く。

新刊コーナーにあったのは『靖国問題』という本。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480062327/249-8740611-5587563

あとがきと前半部分のみにさっと目を通す。

まっさきに私の脳裏に焼きついたのは、台湾の議員に関する記述であった。私は議員の主張を、次のように理解した。

靖国に祀られている戦死者のなかには、「日本人」だけでなく、台湾の「先住民族」も含まれている。「高砂義勇隊」と呼称された彼らは日本軍の兵士として戦死し、現在は靖国に祀られている。今回、小泉首相靖国を参拝した。このことは彼らに対する侮辱に他ならない。なぜなら、「日本人」が始めた戦争に「先住民族」を巻き込んでおきながら、戦死した「先住民族」は、憎き「日本人」と同じ場所に祀られているからである。」

この台湾の議員についてネットで検索すると、次のような記事を見つけることができた。

http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0309/ronbun1-1.html

複雑だ。本当のところは、何も分からない。何を断言していいのかも分からない。

今の私には、複雑な現実を複雑なまま捉えようと、試みることしかできない。

感情的に議論を進めてはだめだ。

しかし、あえて私の本音を言うならば、次のようになる。

靖国のことなどどうでもよい。徹底的にどうでもよい。係わり合いになりたくない。好きな人は勝手に参拝してくれ。参拝したくない人は参拝しなければよい。「靖国はどうでもいいだと?お前はそれでも日本人か?」だの「日本人なら靖国へ参拝に行け!」だの「お国のために戦った先祖に感謝をしないとは何事だ?この非国民め!」と説教してくる奴がいたらうざい。勝手に私を「日本人」扱いするな。だからといって「沖縄人」扱いもするな。「日本人」ごっこしたい奴だけ「日本人」ごっこしてろタコ。この寂しがり屋ども。面倒なことに私を巻き込むな。」

上記のように感情的に反応すると、結局声の大きい人が勝つという結果にしかならないので、ちゃんと相手を洗脳できるように、理論武装しておこうと思う。

とりあえず、情報(=武器)を頭にいれよう。

■武器

靖国問題
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480062327/249-8740611-5587563

『さまよえる英霊たち』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4760122613/qid%3D1118548402/249-8740611-5587563

『戦場の記憶』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4818808121/249-8740611-5587563

『暴力の予感』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000021052/qid=1118548509/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-8740611-5587563

『近代日本社会と「沖縄人」―「日本人」になるということ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4818804444/qid=1118548535/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-8740611-5587563

『新ゴーマニズム宣言スペシャル 沖縄論』
http://www.mangaoh.co.jp/php/data_product.php?&i_prd_code=101579

『大城立裕の作品全部』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-8740611-5587563


他にもいい武器を知っている方、ご提供宜しくお願いします。

【他にも気になっていること】

世界旅行者が「ひめゆり学徒」について次のような記事を書いていた。

http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050610#p2

ちゃんとした記事は以下を参照。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200506091700_01.html

私は、「元ひめゆり学徒の沖縄戦に関する証言が「退屈で、飽きてしまった」」という英文の内容に、共感をもつことができる。

小学生の頃だった。ひめゆり学徒からではないが、修学旅行の際に伊江島で、戦争体験者から戦争の話を聞く機会があった。そしてその時の私は、体験者の話を「つまらない」と感じた。全然リアリティが湧かなかった。迫力がなかったのだ。「はやく終わらないかな」とずっと思っていた。

教育的な効果はあまりないと思う。生徒は退屈感だけを味わう。そして語り部は「戦争の怖さ・哀しさを伝える」という目的を達成できない。本当は何も感銘も受けていないのに、周囲の大人の目をバリバリ気にした「いい子」ちゃんならば、「わたしはせんそうはいけないことだとおもいました」などと、感想文に書くのだろう。でも、それではだめだ。「戦争を抑止しよう」と「本気で真剣に」考える人間を育てるという目的を、語り部も教師も達成できていない。

「戦争は残酷なのだ。ちょっとお前来てみろ。今お前方言喋っただろう?お前はアメリカのスパイだろう?正直に言え。子どもだからといって容赦はしない。ナイフで肛門を刺してやろうか?」

と、前列に並んでいる生徒を語り部は脅したらいいのだ。戦争の不条理、戦時における無秩序状態を、肌で感じさせ、恐怖させたらいいのだ。戦争について真面目に真剣に考える人間を育てたいなら、それぐらいしたらいいと私は本気で思う。やり方が生ぬるいのだ。

私が「戦争はいやだな」と心から思ったのは、次のような出来事が発端となっている。

1、実家の近くの畑で農作業をしていたおじさんが、「えーみてみー爆弾だよこれ」と、登校中の当時小学生だった私に不発弾を見せてきた。錆びて赤茶色をしている。爆発したらやばい。おじさんやその傍を通りかかった私はきっと怪我をする。この時私は「戦争は迷惑だ」と思った。

2、近所の公民館にあった『コミックおきなわ』という、沖縄の漫画家による沖縄でしか手に入らない漫画に、戦争を題材にした漫画があった。そこに、アメリカ兵に肛門を刺される子どもが描かれていた。それを見て小学生の頃の私は、「痛そう...戦争はいやだ」と思った。

3、同じく公民館にあった『はだしのゲン』という漫画。戦争に反対するゲンの父親は、町内会長や隣人から「非国民!」と罵られる。そして戦争が終わったあとで、町内会長は手のひらを返し「戦争はいけません!」と自らの主張を180度平気で転換し、議員かなにかに当選する。「戦争はいやだ。」と思うと同時に、「こんな町内会の会長のような人間にはなるまい」と当時小学5年生だった私は決意した。


語り部には、語り部としての技術が必要ではないだろうか。ただ淡々と話すだけでは観客を引き込めない。相手を洗脳するには、工夫が必要だ。プレゼンには工夫が必要だ。語り部はどうして語りの技術を磨かないのだろう?


重森 2005/06/13/20:37:24 No.57

 会社帰りに駅ビルに寄り、小林よしのり氏による一連の著作に目を通してみた。

 小林氏は、家族や友人をあくまでも守るために戦った祖父およびその仲間たちが好きなのだろう、と私は思った。好きな人たちが否定されたらむかつく。だから必死で擁護しているのだ。私はこのように思った。

 そして彼らが祀られているからこそ、小林氏は靖国存在自体を擁護する。小泉首相靖国を参拝することに関しては、「A級戦犯」が祀られていることと、「政教分離」に違反することの2点が問題とされる。小林氏は前者については、「負けた国に対して戦勝国が勝手に貼ったレッテルにすぎない」と一蹴し、後者については、「靖国に代わる無宗教の施設を建設するなど馬鹿げている。無宗教的な神社などありえない。それとも日本国が宗教を独自に作り出し、その宗教に基づいた施設を作るということか?」とやや難解な仕方で反論する。これも、大好きな人たちを擁護したいからこそなのだろう。

 私はこのような小林氏の言動が嫌いではない。好きな人を守る彼の姿に感動さえ覚える。

 しかし、靖国には、「民家に押し入りそこにいた非戦闘員である女性をレイプした兵士」や、「上官の命令に忠実に従い、仲間であるはずの部下を殺して食べた兵士」や、「「俺たちはお前らのために戦っているんだ。だから防空壕から出て行け」というセリフとともに、一般市民を壕から追い出した兵士」や「沖縄方言を喋る一般市民をアメリカのスパイだと決め付け、拷問を加えた兵士」が含まれている可能性もある。彼らも神として、英霊として祀られている可能性がある。もしもこれが可能性ではなく、事実であるならば、私は靖国を参拝したくない。

 私が今一番知りたいことは、靖国に祀られているのは、一体どのような人々なのかということである。

 私は戦争自体が嫌いだ。あの、無秩序状態が嫌いだ。強い人間が無抵抗の弱い人間をほしいままにできる状態が嫌いだ。だから私の敵は、上記のような不条理で無秩序な状態を用意する人間もしくは、このような状態に必ず先行して生じる現象だといえる。

 『靖国問題』の著者である高橋氏は、以下のように述べている。「靖国問題の根底にあるのは、戦死した家族が靖国神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深刻な断絶であり、またそれぞれの側に共感する人々のあいだに存在する感情的断絶であるとも言えるだろう。私たちに必要とされるのは、これらの感情の存在を直視し、それらが何に由来するのかを可能なかぎり「理解」した上で、靖国問題について自らの判断を形成することである。」(高橋 2005:18) 私も靖国問題について自らの判断を形成したい。

重森 2005/06/13/21:11:31 No.58
 思えば、靖国について語る際、霊や神といった存在が至極普通に言及される。

 しかし、なんなんだ霊って? 神って何なんだよ一体。めちゃくちゃオカルトチックな存在だ。

 しかし、このようなことを問題にしてはいけない時もある。今回に限って言えることではないが、議論を行うならば、議論のレベルをいつも考慮しなければならない。論じる対象について、その範囲を限定・制限しなければならない。将棋をする時に、将棋のルールに沿うのか、それとも、将棋のルール自体を問題にするのか、または、将棋の駒の質や形状の良し悪しを問題にするのか、きちんと区別しなければならない。相手がどのレベルで話をしているのかちゃんと見極めて、そのレベルに合わせる。または、相手を別のレベルの議論に引き寄せる。そうでないと相手とちゃんと渡り合えない。

 靖国について語る人々は、霊や神の存在について、ことさら疑問を持たないことが多いように思える。

 だから、今回は、霊や神の存在については、考察の対象から外すことにしたい。

重森 2005/06/14/06:27:01 No.59
 小学生を惨殺する中学生がいた。私はその中学生を憎む気にはならなかった。その中学生が小学生を惨殺しなければならなくなった状況、その中学生が小学生を惨殺するという現象自体を憎んだ。そして、どうしてこのような状況や現象が生じたのか、考えようとした。

 答えは出ていない。

 しかし、一方的にその中学生を悪者にすれば、問題は解決するわけではないはずだ。

 人が人を殺すという現象が生起する理由を正確に把握し、そのような現象が起きないように手をうつ。私がしたいのはこのようなことだ。

 戦争で人を殺した人を責めるのではなく、人が人を殺す、戦争という現象を生じさせる要因を、取り除きたい。私はこのように思う。

重森 2005/06/14/06:44:32 No.60
 したがって、戦時中に人を殺した人も、人に殺された人も、戦争という憎き現象の犠牲者として悼むことができたら、一番いいように思う。そしてその上で、二度と戦争が起きないように、活動したらよいのだ(←アメリカ国防省の人たちが聞いたら、あきれて笑いだすかもしれない主張かもしれないが。戦争を外交の手段として使用するのは、幼稚な奴のすることだ、という言説で、あらゆる人々を洗脳したいと私は思う。なぜなら私が戦争は嫌いだから。私は弱いから戦争に巻き込まれたくない)。

 靖国をめぐる人々の中には、「自分たちは被害を被った」と一方的に考える人や、「我々の息子は愛する家族や仲間のために戦ったのだ」と一方的に考える人が見受けられる。どちらの気持ちも私は分かるような気がする。靖国や、靖国を参拝することを問題にするよりも、どうすれば戦争を回避できるのかについて考えた方がいいのではないか。戦争で亡くなった人を全て犠牲者として悼み、戦争自体を敵として憎んだほうがいいのではないか。

重森 2005/06/18/16:04:41 No.61
「「日本人」になるということは、「支配者」対「被支配者」、あるいは「日本人」対「沖縄人」という二分法的な世界を前提にした「皇民化」や「同化」といった言葉で表現されてきたような、ある均質なアイデンティティーから別の均質なアイデンティティーに移行するプロセスではない。重要なのは、自己と他者が分割された空間を前提にするのではなく、「日本人」になるという営みを開始した瞬間から、自己の内部に他者性が忍び寄るというアンビバレントアイデンティティーのありようなのである。こうしたナショナル・アイデンティティーのありようを、H・バーバは、移民や難民が拡大し、国境線を越えてやってくる大量の人々を抱え込んだ今日の国民国家におけるアイデンティティーの問題として考察している。」(冨山 1995:10)

 どうして、ある特定の人々は、「自分は○○人だ」と確固たる自信を持って述べることができるのだろう? 私は不思議に思う。厳密に考えたならば、「自分は○○人だ」と規定することは不可能になると私は思うのだが。とある人間を「○○人」として認めるために満たすべき条件が、実はしっかりと文書の形でどこかに明確に規定されており、ある人はその条件を満たしているからこそ、「自分は○○人だ」と自信を持って断言しているのだろうか? そうではあるまい。きっと何も考えていないに違いない。「自分は○○人だ」と、その人は単に思い込んでいるだけなのだ。

 厳密に考えれば、人は自分自身を「○○人」として提示することはできないはずだ。なぜなら、「○○人」と名乗るために満たすべき条件など、実はないのだから。

 その条件がどこかにしっかりと明記されており、自分はその条件を満たしているからこそ、○○人といえるのだ、と判断している人はいないだろう。むしろ、逆のプロセスで人は思考しているに違いない。まず「自分は○○人だ」という根拠なき自覚がある。そしてそこから遡及的に、自分が「○○人」であること、もしくは、自分以外の他人も同じ「○○人」であると断言するために必要となる条件が、挙げられているのだ(創出され選択され規定されているのだ)。

 例えば、「同じ言語を話せること」や「同じDNAを保持していること」や「同じ文化を共有していること」などが、○○人として満たすべき条件として挙げられることが多い(しかし言語やDNAや文化っていったいなんだ? これらも胡散臭い)。

(↑そうであるなら、人は誰でも自分自身を「○○人」と好きなように名乗ることができるということか?)

◆カテゴリーのその成員が満たすべき条件が、恣意的に決定されることに対する私の不満

 インドヨーロッパ語族のカテゴリーを満たす条件を措定することはできるだろう。しかし、「主語と動詞を備えている」という条件を満たすカテゴリーとして私が勝手に「SV語族」なるカテゴリーをでっちあげ、それが学会などで認められたならば、インドヨーロッパ語族は易々と、他のカテゴリーとともに、「SV語族」カテゴリーに吸収されてしまう。

 カテゴリーはうさんくさい。非常にうさんくさい。勝手に作り出すことができるし、どんな条件を満たせばいいのかをいつでも勝手に決めることができる。

 そして人はいつしか、そのような胡散臭いカテゴリーに従って思考してしまう。それは避けられないことなのだろうか?

冨山一郎 1995 『戦場の記憶』 日本経済評論社

重森 2005/06/19/18:29:48 No.62
 会社の同僚であるUさんに、「Uは「自分は日本人だ」という自覚ある?」と聞いてみた。

 Uは、なぜそんな当たり前のことを聞く?というような表情をして「ありますよ。重森さんはないんですか?」と答えた。

 自分になされた質問は無視して、続けさまに私はUに質問してみた。

「「日本人」であることを証明するものはなに? なんで「自分は日本人だ」とUは断言できるの?」

 Uはキョトンとしていた。目が一瞬泳いだ。しかし次のように返答してきた。

「だって、日本国籍があるじゃないですか。日本国籍があるから日本人っていったら駄目ですか?」

 私は次のように答えた。

「それじゃあ、今から500年前ぐらい前に「日本列島」に生きていた人は、「日本国籍」がないから、「日本人」ではないってことになるのだろうか?」

「違いますよ!500年前だって「日本国籍」のようなものはあったはずですよ!だからその人たちも同じ「日本人」です!」 

「「日本国籍」のようなものってなに?」

「それは分からないけれど、きっとありますよその時代にも。似たようなものが。」

 私の弟は言う。

 「兄ちゃん。俺は「沖縄人(うちなーんちゅ)」としての誇りがあるぜ。」

 色白な私と異なり、弟の肌は浅黒い。さらに彼は私よりも沖縄口(うちなーぐち)を話すことが出来る。私が知らない沖縄方言を知っている。

 「なんで「自分は沖縄人だ」って言えるの?」

 私が聞くと弟は次のように答える。

 「だって、あるさー沖縄人としての誇り」

 答えになっていないような気がする。沖縄人である理由として弟は、なぜなら沖縄人だから、と答えているような気がする。

 私は自分を沖縄人として表明することができない。してはいけないような気がするのだ。違和感を感じてしまう。沖縄出身です、とは言えるが、沖縄人です、とは言えない。

 これは、私が沖縄で、「ナイチャー(内地の人間、大和人、やまとんちゅー)」というレッテルを貼られ続けながら育ってきたからであろう。私の肌の色は白すぎる。また、私は家に引きこもって勉強ばかりしているような小・中・高時代を送ってきた。そのため、同世代の人間と沖縄方言でコミュニケーションする機会が持てなかったために、沖縄方言をよく知らない。さらに、私が通った高校は進学校だった。そこは沖縄方言よりも日本語が好んで使用されているような場所だった(ように思う)。商業高校や工業高校へ進学した友人たちとひさしぶりに会話すると、私は聞いたことがない沖縄方言にでくわした。

 「沖縄人」としての自覚がもてない兄と、「沖縄人」としての自覚をもっている弟。このような差異は、どのようにして生まれたのだろうか?

 色白で、引きこもりのガリ勉だった兄(そのため沖縄方言をよく知らない)は、「ナイチャー」というレッテルを貼られやすい。

 一方、色黒で、友達の多い(そのため沖縄方言をよく知っている)は、「ナイチャー」というレッテルを貼られにくい。

 重森家の長男と次男に観察することの出来る「沖縄人アイデンティティ」のありかたの違いは、①肌の色と、②沖縄方言運用能力の違いに対応しているのではないか。

 私が今、沖縄に飛行機で行き、「私は沖縄人だ」と主張しても、多くの沖縄人は賛同してくれないだろう。なぜなら、私の肌は沖縄人にしては白すぎると同時に、私は沖縄方言を話すことができないからである。

 「沖縄国籍」なるものは存在しない。しかし、「沖縄人」として満たすべき条件は存在している(注1)。

 肌を焼き、沖縄方言をマスターすれば、もしかしたら私は「沖縄人」に「沖縄人」として、つまり仲間として、認められるかもしれない。

 しかし、むかつくからそんなことはしない。「沖縄人」とか「日本人」とかいった妙なカテゴリーに一生呪縛されてやがれと、仲間はずれにされてすっかり意固地になってしまった私は思う。

注1

「「沖縄人」として満たしているべき条件は存在している」と私は書いた。しかし、この条件は思いつきでその場で勝手に作られるような「いい加減」な条件に思えてならない。

「肌の色」や「沖縄方言運用能力」といった指標は、ある人間が「沖縄人」かそうでないかを判断する際に、確かによく利用される。

しかし、沖縄人か否かを判断するために参照される指標は、他にもある。例えば、「図々しさ」。

「図々しい」と思われかねないような行動をとってしまった私について、ある「沖縄人」が、「あいつはナイチャーだからそういうことをするのだ」と周囲に話しているのを私は聞いたことがある。ここでは、「沖縄人」として満たしているべき条件が、まさしく恣意的に勝手に場当たり的に作り出されているといえる。つまり「沖縄人」は、「図々しい行動をとらない」ものとここでは規定されている。

私に不快感を抱いた「沖縄人」が、その場において勝手に、「沖縄人の条件」を創出したのである。このように、「沖縄人」として満たしているべき条件は、突如勝手に作られるといえる。このことはつまり、「沖縄人」として満たしているべき確固たる条件など、もともと存在していないことを意味している。条件は、いつでも自由自在に追加可能なのだ。気まぐれに決定される「「沖縄人」として満たしているべき条件」は、はたして本当に「「沖縄人」として満たしているべき条件」といえるだろうか? 

私は沖縄に帰るたびに、「お前はどこからきた? お前はナイチャーか?」と「沖縄人」に問いかけられる。問いかけられた私は、上記のような考察を余儀なくされる。考えるのは疲れる。だから私は沖縄にあまり帰りたくない。相手が「沖縄人」であってもそうでなくとも、普通に平等に扱ってくれと哀しくなる。そして疲れる。


rainbow 2005/06/20/12:22:29 No.63

たしかに「日本人」や「沖縄人」というカテゴリーがうさんくさいのはよくわかりますが、
人間を平等に扱う、なんていうのはうそっぽいと思います。

あなたは目の前にいる人をどのように判断しているのでしょうか。
一応かっこつきで色んなカテゴリーに仮に当てはめてその人物を判断しているのとはちがいますか?
個体識別をどのようにおこなうかということです。

どうしようもなく悪い人というのも世の中にはいて、カテゴリー分けは自分の身を守るために必要になることもあります。
人間を平等に見るだけでは生きていけないのです。「日本人」や「沖縄人」というカテゴリーをとりあえず押さえるのは、それが世の中に幅を利かせているだけに判断材料としてある程度有効なのだと思います。

平等に扱ってほしい、なんていうのではなく、あなた自身がカテゴリーの境界例として実際的に生きることが必要なのではないですか。

「メジャーリーガー」や「日本人プロ野球選手」というカテゴリーを嫌がるよりも、「日本人メジャーリーガー」という境界例を作った野茂のように行動するのが新しいカテゴリーを作るという積極的な方法なのではないですか。
アメリカも野球も好きじゃなくてよく知らないのでこの例はあまり適切ではないのかもしれませんが・・。
たとえば「沖縄系重森誠仁」でいればいいのではないですか。

ちなみに、「日本人」というカテゴリー分けは「国」にこだわり、「沖縄人」というカテゴリー分けは「郷(クニ)」にこだわり、拠っているところが違うようにも思います。
簡単に混同しないほうがいいのではないでしょうか。


重森 2005/06/20/21:18:41 No.64

コメントどうもありがとうございます☆ 私は思い込みが激しいので、突っこんでくださると嬉しいです。嬉しいので、真剣に返答させていただきます。

1、境界例としての野茂について

野茂は境界例というよりも、完璧な「メジャーリーガー」だと私は思います。

2、「カテゴリー分けは自分の身を守るために必要だ」ということについて

「「日本人」や「沖縄人」というカテゴリーは、自分の身を守るために有用だ」ということを裏付ける証拠を示してくださいませんでしょうか? できるだけ具体的な事例を挙げながら、説明してくださいませんか?

3、「沖縄系重森誠仁」について

重森誠仁で十分でございます。「沖縄系」は蛇足だと思います。

4、「「日本人」というカテゴリー分けは「国」にこだわり、「沖縄人」というカテゴリー分けは「郷(クニ)」にこだわり、拠っているところが違う」ということについて

すいません。勉強不足です。国と郷(クニ)の違いを説明してくださいませんでしょうか? 手許にあった『広辞苑第五版』と『学研国語大辞典第二版』には郷(クニ)という文字は掲載されておりませんでした(見落としていたらごめんなさい)。


なくさ 2005/06/20/22:18:32 No.65

おひさしです。
今度、みんなで飲みにでも行きましょう。

靖国に祀られている霊がどのようなものかについて、波平さんが民俗学的(人類学的?)に議論してますよ。『からだの文化人類学』という本の「靖国の死なない兵士たち」という章です。
参考までに。
ではまた近いうち(?)に。


重森 2005/06/21/08:20:16 No.66

なくさ様

本を紹介してくれてどうもありがとう☆
さっそく手に入れて読んでみます!
近いうちに飲みましょう〜。


rainbow 2005/06/21/09:35:28 No.67

>野茂は境界例というよりも、完璧な「メジャーリーガー」だと私は思います。

あ、やはり例が悪かったみたいですね。
新しい事例を作るという意味で使ってみただけなのですが。野茂がどんな人かはどうでもよく。重森さんによると野茂は完全にメジャーリーグの価値観に依拠しているだけ、ということでしょうか。まぁそのことはどうでもいいです・・

じゃあ違う例を出します。
お知り合いの「障碍者」である知的障碍を持った方が、就職先は作業所しかないという世の中の考え方に従うのはやめ、自分たちが接客するお店をオープンさせることにしました。
こうした行動は「障碍者」の価値観に異を唱えるための一歩だなと私は思います。

>「「日本人」や「沖縄人」というカテゴリーは、自分の身を守るために有用だ」ということを裏付ける証拠を示してくださいませんでしょうか? できるだけ具体的な事例を挙げながら、説明してくださいませんか?

私が言いたいのは予備知識と配慮についてです。
例えば目の前にいる相手が「日本人」だという情報を得たとします。そうすると、その人との家におじゃまする時は靴を脱ぐのだな、と考えて行動する。土足で家に上がって相手が怒ることから身を守るわけです。
重森さんは外国で目の前にいる人が「イスラム教徒」だとわかった場合、その人の目の前で左手でものを食べることはあまりしないのではないですか?

目の前にいる方が「沖縄人」だとわかったら、うーん私はとくに気をつけようと思う事柄は思い浮かばないのですが、あえて言うと戦争についての考えが沖縄のお年が上の方は実体験が大きいため戦争に対する認識にもだいぶちがいがあるかも、と考えてお話を聞く態度に気をつけるかなと思います。
あと、アメリカについての発言は多少気を使うようにすると思います。
自分の意見を曲げることはせず、考えの足らない軽口をたたかないようにするというくらいの違いですが。

>重森誠仁で十分でございます。「沖縄系」は蛇足だと思います。

そう言われるかなーと書いたときから思っていました。失礼しました*

>すいません。勉強不足です。国と郷(クニ)の違いを説明してくださいませんでしょうか?

あ、ごめんなさい。
この場ではあくまで学術的な根拠に基づいて議論をしなくてはならなかったですね。
「郷(クニ)」という言葉は私が好きな詩人が詩の中で使っていた言葉でした。
その詩人は「私は国ではなく郷(クニ)に生きたい」と詩の中で書いていて、それに共感するところがありました。
実態のよくわからない「国」というものとちがう実態のある風土を持った「ふるさと」を守り生きたいという気もち、そうした気もちが沖縄を誇る方にはあるのかなと思ったので書きました。
でも、この言葉には定義があるわけではないですしここで出すには適当な議題ではなかったと思います。すみません。


重森 2005/06/21/22:16:57 No.68

rainbow様

ご返答どうもありがとうございます(^-^)

rainbowさんは、「日本人」や「イスラム教徒」などのカテゴリーを、目の前にいる相手と仲良くしていくために使用している。私はこのように理解しました。そして、このようなカテゴリーの使用法は、とてもいいものだと思います。

私が危惧するのは、カテゴリーが、相手を「排除」するために使用されることです。ある種のカテゴリーは、目の前の相手を自分たちとは異なる「他者」として「排除」するために、使用されることがあります。例えば、「黒人」というカテゴリーは、上記のような仕方で長らく使用されてきました。

あと、「沖縄系重森誠仁」の件ですが、叱咤してくださり、どうもありがとうございますm(__)m 

今後とも鋭いコメントどうぞ宜しくお願いします。


重森 2005/06/22/20:59:31 No.69

 私は被害妄想を持っているだけかもしれない。

 確かに、沖縄において私は、「沖縄人」から「ナイチャー」呼ばわりされることが多い。そして、敵意を向けられることが多い。

 しかし私を「ナイチャー」呼ばわりする「沖縄人」は全て初対面の人々もしくは通りすがりの人々である。幼馴染や町内の「沖縄人」はことさら私を「ナイチャー」呼ばわりしない。

 私は過度に敏感になりすぎているだけのような気がする。単に私は寂しがり屋なのであろう。
重森 2005/06/26/00:43:55 No.70
 「沖縄人」は「日本人」になろうとした。そして「日本人」になった。

 それは必ずしも「自発的に」というわけではない。しかし「強制的に」というわけでもない。

 確かに、当初は「日本人」が、「沖縄人」を「日本人」にしようとした。しかし、いつしか「沖縄人」は「日本人」になることを、自ら志向し始めた。

 例えば、「日本人」によって使用禁止にされた「沖縄方言」は、いつしか「沖縄人」自らによって率先して禁止されるようになった。

 また「沖縄人」は「日本人」になるために「日本人」が始めた戦争にも参加した。下記は、沖縄出身の日本兵士が戦地であるブーゲンビルより書き送った手紙の一節である。

「この大東亜戦争に勝った暁には、僕ら沖縄の人間は、日本人と同等に扱われる。だから僕らも戦争に勝ったならば、日本へいって家族和気あいあいとして生活できる。」(冨山 1995:8)

 「沖縄人」を「日本人」にするという「日本人」の試みは成功した。「沖縄人」は「日本人」になることを切望するようになった。

 そして「沖縄人」は「日本人」になった。

 上記のような事情を知りつつ、小林よしのりさんは、「「沖縄人」も「日本人」だ」もしくは「「沖縄人」こそ「日本人」だ」と述べているのだろうか? 小林氏による『沖縄論』を読んだあと、まっさきに私はこのような疑問を持った。

 「日本人」が「沖縄人」を「日本人」だと最初から認識しているのならば、わざわざ「沖縄人」を「日本人」にするために、様々な政策を打ち出す必要はなかったのではないか? 「沖縄人」は「日本人」ではないからこそ、「日本人」は「沖縄人」を「日本人」にしようとしたのではないのか? 「皇民化」しようとしたのではないのか?

 そうであるにもかかわらず、小林氏は、「「沖縄人」こそ「日本人」だ」と述べる。
 
 私は怒りを覚える。

 しかし、もはや「沖縄人」は「日本人」なのだ。いまさら「沖縄人」と「日本人」というカテゴリーを同等なものとして対比させても何の意味もない。「沖縄人」というカテゴリーは、「日本人」というカテゴリーの下位カテゴリーと化した。「沖縄人」カテゴリーは「日本人」カテゴリーに既に含まれている。「沖縄人」は「日本人」なのだ。 

 しかしそのくせ、「沖縄人」は「日本人」と自分自身を区別したがる。なんなんだいったい? そうでもしないと、自分に自信がもてないのか? 「沖縄人」というカテゴリーに身を埋めないと、不安で仕方がないのか? なんらかの集団に属していないと、寂しくて仕方がないのか?

 上記のような私の意見は、私自身が「沖縄人」によって「日本人(ナイチャー)」呼ばわりされてきたことから、生まれている。「沖縄人」は「日本人」になることを切望し、そして「日本人」になった現在においては、「日本人」を軽蔑する。

 この、仲間意識というものが私は嫌いだ。「沖縄人」や「日本人」というカテゴリーに限定される話ではない。「沖縄人」は、沖縄においては、今度は「宮古人」と「本島人」というカテゴリーを意識し、なにかと固まりたがる。なんで自分をすぐに○○人という集団カテゴリーに埋没させたがるのだろう? 寂しいのか?

 話がそれている。私はとにかく怒っている。

 「日本人」に散々な目にあわされたにもかかわらず、「沖縄人」の多くは「日本人」として自らを位置づけている。「沖縄人」は「日本人」の下位カテゴリーなのだ。誰もそのことを疑わない。

 これは、昔のことは忘れよう、という態度の表れなのか? それとも、単に昔のことを知らないだけなのか? 

 なんか、無償に腹立つ。

参考資料

http://members.at.infoseek.co.jp/bunko2002/2003-1206jinruikan.html

http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/yakabi.htm


重森 2005/06/26/20:45:35 No.72

 私の個人的な苦い(?)思い出に基づいた、「沖縄人アイデンティティー論」は、読んでいてうざくなる。

 どうでもいいではないかアイデンティティなど。重要なのは、衣食住と数人の友人を確保できるかどうかだ。

 「沖縄人」の中には、衣食住を確保するために、自ら政治的に「日本人」になることを選んだ人間がいる。このような「沖縄人」にとっては、「日本人」になることが、衣食住を確保するためのてっとりばやい方法だったのだ。

 いーじゃんその姿勢で。と思う。私もその姿勢でいきたい。アイデンティティなどどうでもいい。衣食住を確保するために、時には「日本人」とみなされるように行動したらいいのだ。時と場合に合わせて、「沖縄人」とみなされるように行動したらいいのだ。

 「日本人」としての国籍をもち、かつ、「沖縄人」という集団にも加わることが可能な私は、いわゆる「宙ぶらりん」な立場にいるといえる。「ナイチャー」の父を持ち、「沖縄人」の母を持つ私はまさしく「境界例」といえる。

 沖縄で生活している際に、「沖縄人」から「お前はナイチャーか?」と聞かれるたびに、私は次のように答えた。

 「いえ。父は確かに「ナイチャー」ですが、母は「沖縄人」です。そして私は18年間ずっと沖縄で育ってきました。」

 で、肝心の質問に私は答えない。私が「沖縄人」か「ナイチャー」かどうかの判断は、目の前の他人に任せる。完全に他人任せにする。

 じゃないと面倒なのだ。「日本人とは何か? 沖縄人とは何か?」という面倒くさい問題について考えなければならなくなる。だから他人に決めさせる。「沖縄人」としてみなされたほうが得な場合には、「沖縄人」として満たすべき条件を、相手から聞き出し、それに合わせる。

 ただそれだけ。

 もともと私は「日本人」でも「沖縄人」でもない。時と場合によって、これらの顔を使い分けるだけ。他人から「日本人」として見られたくなくなったら、言い換えると、「日本人」として当然果たすべき義務に疎ましさを感じたら、別の国の国籍を取得すればいい。

 ただそれだけ。

 「○○人」というレッテルが、離れがたくベタッと自分にくっついているようなイメージは捨てた方がいい。そして、「○○人」というラベルを自分が好きなように自分に貼り付けられるというイメージを持ったほうがいい。その方が健康的だ。悩まなくてすむ。

 他人が自分を「○○人」として見て欲しいなら、「○○人」として満たすべき条件を揃えればいい。戦略的に。

最初から、「自分は何者でもない」と思っていたほうがよい。「故郷は地球」ということにしておいたほうがいい。

以上。

http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/okinawatimes.html


重森 2005/06/27/07:59:35 No.73

↑駄目じゃん。この考え方。全然いけてない。

「黒人」や、かつての「沖縄人」や、「ギャル」等のカテゴリに含まされた人間が、いわれなき差別を受け続けることを、容認してしまっている。

どのカテゴリにも好きなときに属することができる立場にいるなら、話は楽だ。しかし、自分が所属するカテゴリを自ら自由に選べない(周囲が選べさせない)人は、どうするのだいったい。

まず第一に、「差別」の語り口を一掃する必要がある。