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呪われて強くなったアシタカについて

人類学 映画


映画『もののけ姫』には、アシタカという名の青年が登場する。彼は呪われることによって、常人離れした力を発揮する。例えば、アシタカが射る矢に当たった武士の頭は、胴体から分離され、丸ごともぎとられていく。

もののけ姫』の作者である宮崎駿は、「呪われること」について、どのように考えていたのだろうか。

一見、「呪われること」は回避すべき不吉なことのように考えられる。しかし、呪われたアシタカの腕は、今までのアシタカにとっては不可能であったことを可能にする。

したがって私は、次のことを指摘したい。

もののけ姫』においては、「呪われることによって初めて可能になることがある」という事実が描かれている。「呪われること」は、必ずしも忌避すべき不幸な出来事ではない。

上記のことを踏まえるならば、「呪縛されている」という言い回しを、「支えられている」という言い回しに換言しても問題ないように思える。

追記 2005/07/16/23:24:18

自分で使用しておきながら、その使い方に違和感を感じさせる言い回しがある。すなわち、「呪われる」もしくは「呪う」がそうである。

これらの言い回しを、私はしれっと使いこなしていながら、実際のところ、自分が何を読み手に伝えたいのか─自分が何を言いたいのかさえ─正確に把握できていない。非常に心もとない*1

「アシタカの腕が奇妙に膨らんでいる。彼はその腕に痛みを感じている。そして彼がその腕で放つ矢には、強烈な威力が備わっている。」

上記のような現象を前にして、人々は「アシタカは呪われている」と述べる。それにならって、私もアシタカの状態を「呪われている」という言い回しで表現する。

しかしちょっと待って欲しい。観察できるのは、あくまでも次のような現象である。

「アシタカの腕が奇妙に膨らんでいる。彼はその腕に痛みを感じている。そして彼がその腕で放つ矢には、強烈な威力が備わっている。」

どうしてこのような現象に対して、人々は「呪われている」という言い回しを使用するのだろう?

「どうして?」と問うことはやめよう。人々が語るその仕方を出来るだけ正確に分析してみよう。いったいここでは何が起きているのか。

「アシタカの腕が奇妙に膨らんでいる。彼はその腕に痛みを感じている。そして彼がその腕で放つ矢には、強烈な威力が備わっている。」 

人々は、上記のような出来事を目の当たりにしたときに、「呪われている」という言い回しを使用する。ということはつまり、上記のような一連の現象群そのもの自体に付与された言い回しが、「呪われている」という言い回しなのであろうか?

また、上記の現象─一連の出来事群に「呪われている」という言い回しが付与されていること─とは別に、「呪われた」という、もう一つの出来事がここでは想定されているようにも思える。つまり、「アシタカは呪われた」という出来事と、「アシタカの腕が奇妙に膨らんでいる。彼はその腕に痛みを感じている。そして彼がその腕で放つ矢には、強烈な威力が備わっている。」という一連の出来事群が、別々の出来事として明確に区別されつつ、かつここでは結び付けられて考えられているように思える。「呪われたこと」が原因として、そして、「アシタカの腕が奇妙に膨らんでいる。彼はその腕に痛みを感じている。そして彼がその腕で放つ矢には、強烈な威力が備わっている」ことが、原因の引き起こした結果として、ここでは人々に捉えられているようにも思える。

自分でしれっと当たり前のように使っておきながら、私は「呪われる」もしくは「呪う」という言い回しについて、よく分かっていない。

非常に心もとない。

追記 2005/07/17/00:04:22

別に何もおかしい点はないのではないか?

「アシタカは呪われた」という出来事があり、その状態が現在も持続している。ただそれだけのことではないか?

この場合の「呪われた」という言い回しは、具体的にはどのような出来事と対応するのかは良く分からない。「タタリ神が分泌する汁に触れた」ということがすなわち、「呪われた」ということそのものなのかもしれない(『もののけ姫』の内容を忘れているのでうろおぼえ)。

そして、その「呪われたこと」が解消されずに、つまり取り消されずに、そのままずっと現在まで持続していること。このことがすなわち「呪われている」ということ。ただそれだけのことではないのか? 使用されている動詞が、過去形が現在形かということが問題なのであって、ここには論理階梯の視点を導入する必要はないように思える。

ていうか、重森は論理階梯理論の影響を受けすぎている。物事全て論理階梯の視点から眺めてしまっている。重症だ。「論理階梯を意識して世界を眺めること」が癖になってしまっている。呪縛されている。呪われている。

はたして重森も「呪われて強くなっている」といえるのだろうか?

(↑上記において私は、「癖になってしまっている」ことと、「呪縛されている」ことと、「呪われている」ことをいきなり等置してしまっている。「呪われている」という、一つの言い回しの「使用方法」を、いたずらに増やしてしまっている。これはいかがなものか。)

追記 2005/07/17/14:23:49

様々な言い回しそれぞれの関係をまずはしっかりと定義しないと、やっぱ議論が散漫になる。

1、「呪う」
2、「呪われる」
3、「呪われた」
4、「呪われている」
5、上記4つの動詞の名詞版。すなわち「呪うこと」「呪われたこと」「呪われていること」
6、「呪い」

私は、上に挙げたような、互いにその身分を異にする言い回しを、常に混在かつ混同させたまま議論を行っている。以下、私の乏しい日本語文法知識を駆使して、上記の言い回しの身分を整理してみる。

1 → 動詞。 現在形。能動態。
2 → 動詞。 現在形。受動態。もしくは、形容詞とも言える。
3 → 動詞。 過去形。受動態。もしくは、形容詞とも言える。
4 → 形容詞。現在形。受動態。
5 → 名詞?
6 → 名詞?

何がしたいのか分からなくなってきた。

私は単に、例えば、「相性が悪い」という言い回しと、「相性の悪さ」という言い回しを、「本来は同じもの」として眺めることに対する違和感を、表明したいだけなのだが。うまくいっていない。

「相性が悪い」という言い回しの身分は、「主語(相性が)+形容詞(悪い)」。そして「相性の悪さ」という言い回しは、名詞(相性の悪さ)。互いに異なる身分をもつこれらふたつの言い回しを、「本来は同じもの」として眺めることに私は違和感を感じる。

ことあるごとに喧嘩する夫婦がいるとする。彼らの間で生じるいざこざの連続を前にして我々は、「相性が悪い」という言い回しを用いることがある。また同時に我々は、「「相性の悪さ」が原因で、あの夫婦は喧嘩するのだ」と述べたりもする。そしてこのとき、「相性が悪い」という言い回しと、「相性の悪さ」という言い回しは、「論理階梯の混同」という考え方に基づき、「同じもの」として捉えられる。

しかし、本当に、「相性が悪い」という言い回しと、「相性の悪さ」という言い回しは、「同じもの」として捉えることができるのだろうか? 同じものとして捉えてもいいのだろうか?

「相性が悪い」という言い回しと、「相性の悪さ」という言い回しは、お互いに独立した言い回しであって、「後者の言い回しは、前者からの変形である」とは言えず、かといって、「前者の言い回しは、後者からの変形である」とも言えないような気がするのだ。これらを「本来は同じもの」と言うことができるのは、どのような根拠によってなのだろうか? 私は昔からこの点に分からなさを感じている。論理階梯の混同を指摘することが可能になるためには、「相性の悪さ」と「相性が悪い」というふたつの言い回しが、「本来は同じもの」である必要がある。「本来は同じもの」が、同時に二つの異なる論理階梯に存在しているからこそ、「論理階梯の混同」を指摘できるのである。しかし、この「本来は同じものである」ということを保証するものは何なのであろうか。ここが分からない。

 例えば一組の夫婦がいたとする。たまたま二人のあいだに、些細な理由からの喧嘩や齟齬が頻発したとしよう。一つ一つをとれば、いずれも全く別の、それも取るに足らない原因で起こったいさかいであり、もちろんそれらは互いに何の関係もなかったのである。それらはその都度修復されうるものであり、二人をもとどおりの仲の良い夫婦に還すことはその都度可能であった、そんな類の齟齬であった。しかし、こうしたトラブルを経験しているあるとき、二人がふいに自分たちは「相性」が悪いのではないかと思いあたったとしよう。にわかに、ばらばらの出来事がこの「相性の悪さ」という観念のまわりに再付置され、一つの反復するパターンとして互いに関係付けられてしまうことになる。これらの齟齬は二人の「相性」が悪いために、つまり「相性の悪さ」が「原因」で生じたのだという訳である。
 しかしよく考えてみれば、これは実に奇妙な語りだということになる。というのは、こうした齟齬を同じパターンで頻繁に経験するということが、すなわち「相性が悪い」ということなのであって、こうした個々の出来事と相並んで、それとは別に「相性の悪さ」なる何かがあったりするわけではないのだ。その証拠に、「相性の悪さ」による語りから、当の「相性の悪さ」そのものを取り除いてみても、語られる内容には何の変化も生じない。語られるのはやはり個々の齟齬やいさかいだけである。それらが、今や互いに関係付けられてしまっているということを除いては。「相性」は、妖術の語りにおける「妖術」、妄想における「スパイ」や「陰謀」と同様、既に関係付けられてしまっている出来事の経緯にとっては余計な要素なのである。またある点で、それは妄想と同様な救いがたい相互反照的な内部循環を示してもいる。つまり人々は、「相性の悪さ」が原因でしかじかの齟齬が起こっているのだと語り、しかじかの齟齬のあいだの関係付けを「相性の悪さ」によって説明するという構図をとっているが、実際には同時に、しかじかの齟齬がある仕方で互いに関連付けられて経験されているという事実そのものを「相性の悪さ」の唯一の根拠として提出するしかないのである。二人は「相性の悪さの物語」、つまり再び自分自身を根拠付けてしまう関係性に呪縛されているのだ。
 「相性の悪さの物語」は、こうした構造をもつ語りについての、もう一つの重要な特徴を明らかにする。夫婦の間の細々としたいさかいや齟齬のなかに、あるときふいに見てとられた、こうした出来事の経緯が示す表情、それが「相性の悪さ」である。それは出来事そのものとは異なる論理階梯に本来属している。それは個々の出来事と相並んで語ることのできる一つの項ではなく、それらの出来事を項とする関係態に言及するものである。それが当の出来事と相並んで存在し、それらの出来事を引き起こしたりする一つの実体として語られたもの、それが「相性の悪さの物語」なのである。それは論理階梯の混同のうえに成立した語りなのだ。(浜本 1989)

確かに、「相性の悪さ」という言い回しの身分は項である。そして、「相性が悪い」という言い回しの身分は、項が構成する関係態に言及するものである。「相性の悪さ」と「相性が悪い」というふたつの言い回しは、異なる論理階梯に属しているといえる。

しかし、「相性の悪さ」と「相性が悪い」という言い回しは、本来は同じものであるという証拠は見当たらないように思える。

したがって、論理階梯の混同を指摘することはできないのではないか? なぜなら、二つの言い回しが、それぞれ異なる論理階梯に属しているとはいえ、この二つの言い回しは「本来は同じもの」であることの裏付けがないからである。

「相性の悪さ」という言い回しと、「相性が悪い」という言い回しは、非常に似ている。前者は「名詞」であり、後者は「主語」と「形容詞」が合体したものであり、前者は後者が名詞化したものであるような気が、かなりする。

しかし、この名詞化が実際に生じたという証拠を私は見つけることができない。

うーん。分からない。実は私は、2年前からこの問題につまづいている。

物象化論は難しい。

参考文献

浜本満 1989 『フィールドにおいてわからないということ』
http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/published/fieldwork.html

浜本満 1989 『不幸の出来事 : 不幸の語りにおける「原因」と「非・原因」』
http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/published/hirakawa.html

浜本満 2005 『物象化論再考:マルクス廣松渉柄谷行人
http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/workingpaper/reification2a.html

追記 2005/07/19/22:08:04

浜本先生の『物象化論再考』。仕事の合間に読んでいる。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/workingpaper/reification2a.html

私が理解できていない部分は、次の箇所だ。

「問題は商品にとっての価値や、言語にとっての意味のように、項が特殊な対象的属性---もちろんそれは特殊な反照規定関係のなかにその項があるということの言い換えである---をもっているという事実ではない。それはそうした特殊な反照規定関係が、体系性をもった安定したひとつの関係態として成立しているということの言い換えに過ぎない。問題は、そうした体系性がいかにして可能であったのか、なのである。」(浜本 2005)

浜本先生は問う。「体系性はいかにして可能であったのか」。

ところで、ここでの「体系性」とは何のことを指すのであろうか?

考えてみる。

例えば、ここでの体系性とは、浜本先生が挙げている例を持ち出すならば、「うそぶく」=「そらとぼける」=「大きなことを言う」=「えらそうなことを言う」とでも書くことができるような、「等価関係」のことを指すのではないだろうか?

上の4つの言い回しは、すべてイコールでつながっている。すなわち、「うそぶく」は「そらとぼける」に言い換えることができ、また「そらとぼける」は「大きなことを言う」に言い換えることができ、また「大きなことを言う」は「えらそうなことを言う」に言い換えることができる。

しかし、この言い換えは、どうして可能になっているのだろうか? なぜ、「うそぶく」は「そらとぼける」に言い換えることができるのだろうか? この言い換え(つまり等価関係)を保証するものは一体なんであろうか(注1)? これが浜本先生が問いたいことではないだろうか?

現時点において私は、浜本先生の『物象化論再考』をこのように理解している。

もっとしっかり読み込んでみたい。

注1

おそらく「意味」という言い回しが、「うそぶく」の「そらとぼける」への言い換え(=「うそぶく」と「そらとぼける」の等価性)を保証するのだろう。しかし私はこの部分がよく分かっていない。「意味」という言い回しと、「「うそぶく」=「そらとぼける」」という体系との関係を、把握できていない。

*1:こんな小難しいことを考えるのはよしたほうがいいのでは? ただ単に言い回しを、「自分が言い回しを使用することによって、他人は何かを理解してくれた」と自分が確信できる限りにおいて、使いこなせればいいのでは? 言葉のその意味もしくは使用の仕方または定義にこだわりすぎてしまうと、何かを他人に伝えることが途方もなく困難な作業のように思えてきて、苦しくなるぞ。