カテゴリーと科学

カテゴリーについて考えている。

人は、人をなんらかのカテゴリーに含みたがる(人というカテゴリー…)。

血液型もそのようなカテゴリーの一つである(カテゴリーという言葉もカテゴリーなのかな?)。

私は以前、血液型性格判断について文章をいくつか書いたことがある。

それらのドキュメントを自宅PCの奥深くに発見したので、ここに掲載しておく。

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ホムンクルス


会社の同期の間で、ホムンクルスという番組が話題になった。その番組において、血液型性格判断の正しさが立証されたのだという。

どうやら、ホムンクルスという番組は、TBSで放送されている番組のようだ。

http://www.tbs.co.jp/program/homuculusp20040605.html

ネットでしつこく検索をかけてみたのだが、公式に公開されている番組の詳細な内容を、見つけることはできなかった。

しかし、「ABO FAN」というサイトを運営している人物(以下、ABOファンと呼ぶ)による、次のようなページを見つけることができた。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/homunculus.htm

グーグルで検索してみると、次のようなページも見つけることができた。

http://www.ht.sakura.ne.jp/~delmonta/lagerhaus/040221a%A1%D6%C3%B5%B8%
B1%A1%AA%A5%DB%A5%E0%A5%F3%A5%AF%A5%EB%A5%B9%A1%C1%C7%BE%A4%C8%C2%CE%A
4%CE%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA%A1%BC%A1%C1%A1%D7%A4%E8%A4%EA%A1%A2%B7%EC
%B1%D5%B7%BF%A4%CE%CF%C3.txt

「血液型と性格には関連がある」と判断できるような実験結果が得られたと、誰かが主張するならば、私もまっさきに上記のサイトの人物のように、「自己成就的予言」の考え方を用いて、この結果を批判するだろう。

だが、面白いことに、先のABOファンは、「自己成就的予言」についてもちゃんと言及している。それも、オカルト批判で有名な心理学者である菊池さんに、直接メールで質問し、かつ、彼の著書にも目を通したうえで、である。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/kikuchi.htm

ざっと目を通したところ、ABOファンは、「言霊」という言葉の、その字義通りの意味にこだわってしまうあまり、菊池さんの主張を曲解しているように思える。。。

話は変わるが、ABOファンによる「科学的」という言葉の使い方に、私は新鮮な驚きを感じた。

ABOファンは次のように述べる。

 「実は別の問題(?)もあります。この本では、一貫して予言のような不思議現象や超常現象は否定しています。予言は、「当たっているように見える」だけで、本当に当たっているのではないと…。しかし、心理学的には「自己成就予言」というのがあり、そう思うとそうなるという事例は示されています。ピグマリオン効果ですね。
 となると、ある種の予言が当たるのには「心理学的(科学的)な根拠」があることになってしまうのですが…。
 当然の論理的帰結として、予言を信じるのは「当たるように見える」のではなく(ある種の予言は)「本当に当たる」からということになってしまいます。あれ?(@_@)」

たとえ「自己成就的予言」の考え方によってのみ、血液型と性格との間につながりがあることを立証することができるとしても、このことはつまり、血液型と性格とのつながりに、「科学的な根拠」があるということではないだろうか?

ABOファンはこのように述べるのである。

なんか面白い。

おそらく、「心理学的(科学的)」という言葉を、どのように定義するかという問題がここには関わってくる。フッサールが問題にした「生の事実」と「物理学や数学といった学問が作り出すような、虚構としての事実」との関連性をめぐる問題が。

(↑「心理学的」という言葉と、「科学的」という言葉をイコールで捉えていいのか?)


血液型性格判断と科学について】


佐藤達哉という名の心理学者のサイトを訪ねる。

そこで佐藤氏は日記(June,10,2004付)に、次のようなことを書いていた。

「このごろ、TV番組で血液型と性格の問題を扱うものが増えているようだ。どことは言わないが「ホモ○○ルス」の関係者から取材がきた。相手「先生は血液型と性格についてどういう立場でしょうか?」私「歴史的に否定されたものであり、現在でも科学者コミュニティの中では信頼できる研究が発表されてはいないし、弊害も多いと思います」相手「ではまた、いずれ取材させていただくかもしれません」。って短かすぎるでしょ?!会話が盛り上がらない〜。モチロン番組には反映されていませんでした。」

http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~satot/Ritsnew.html

佐藤氏は、血液型の種類によって引き起こされる差別について研究している人物である。

http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~satot/newversion/dont/blood.html

血液型と性格について佐藤氏は、その著書において次のように述べている。

「 採用だけじゃなくて、就職してからの人事管理にも、血液型の影響が出ている。「適材適所」の参考に血液型を使おうというわけだ。
 さる大企業が「独創性があるのはAB型」ということで、AB型だけの企画チームを作った、という話は新聞(左頁)にも取り上げられた。
 この企画グループが本当に独創的なアイデアを連発した、というのなら話はおもしろいんだけど、その後の話は伝わってないし、むしろ新聞にとりあげられて話題になりすぎたせいか、しばらくあとには解散になっちゃったらしい。
 おなじような考え方から、「営業に向くのはO型」とか「A型は細かいから経理に向く」とか考えて、実際に配属や人事異動の参考にしている会社がけっこあるようだ。
 ましてや経営者の個人的好みの影響力が大きい中小企業や個人商店などで、社長が血液型マニアだったらかなり激しいことになってるだろう。バイトの面接で血液型を聞いて、「ほほう、じゃあ性格は明るくておおらかなほうだね」なんてやってるのはそういう人。
 しかし、これもよく考えるとまずいよね、O型で営業に向いてない人やA型で経理に向いてない人だって必ずいるだろうし、逆にA型で営業のセンスを持った人だっているはずだ。
 自分に向いた仕事は働いてみなければわからないし、 適材適所だっていちおう一通りやらせてみて初めてわかること。 血液型で職種を決めてしまおうなんて、手抜き以外のなにものでもない。
 これが手相や星占いだったら相当な非難を浴びそうなものだけど、なぜか血液型だとそうでもない。さっきの新聞記事だって、それほど否定的なとりあげかたでもなかったでしよ。でも、あとの章でもくわしく説明してるけど、血液型性格診断は占い以上でも、占い以下でもないものなんだ。
 血液型のせいで、たとえばO型以外の7割もの人が自分の営業への適性を示すチャンスを失ってしまうなんて、どう考えてもおかしいよ。いますぐやめてー。」

そして例のABOファンは、この人物にもちゃんと言及しているのである。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/sabetsu.htm

ABO ファンという人物は、なんともすごいバイタリティーを持っているなあと、私は感心する。ABOファンは、どうしてそこまで「血液型と性格との間に科学的なつながりがあること」を確信しているのだろう? 私にとってこのことが大きな疑問である。この人物はなぜここまで血液型性格判断の正しさを確信しているのだろうか?

私は、ABOファンによる佐藤氏への批判は、的を射ていないと考える。むしろ、人が健やかに生きていくことを阻害しかねない危険な考え方を、ABOファンは持っているように思える。

なぜならABOファンは「差別」という言葉について、下記のようなことを述べているからである。

「ほとんどの人は(血液型性格判断を(注1))「差別」や「嫌がらせ」とは思っていないようですね。というのは、もし、そういうマイナスのイメージが強いのなら、普通の会社がプレス発表したり、多くの本が出版されたり、人が簡単にインタビューに答えたりするわけがありませんから…。細かい説明はともかく、マクロ的に考えるとどっかヘンと思いませんか?」 


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注1 

血液型性格判断を)は、重森による挿入文です。

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血液型によって性格を判断すること。さらに血液型によって企業が採用者を決定すること。これらのことが「当たり前」のように行われていること自体に、ABO ファンは何の疑問も持っていないようなのである。むしろこのことを、血液型性格判断が「差別」ではない証拠であるとABOファンは考えているようなのである。

これは危険な考え方ではないだろうか?

腸チフスやペストやコレラに感染した人間を、保健所が隔離することは、十分に認められる行為である。なぜならそのまま町に患者を放置しておくと、患者から他の人間に菌が感染していくことが「科学的に」立証されているから(注2)。

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注2

本当か? 私はメディアや人づてに聞いた話を鵜呑みにしているだけで、このことを実験を通して証明してはいない。なのにこのように断言してもいいのか? 結局は私もABOファンと同じだ。

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しかし、こと血液型性格判断については、この正しさは「科学的に」立証されてはいない。にもかかわらず企業の中には血液型性格判断を行い、採用者を決定しているものがあるのである。そしてABOファンはその行為を、「差別」ではないと主張するのである(注3)。

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注3

言うまでもなく、この問題は、女性差別や人種差別の問題と同じである。女性は無能であるということは「科学的に」実証されていると確信する人事の人は、絶対に女性を重要な役職につけることはない。そして結果的に女性は出世できない状態に置かれる。そしてこのことがさらに「女性は無能である」という「科学的命題」の正しさを裏付けてしまう。人種差別(例、黒人差別)についても同じことが指摘できるだろう。

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血液型性格判断の「科学的」正しさが、いまだ証明されていないにもかかわらず、ABOファンはなぜかその正しさを確信している。

ABOファンは下記のページで次のように述べる。

「「血液型ステレオタイプ」とは否定論者の心理学者によく使われる用語で、血液型によって性格が違うという信念のことです(私は「信念」ではなくて「事実」だと思っていますので念のため)。」

http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/kamise.htm

ABOファンにとっては、血液型性格判断の「科学的」正しさに疑問や違和感を持ってしまう、現実にこのような考え方によって不利益を蒙る人々のことは、どうでもいいのであろう。

血液型がB型でないばかりに、行きたい配属先に入ることができなかった人に対し、ABOファンは「仕方ないよ。君はB型ではないし。血液型性格判断は「科学的」に正しいからね」とでも答えるのだろうか?

このように、ABOファンは、血液型性格判断に疑問を投じる佐藤氏に対し、完全に筋違いな批判を行っているのである。血液型性格判断は「差別」と思われていない行為だから、「差別」ではないとABOファンは述べている。これは完全なトートロジーではないだろうか。「論理的」とは言いがたい。少なくとも私は納得することができない。

そんなABOファンに対し、渡邊芳之という名の心理学者が下記のサイトにおいて議論を挑んでいた。

http://www.obihiro.ac.jp/~psychology/abofan.html

まだ手紙(29)と手紙(30)にしか、私はちゃんと目を通していないが、心理学者渡邊芳之氏のスタンスからは学ぶべきものが多いと思う。

私は依然として、血液型性格判断が「科学的に」正しいのかどうか分からない。だからこそ、このような考え方を鵜呑みにしたくはないと思う。その正しさを確信もせずかつ全否定もせず、「分からないこと」として捉えておきたい。

しっかりと時間をかけて渡邊芳之氏の文章を熟読したい。

この人物が言っていることも、もしかしたら「論理的に」おかしいことかもしれないから(注4)。

しかしそれにしても、ホムンクルスという番組を作っているTBSの人たちは、有害だと思う。はっきり言って許せん。

はた迷惑で無責任な呪術師たちだ。

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注4

「論理的」という言葉にも私は違和感をおぼえる。どのような条件を満たした文章が、論理的と言い得るのだろうか? 根拠がついていればいいのだろうか? しかし主張と根拠のつながりを保障するものはこの場合、いったいなんであろうか? なんらかの主張を裏付けるために付与された根拠が、その主張を確かに裏付けているものとして認められるのは、どのようにしてか。根拠が根拠である根拠が必要とされないだろうか? しかしこんなことを考えていると、根拠が根拠足りていることを根拠付ける根拠が、根拠足りていることを根拠付ける根拠が、根拠…、というふうに永遠に、無限に根拠を求めざるを得なくなるので、厄介だ。

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血液型性格判断と科学について2】


血液型性格判断は「差別」と思われていない行為だから、「差別」ではないとABOファンは述べている。これは完全なトートロジーではないだろうか。「論理的」とは言いがたい。少なくとも私は納得することができない。」

と私は書いた。納得いかないと私は書いた。しかし、さきほど「ある独特の仕方で」納得がいってしまった(注1)。

「割礼しなければ人は成熟できない。割礼は暴力ではない。」という発言を、私は「ある独特の仕方で」納得できるように、ABOファンの主張も「ある独特の仕方で」納得できてしまうことに、さきほど気付いたのである。

「差別」や「暴力」という言葉は、なんらかの行為に付与される言葉だ。本来、行為とはいかようにも記述することができるもの。こういう現象を理論化したものを、アスペクト論というのであろうか?

「差別と思っていないから、差別ではない。」というABOファンの主張を、私はこのように理解してしまった。

確かに、ある図形をウサギとしてしか見ることができない人に、「それはアヒルだ」と強くしつこく言い聞かせても、無駄なような気がする。

なぜなら彼には、世界がそのようなものとして見えてしまっているから。否定しようもないほどに。

論理的ではないと私はABOファンを批判したが、私のこの批判は、的を射たものではないかもしれない。

注1

「ある独特の仕方で」とわざわざ私が書き足すことによって、表現したいことは下記のようなことである。

私はABOファンの言うことをリアルに受け取れない。しかし、ABOファンが「血液型性格判断は科学的に正しい」とリアルに確信しているということを、把握することはできる。

しかし把握できたからなんなんだろう。血液型性格判断の正しさが自明視されることを、私は肯定することはできない。

明らかに有害な言説だと思う。




血液型性格判断と科学について3】


アスペクト論を導入する必要はないのではないか?

要は、「科学的に」という言葉が、どのような条件を満たしたうえで初めて使用できるのかを明らかにすればいいのである。

「言説の影響をまったく受けることのない、徹底的に物質的な領域」と、「言説の領域」とを、明確に区別し、「科学的に」という言葉は、前者の領域に対してのみ、使用することのできるものとしなければならない。

ABOファンは上記の二つの領域を混同しているように思える。

一方で、いわゆる構築主義者と呼ばれる人たちは、「言説の影響をまったく受けることのない、徹底的に物質的な領域」の存在を認めず、すべてを「言説の領域」における問題として、処理する傾向があるのもいただけない。

構築主義者たちが「うめ星という惑星がある」という言説をいくら流しても、物理的客観的に(つまり科学的に)は、うめ星は実在できないであろう。

逆に、構築主義者たちが、「月などない」という言説をいくら流しても、物理的客観的に(つまり科学的に)は、月はこれからも実在し続けるであろう。

二つの領域を区別して考えなければならないと、私は思う。

しかしいつかO杉先生に、「世界を二つの領域にくっきりと区別することはできないはずだ」とコメントされたことがあったっけ。「これこそがフッサールが言いたかったことだろう?」とその後先生は述べたっけ。

フッサール、ちゃんと読んでみたい。



血液型性格判断と血液型相性判断に関する5つの問】


仕事をしながらも、どうしても私は、血液型と性格の結びつき、そして、血液型と相性の話題について、考え込んでしまうのである。

というのも、土曜日に行われた会社の飲み会で、上司の一人が次のような発言をしたのである。

「O型はB型にあこがれるのよ。O型の人が好きになるのはだいたいB型の人なのよ。」

もう一人の上司がそれに同意する。

「うん。そうそう。確かにそう。」

しかし私は同意したくないのです。

会社に入って何度このような会話を耳にしたことか。人々は「血液型と相性のつながり(および血液型と性格のつながり」の正しさについて、なかば確信的に語るのである。

思えば、私がこのような話題に初めて触れたのは、中学2年ぐらいの頃であった。

ほうきで教室の床をはいていた私に、ある女生徒が「あー。あなたってA型でしょう?」と言ってきたのである。

私はそのとき、こまめに床を掃いていた。なるほど、こまめに、つまり神経質そうに几帳面に何らかの行為を遂行すると、人は私を「A型」として認知するのだなと、深く感動したのを覚えている。

それ以来、人前で私はわざと几帳面に振舞うことによって、お目当てのセリフを相手の口から引き出すことを、楽しんで行っていたこともあった。

今考えてるのは、いったい何が起こっているのかということだ。

人が誰かに向かって「几帳面にふるまうあなたはきっとA型でしょう?」と述べるとき、私はいったいどうすればいいのだろうか?

次のような5つの疑問が私の頭に浮かぶ。

まずはじめに思いつくのが、

1、それは「科学的な」分野の話題か?

という疑問である。

「几帳面にふるまうあなたはきっとA型でしょう?」という命題は、言説の影響をまったく受けることのない、徹底的にハードな分野に関する命題だろうか(注1)? おそらく、この問いの答えはノーである。なぜなら、「几帳面にふるまう」という言葉がすでに「科学的」な分野の言葉ではないからである。

次に思いつくのは、

2、「論理階梯の混同」はここにも指摘できるのではないか?

という思いつきである。

さらに私の頭をかけめぐるのは、

3、先日学会で中川先生が行った「藤木のひきょう」に関する発表である。

上記の発表は、今回の血液型をめぐる話と、どのように関連するのだろうか? どのように血液型をめぐる話にからませることができるだろうか?

で、やはり、最後に考えるのは、

4、どうしたら「血液型性格判断」や「血液型相性判断」の正しさを否定し、いかに我々は言葉によってその現実を絡めとられしまっているのかということを、皆に説得的に語ることができるのか?

という、あからさまに啓蒙主義的な願いである。

そしてさらに、頭をよぎるのが

5、そのような啓蒙主義的な指摘を行うことは、倫理的(注2)にいかがなものか?

というとまどいである。

2の「論理階梯の混同」についても同じことが言えるが、このような物言いを、現地の人に対して行うことに私は抵抗を覚える。たとえ現地の人が、私の上司であっても同様である。

「論理階梯が混同していると思います。」や「血液型と性格には「科学的な」つながりはないと思います。」と、私は上司に言ってもいいのだろうか? 

上司は私の指摘を煙たがるであろう。あるいは、ふーんと受け流すだけかもしれない。しかし少なくとも、私は自分自身の上記のような指摘は、「余計なこと」に過ぎない気がするのである。

私がするべきことは、「あぁー。論理階梯が混同しているよー。おおー。予言が自己成就しているよー。」と密かに思いながら、静かに人々を傍観するという作業のみに思える。けして変な口だしはせずに(注3)。

しかし、やはりどこかで、なんとかこの流れを変えたいという変な欲望もあるのである。

上記の5つの問題に関して、ゆっくりと腰を落ち着けて考える暇が欲しい。

注1

ポパーとかクワインとかフッサールとかもちゃんと読んでから「科学的」という言葉を使いたい。

注2

なんだ倫理って。相手を不快な気分にさせたくないという意味か?

注3

つーか。いつもやっていることじゃないか既に。何をびびっているんだか。他人の「思い込み」に揺さぶりをかけて、自分の「思い込み」に相手を引きずりこむという営みを、毎日様々な場所でいろいろな人に対して行っておきながら、いまさら何を恐れる?