地震花火9時帰宅


地震が起きると、少なからずの人々の目が、妙に輝きだすように見えるのは、私の錯覚であろうか。

仕事中、たぶん19時30分ごろ、会社のビルが揺れた。
地震だ。
ついにきたか。働きながら死ぬのもある意味格好いいなと思いつつも、恐怖で体が固まる。

しかし、同時にわくわくしている自分にも気付く。

「日常」とは異なる「非日常」は、たとえ地震という忌み嫌われるものがもたらしたものだとしても、人を健康的に興奮させるものなのかもしれない。

また、不幸な出来事だけでなく、地震のおかげで手に入る幸運な出来事も、あるかもしれない。

例えば、地震のせいで、体育館だとかで集団生活を余儀なくされ、そこで知り合った人と結婚したりする人も、いるのではないか。

などと考えているうちに、揺れが止まった。

震度3ぐらいか。

会社から北千住駅に着いたら、人だらけだった。
浴衣姿の人だらけ。

そうか今日は花火大会だったと納得しつつ、川沿いの家まで人をよけつつ歩いていく。

駅の通路や道端で人がペタンと座っていたり、道路が人で埋め尽くされていたり、屋台がいたるところに出ていたり、雰囲気がやはりいつもと違う。

なんとなく、みんな目が開いている。

こういうとき研究者は、特に民俗学者は、「ハレ」と「ケ」という分析枠組みを用いて、現在の北千住で起きている現象を、説明したりするのだろうな。

曰く。北千住は今、「ハレ」、つまり「非日常」の状態であり、「日常」であるところの「ケ」とは区別されるような状態である、と。

横を、ミニスカの金髪ねーちゃんが歩いていく。前方からは、中学生ぐらいだろうか、キャミソール姿の女の子が3人並んで歩いてくる。その女の子たちをなんとなく意識しつつ、なんとなく道端で立っているタンクトップの高校男子3人。ほらほら、早く声かけないと、女の子、歩いていっちゃうよ。

こんなとき研究者は、例えば機能主義大好きな社会学者や人類学者は、次のようなことを言うのかもしれない。

曰く。花火大会に代表されるような祭りは、若い男女が恋人を見つける出会いの場であり、やがて彼らは結婚し子どもを作る。このことから祭りには、社会の構成員を増やすという機能がある。

もうしばらく歩いてみると、道端でペタンとウンコ座りしている女の子が見える。

こんなとき研究者は、例えば社会学者は、次のように言ったりしそうだ。

「九〇年代半ばから、とりわけ都会で、どこそこ構わず地べた座りする若者らが目立つようになった。脚力の低下が取り沙汰されたりもした。でも、これは、いったんは機能化された場所を「再屋上化」する戦略なのだ、と考えることもできる。」(宮台 2005)

屋上。それは、そこにいる人々になんの役割も期待されることがない空間。現在では喪われてしまったこの空間を奪還すべく若者たちは、地べたに座る。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=276

道端で座っている若者は、単に疲れて座っているだけのような気がするのだけど。。。

などと、突っこんではいけない。

目の前の現象に、「独特の言い回し」を用いて言及することにより、その説明を聞く者を、これまでとは異なる世界にいざなうこと。

さらに言えば、「独特の言い回し」を用いて説明することで初めて、今、目の前でなんらかの現象が生じていることを人々に認識させること。説明することで、当の説明されるべき現象自体を、人々の前に立ち上がらせること。

そして、「独特の言い回し」を耳にした人々が、否応なくその「独特の言い回し」を意識し、自他の言動を、その「独特の言い回し」のもとで眺めるようになってしまうことによって行動し、結果、また新たな現実が作り出されてしまうこと。

上記のような事態を生じさせるような、「新たな現実を作り出す」論文。「見たことも聞いたこともないような現実」を誘発するような論文。「新たな現実の成り立ち」に確実に寄与するような論文。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/fragmentary/resistance.html

そんな、起爆剤のような論文を書きたいなーと思いつつ、道行く人々を眺めながら、家に帰った。