嫉妬


『「ひきこもり」だった僕から』を読んでいる。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062110725/250-5977602-9543431

元ひきこもりであり、現在はひきこもりの相談員として活躍している筆者の切実な思いが痛いほど伝わってくる。

『ひきこもりカレンダー』と比べて、非常に重い。

どうやら私は『ひきこもりカレンダー』の筆者である勝山氏に、妙な敵意を覚えているようだ。例えば私は、勝山氏による次のような記述に対して反感を覚える。

「親と子は血がつながっているんです。当然お金もつながっているのだから、どんどんもらってどんどん使いましょう。出世不払い。ほぼ100パーセント出世しない予定なので借り殺しです。親子ですからこれくらいガツンとやってやらないと。親が年老いてきたら年金にたかりましょう。それでも足りなければ生活保護。国家に寄生しましょう。障害年金という素晴らしい制度もあるので、心の病になってしまった人はチャンス。福祉ですよ、時代は。お金は使ってこそのものです。非自立主義だと生きるのが楽チンになるね。あんまり働かなくてすむし。親が嫌だというのが自立したい理由の一番だと思うんだけど、それじゃ逃げです。家の中に自分の快適な居場所を作り出してこそ、ひきこもりの真骨頂。ひきこもりたるもの、セールスマンに「ご主人ですか?」と聞かれるくらい堂々とできるポジションを家の中で獲得すべきです。この世で一番大切なものはお金。大事なものを優先しましょう。素晴らしいことにふつう親というのは自分より早く死ぬんです。親の家も何十年すれば自分の家。親のお金も自分のお金。そうなんです。ひきこもっていれば自然とお金が入ってきます。安心、安心。自立しないってことは素晴らしいね。親に寄りかかって生きていこう。心さえ強ければ、きちっと寄生できるはず。タフなハートを持とう。そして楽チンに生きよう。自分の人生を生きよう。学校や会社に飼われているやつらは気の毒です。よちよち歩きでいいんだ。親のお金で歩いていこう。会社の奴隷となって家を買った父に感謝。いただきます。ボクは自由に生きます。ひがまないでください。目がくらむほどのうらやましい人生を実現できるのも、父の働きのお陰ですよ。高度経済成長、感謝。働かず、人生を楽しむ。魂は売りません。時代は変わる。変わるまでひきこもりますよ。」(勝山 2001:103-104)

なぜ勝山氏はそこまで飄々としていられるのであろうか? 私は憧れる。勝山氏のような心境に至ることは、私にはできない。できるはずだと、私はすべての虚構から、すべての呪いから、すべての比喩から逃れることができるはずだと、願っていたにもかかわらず、失恋の勢いあまってうっかり就職して、私は「社会人」になってしまった。「自立」*1してしまった。そんな私は、勝山氏が羨ましくてしょうがない。

『「ひきこもり」だった僕から』の著者である上山氏は勝山氏と対照的だ。上山氏は次のように述べる。

「よく「ひきこもりは甘えだ」なんて言いますけど、本当に何にも事情をわかっていない人の発言です。私はいま、なんとか自活していますけれど、あの閉じこもっていた時代のほうがはるかにつらかった。「我慢して」頑張っていたのは、むしろあのときのほうじゃないか、とさえ思います。自分自身では、当時はもちろん、「自分はなんてどうしようもない甘えた情けない人間なんだ」と一方で思っていたわけですが。現実に外の世界とつながって、社会生活を送るようになり、自分の努力で稼いだお金で自分の好きなものが買える状況を体験し、自分の中に溜まった鬱憤も外の世界との人間関係や仕事を通じて解消するようになると、このほうがはるかにいいわけです。はるかにストレスが少ない。もう、二度とあの状況には戻りたくない。それはほとんど<恐怖>です。いま、活動していて、ストレスもきついですし、しんどくなることもありますけど、「あの状況にだけは戻りたくない」一心で、乗りきっている感じです。本当にもう、あの状況はイヤです。「甘えた楽な状態」なんて、冗談じゃないです。」(上山2001:168)

私は上山氏に共感する。大学院生の頃の私は、「ひきこもり」と呼んでもおかしくない存在であった。私は院生時代には戻りたくない*2。経済的に親に依存しつつ、バイトもせずに図書館で論文や文献を読み漁る日々は、けして「働かないからラク」な状況ではなかった。あの頃の私は、「孤独感」と「将来への不安」と、「今現在の自分自身のあり方を情けなく思う気持ち」でいっぱいだった。

今でも、「孤独感」と「将来への不安」はしばしば私を占拠する。「孤独感」は時折ふっと何の前触れもなく私を襲う。しかし、これはデフォルトだから別に問題ではない。次に、「将来への不安」。これは、仕事で行き詰っているときに頭をもたげてくる。しかし、この不安は仕事さえうまく行っているならば生じない種類の不安なので、これも当面は問題ではない*3

「社会人」になったからこそ、もはや私が感じなくてすむようになれた不安がある。「今現在の自分自身のあり方を情けなく思う気持ち」。この内実は、次のようなものである。「金を稼ぐことのできない二十歳すぎの男」ということ自体がもたらす「恐怖」あるいは「罪の意識」。

大学院生の頃の私を最も苦しめていたのは、自分自身が「金を稼ぐことのできない二十歳すぎの男」という事実であった。このような自分に私は罪の意識を持っていた*4

大学院生は、一応それなりの教育を受けている身分なので、ニートとはいえない。しかし、ひきこもりとほとんど似たような存在ではないだろうか。少なくとも私は自分自身をひきこもりと似たような存在として捉えていた。

そんな私は今、「社会人」として「会社」で働いている。勝山氏は、かつての自分がついに至ることができなかった、仙人のような憧れの境地に達している。そして私はそんな勝山氏に対して、妙な嫉妬心を覚えている。

下記に引用する上山氏の記述は、このような私の心境を言い当てているようで、読んでいてどきりとした。

「ひきこもりを悪く言うのは、「関係ない人」だけでなく、「ものすごくつらい思いをして我慢して我慢し抜いてひきこもりから脱出した元当事者」なんです。これは意外なんですが、本当にそう。家を出るにあたって、本当はそうしたくなかったのに、いやいやながら「我慢」し抜いて家を出た人。こういう人にとっては、「ひきこもり」状態に留まれることがうらやましくて仕方がない。このへんには、なんだか人間にとっての社会生活とか、労働生活とかいうことの根本が問われている気がします。人間にとって社会に出ることや労働することが「つらいこと」でしかないならば、「本当はそうしたくないこと」でしかないならば、なんでそんなことにみんなこだわろうとするのか。本当に、人間として生きるとは、社会に出るとは、そうしたことでしかないのか。──これは、根本的な問いではないでしょうか。私の活動に共感してくれる人には、実は一流企業の社員の方や公務員の方が多いんです。「自分はひきこもりの両親からすればエリートということになるんだろうけど、いまの自分の状況を紹介して、”社会に出て仕事をするというのはこんなに楽しいから、だから出ておいで”とは、とても言えない」 ──そんなふうに言われたこともあります。あるいは、一流企業にいてキャリアを積みながら、無理が嵩じて休職を余儀なくされてしまった人と、非常に本質的なところでいろいろ話が合ったり。私自身の父親のことを思い出しますが、ひきこもりの問題に、日本における「労働環境」の問題が深く関わっていることは、確かだと思います。現在の日本の労働環境が、人権侵害を検討しなければならないほどひどいものだとしても、「競争に勝つ」ためには、仕方がない。「競争に勝て」なければ、もっとさらにひどい非人間的な生活環境が待っているのだから……。──そういう前提で、多くの方が頑張っているように思います。しかし、はたしてそうなのかどうか。 」(上山 2001:182)


オレンジ 2005/11/04/13:57:19 No.122

 ぎりぎり二十代の学生です。自分自身の関心に近かったので、ちょっと感想を書かせてください。
 勝山さんの書かれてることって「悪しき言説空間」への必死の抵抗に思えます。親から自立して好きな異性、好きな仕事を見つけなきゃ、っていう言説に対しての。
 テレビで「新婚さんいらっしゃい」なんかを観ていると、親に資金を出してもらってる自分達を笑い飛ばせる若夫婦が出てきたりします。もちろん世間的には受け入れがたいので、司会の桂三枝は椅子を飛ばして「ひっくりかえる」訳ですが。彼らのような境地から考えると、勝山さんの「飄々」にはやっぱり無理があります。
 同じ阿呆なら踊らにゃ損、損。そんな感じでしょうか。(どんな感じだ…)


重森 2005/11/05/11:18:47 No.123

オレンジさん。
書き込みありがとうございます。

仰るとおり、勝山さんの「飄々」には無理があると思います。

しかし、もしも彼の「飄々」が、故意に演じられた「飄々」ではなく、意図せずして醸し出されてしまう種類の「飄々」であるのならば、羨ましいです。

そして、彼の醸し出す「飄々」が、なんらかの方法によって、誰もが身につけることのできる「飄々」ならば、私はその方法を特定してみたいです。

でも、方法など、どこを探しても見つからないものかもしれません。精神科医の斉藤環さんが言うように、ひとえに勝山さんは「ひきこもる才能に恵まれた人」(斉藤 2003:174)なのかもしれません。

参考文献

斉藤環 2003 『OK?ひきこもりOK!』 マガジンハウス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838714394/250-3889194-0636221


オレンジ 2005/11/11/12:27:42 No.125

思いがけずお返事いただき有難うございました。

「飄々」を身につける方法、私も知りたいです。そんなことを思いながら引用されてる勝山さんの語りを読み返していると、「心さえ強ければ、きちっと寄生できるはず。」という言葉を発見。「心の弱さ」に苦しむひきこもりが、ひきこもりであるために「心の強さ」を必要とするとは(苦笑)。

多分勝山さんは「親子の血」という考え方(理屈?)を採用して、心の強さの拠り所にしようとしてるんでしょう。認知の歪みを正そうとしてる、とも言えるかもしれません。ただその考え方を自分に言い聞かせて、誰でも「飄々」という次元に達することができるか、心の強さを獲得できるのか。。

才能というか、適性というか、育ってきた環境というか、人によるんでしょうね。

*1:胡散臭い概念だ。これも徹底して検討してみるべき概念だ。非常に胡散臭い。健全かつ爽やかな印象を与えるが、実は人を追い詰める概念のように思える。

*2:語弊のある言い方だ。「戻りたくない」のではなく、「院生に戻ったとしたら、再び味わわなければならなくなる、あの自己不全感と恐怖が嫌で嫌でしょうがない」のだ。勝手に自己不全感を味わうように仕組まれた(学習させられた)私と、自己不全感を味わわさせる「世間の常識」もしくは「悪しき言説空間」を私は憎む。

*3:自分の所属する会社が倒産する可能性を本当は誰も見積もれないくせに、何故か「自分の会社は大丈夫」と思い込めていたり、もしくは、自分の所属する会社が倒産する可能性自体について一度も考えたことががない。このような事態こそがそもそも問題だとも言えるが、ひとまずこの話題は置いておく。

*4:これはよく考えてみると悲しいことだ。金でしか自分の価値を計れないということだからだ。これは悲惨なことではないか? 我々が生きる社会においては、生まれたばかりの赤ん坊に、「この子は一体いくら稼いでくれるのでしょうね?」と皆は期待の目を向けているといえる。やがて赤ん坊は成長していくにつれ、自らの価値を金との等価関係において捉えるようになる。「何かをして」、親や親戚以外の誰かから金をもらうことができたとき、「社会とつながれた」と安堵したり、「認められた」とホッとしたりすることができる人間に育つ。■金を稼げない人間は、金が稼げないということ自体に、罪を感じなければならない。そのように苦しむべく我々は学習させられるのだ。金が稼げないと生活できないから苦しむのではなく、金が稼げないということ自体に苦しみを感じなければならないのだ。恥の意識を持たねばならないのだ。生きるために金が必要というよりも、金が稼げるかどうかが第一に重要視されるのである。まさに手段の目的化。■生活するのに必要最低限の金を持っていることにより、人はそれだけで充足感を得てもいいはずである。しかし社会はそれを許さない。もっと稼げと追い立てる。もはや労働は生きるために行われるのではなく、金を稼ぐためだけのものとなる。わけも分からず「もっともっと」とせっつかれ、金をより稼ぐよう圧力をかけられる。■このような社会では、金を稼げない人間は存在を認められない。例えば、障害児(ホームレスもニートも引きこもりも)は必要とされない。なぜなら、障害を持っている赤ん坊は、育てるのに金がかかるうえに、将来「社会人」として金を稼いでくれる可能性が低いからである。出生前診断は、このような「金を稼げない人間」を事前に抹殺するために機能している。■「金の稼げない人間」はいらない。従って、殺してもよい存在である。この論理に従い、今まで何人の胎児が息の根を止められてきただろうか(←「金が稼げるかどうか」に関係なく、単に、障害のない子が好きだからという理由で、障害のある子を殺す人がいるだけでは?)。今まで何人のホームレスが路上で撲殺されてきただろうか(←これも「金が稼げるかどうか」に関係なく、単に、臭いから弱そうだからという理由で、ホームレスを殺す人がいるだけでは?)。■現代日本においては、金さえ稼げればどのような人間であろうと胸を張ることができる(障害を持っていたとしても、その障害が「社会人」として働く際に問題とならない程度である場合、あるいは、障害と引き換えに常人離れした天才的資質が備わる場合ならば、障害者は生きてもよいのである。すべては金を生み出せるかどうかにかかっている)。■嫌な世の中だ。繊細で敏感で弱い人は苦しむだけだから自殺したほうがいいよね本当に。いや、むしろ自殺したほうが勝ちだ。自殺を私は「逃げ」として捉えながら、今まさに文章を書いていたが、自殺は「逃げ」ではけしてなく、抵抗手段のひとつかもしれない。今、このような考えが急に浮かんだ。自殺することにより、こんな社会(=国家)などこちらから願い下げだと、こちらから見限ってやるのだ。利用させられてたまるか、奉仕させられてたまるか、強制労働させられてたまるか、敵に己の体を渡してなるものか。自殺が支配者に対する抵抗となりうる可能性もあるのではないか?■話はだいぶ変わってしまうが、自殺を社会に対する唯一の抵抗手段として考えた場合、引きこもりは、「消極的な自殺」あるいは「緩慢な自殺」のように思えてくる。要するに、引きこもりたちは、「労働を完全に放棄する」という手段に訴えることによって、現代社会(=日本国家)に抵抗しているといえるのではないか? 引きこもりとは、「国家に対する国民による国民のためのストライキ」といえるかもしれない。労働者が、働くことを放棄することによって、会社や工場の経営のあり方や労働環境のあり方に異議を申し立てるように、国民は、引きこもることによって(=税金を積極的に払わないことによって)、国家経営の仕方と労働のあり方に異議を申し立てることができるかもしれない。そう考えると、引きこもりとは、非常に意味のある行為のように思えてくる。無理して働かずに、どんどん国民が引きこもってしまえば、国家を困らせることができる。これはすごいことではないか? 例えば、「日本が米国に貢ぐ「思いやり予算」に、自分の支払った税金が使用されるのが我慢ならないので、労働を放棄し引きこもります」と胸を張って言おう。あるいは、「現在の国民年金制度は、人口の減少する日本において適合的ではない。しかし政府は現行の国民年金制度を引き続き保持しようとする。このことに反対するために、引きこもります」と言おう。このとき引きこもりは、立派な政治活動となる。←なんかつまらん。私が自己不全感をかかえていた理由としては、「金を稼げない人間であること」という理由だけでなく、さらに複数あるように思える。また、「金を稼げるかどうか」という視点から、生まれてくる赤ん坊を見ている人が実際に何人いるのか調べていないくせに、全ての「日本人」がそのような人間であるとして描くのは誤りである。さらに、このような描き方はあまりにも粗雑で単純すぎる。柳田國男が「なぜに農民は貧なりや」という問いを発したのは、幼少の頃に「子返しをする母親の絵」を彼が見たからであった。「子返し」とは間引きのことだ。つまり子殺しのことだ。子殺しをする母親は、「この子は金を稼げないから殺そう」と果たして考えていただろうか? 考えていない。自分もこの子もこのまま生きては飢え死にするしかないから、母親は「子返し」を余儀なくされたのではないのか? このような視点が私には抜けている。