研究計画書・シャーマン・本音と建前

大学院の修士課程に入学を希望している知人から、研究計画書の書き方について質問を受けた。知人はシャーマンについて研究したいのだという。

添付されて送られてきた研究計画書の草稿に目を通し、赤を入れる。日本語的に違和感をもたせるような文章をいくつか修正したり、段落の順番を変える。

そして、「次のことが書かれていればいいのではないか?」と助言させていただいた。

1、問い(何を明らかにしたいのか)
2、研究の意義・価値(どうして1のような問いを立てる必要があるのか。本研究の独創的な点。先行研究との違い)
3、研究方法(どこでどのようにして1の問いに取り組むのか)

1と3は比較的容易に書くことができる。しかし、2が難しい。

修士課程に所属していた頃の私は、「徹頭徹尾自分のため」に研究をしていた。「自分の病を治すため」に研究を行っていた。

「本研究は重森の病を治すという点で非常に優れているといえる。」といくら論理的に力説しても、誰もお金をくれないだろう。確かにこの物語も人を納得させる物語とはいえるかもしれない。しかし、場にそぐわないといえる。適切な物語とは言い難い。受け入れられる物語と、そうでない物語があるのである。

そのため、研究計画書を書く際には、非常に困った。なぜなら、人を説得させるような別の物語をでっちあげないといけないからである。「本研究は重森の病を治すという点で非常に優れているといえる。」などと述べたならば、「パンツぐらいはけよ」と言われておしまいである。「本当のこと」は書けないのである。

心にもないことを書くのはつらい。でっちあげるのは苦しい。しかし、結局私はでっちあげていた。「従来の研究では○○という問題については考察されていない。これまで等閑視されてきた○○という問題に照明をあてるという点において、本研究は優れている。」という書き方をして、研究の意義・価値を私はでっちあげていた。

どの研究者も似たようなものなのだろうか? 皆、「本当のこと」は隠して(胸に秘めたままにして)、相手が受け入れてくれそうな物語をでっちあげて、あたかもそれが自分自身の「本音」であるかのように、提示しているのであろうか? 

言うまでもなく、私のおかしいところは、「本音」と「建前」という胡散臭い図式にこだわってしまい、でっちあげた物語をスラスラと、他人に喋ることができないという点である。わざわざ自分の言動を、「本音/建前」という二項対立図式のもとで眺めてみる必要はないかもしれないにもかかわらず、私は当たり前のように、この図式を取り出してしまう。

このような私は、次のように表現できるかもしれない。

「「本音/建前」という二項対立図式を血肉化しており、勝手に苦しんでいる。」*1
「自分のリアル(実感)に忠実すぎる」*2
「自分の頭の中をめぐる「複数の語り」に「どれが最もリアルか」の優生順位を密かにつけ、その順位の高いものを「自分のリアル(実感)」としている」*3

あれは高校入試のときだった。私立のすべりどめの高校に受験した際に、「あなたは他の高校も受験しますか?」という面接官の質問に、「いいえ」と答えることが苦痛だった。親に指示された通りに「いいえ。他の高校は受験しません。貴校のみの受験です。」と答えることが、明らかに得である*4。そのほうが合格する確率が高いといえる。しかし私はスラスラと「いいえ」と言えなかった(結局言ったけど)。

私のこの傾向は、受験だけでなく、さまざまな面で見てとれる。例えば、恋愛の場面。私はスラスラと「あなただけが好きです。」と言えない。「「あなただけが好き」という時もあります。しかし、別の人を同じぐらいに好きな時もあります。」*5と言いたくて仕方がなくなる。さらに言うならば、「あなたが好きです。」と言うことさえも実は難しい。「確かに今の時点、まさにこの現時点においては、私はあなたが好きです。そう言うに足る確固たる実感および確信があります。でも、私の心はかなり変動的です。一定していません。仕事の忙しさや天候や体調の良し悪しにより、あなたに対して「好き」という感情を継続して保持することができなくなるときもあります。」*6と言いたくて仕方がなくなる。

「「あなただけが好き」という時もあります。しかし、別の人を同じぐらいに好きな時もあります。」

「確かに今の時点、まさにこの現時点においては、私はあなたが好きです。そう言うに足る確固たる実感および確信があります。でも、私の心はかなり変動的です。一定していません。仕事の忙しさや天候や体調の良し悪しにより、あなたに対して「好き」という感情を継続して保持することができなくなるときもあります。」

上記のように言えば、自分が損をするのは分かっている。このような「語り」を提示する私は、相手を故意に不審がらせているとしかいいようがない。「どうぞ嫌ってくれ」と言っているようなものだ。しかし私は「あなただけが好きです。」や「あなたが好きです。」と、素直に大雑把に言えないのである。妙に細かいうえに、余計なことを相手に言わないと気がすまない。「あなただけが好きです。」や「あなたが好きです。」とあえて言うときは、その発言行為自体がもたらす違和感に私は耐えなければならない。

とか書いてるうちに既にもう、なんだか自分自身の文章に私は、胡散臭さを感じ始めている。

「自分、不器用ですから」と不器用そうに述べる人物が、ひそかに頭の中で行っている計算。「「自分、不器用ですから」というセリフを述べることによって、周囲の人々の間に自分を「不器用な人間」として位置づけ、印象付け、「不器用な人間」として自分自身を受けとめさせることにより、なんらかの利益を得ようとしている」と周囲の人々に思われる可能性。まさに今、この可能性に私は勝手に怯えている*7

絶えず私が自分自身のリアルをチェックしている理由。「私は「本当のこと」を述べてるだろうか?」とついつい点検してしまう理由。それは、「他人に自分の言動はどのように受け取られるのだろう?」ということを過剰に意識しすぎる結果ともいえる。

要するに私は、問題を二つ抱えている。(1)「自分のリアル」と「自分の語り」の食い違いに耐えられないという問題と、(2)「自分の語り」が周到な計算に基づいたものとして相手に受け取られることを危惧しすぎるという問題を抱えている。

情けない。このヘタレ野郎。物語のひとつやふたつ、簡単に飄々とでっちあげて、「自分のリアル」など徹底的に無視し、他人の解釈など全然気にせず堂々としていられないと、研究者とはいえないのではないか。

そしてシャーマン。

知人は神や故人をおろす憑依系シャーマンについて研究をしたがっていた。憑依系シャーマンという研究対象は、まさしく「本音/建前」「嘘/本当」「演技/素」というあの図式を、観察者に想起させやすい対象といえる。「あいつら霊をおろしてその霊の言葉を伝えるっていうけれど、あれって演技じゃないの? あいつら他人を騙してるんじゃないの?」という疑いを観察者にもたせがちな対象といえる。

そういうシャーマンも確かにいるかもしれない。もちろん、そうじゃないシャーマンもいるかもしれない。「自分は霊をおろしているとリアルに感じるシャーマン」と、「本当は霊などいないんだけどねいるようなフリしないと商売あがったりだと考えながら霊をおろしているシャーマン」。二種類のシャーマンがいるのかもしれない*8

しかし、我々観察者は、表に出された「語り」しか拾えない。それしか採集できない。他人の頭の中でめぐったプライベートな「語り」を、勝手にこちらが想像してはならない。それは、相手の頭の中でめぐった「語り」ではなく、こちらの頭、観察者の頭の中でめぐった「語り」にすぎない。憑依状態にいる女性シャーマンを、「貧困層の女性による男性への抵抗」として捉え、憑依状態にいる女性シャーマンの頭の中に、「よっしゃよっしゃ憑依されてるふりして憎い男たちに日頃はできない要求をしてしまえ」という「語り」の存在を、勝手に想定してはならない。彼女たちは、自らの行為をそのような記述のもとでは捉えていない。観察者がそのような意図を一方的に読み込んでいるのである。観察者の頭の中でめぐった「語り」が、目の前にいる他者の頭の中でもめぐっているものとするのは危険だ。それは単なる幻想である。

しかし、話はそう単純ではない。幻想は感染する。「語り」は伝染する。いままで当たり前のように霊をおろすことができていたシャーマンは、もしかしたら、観察者による邪悪な「語り」の執拗な注入によって、次のような「語り」を頭の中に居座らせてしまうかもしれない。

「自分は霊をおろしているが、はたして本当に自分は霊をおろしているのだろうか? 私は霊をおろしている真似をしているのではないだろうか? 霊などいないのに、霊があたかもいるかのように振る舞い、あまつさえその霊の意思を伝えるなどという、詐欺行為に手を染めているのではないか? 私は「本当のこと」を隠しているのではないか? 私は人を騙しているのではないか?」

おそらく、このような状況に陥るシャーマンがいたら、きっとこのシャーマンはシャーマンとして失格であろう。呪術師失格である。なぜなら、あまりにもたよりないからである。自分のあり方に迷うシャーマンなど、クライアントにとっては迷惑なだけである。

自分に向けられた懐疑のまなざし、「それは演技ではないのか?」という疑いの「語り」。これらをぶつけられたシャーマンは、その「語り」をどのように受け止めているのだろう。そしてそのような「語り」によって、シャーマンは変化することもあるのだろうか。あるいはないのだろうか*9

などと、シャーマンの調査に関する研究計画書の書き方についての話が、いつしか「重森の恋愛問題」や「「本音/建前」の二項対立図式に捕らわれる重森の話」と交錯し、次第に混沌としていったので、知人を混乱させてしまっていないか心配である。

*1:だとすれば、いつだれがどのようにしてこの図式を私に埋め込んだのだろう?

*2:「本音/建前」という二項対立図式に呪縛されていなくても、「自分のリアル(実感)」というものは独立して存在していそうだ。しかしそもそもやっぱり、リアル(実感)ってなんだー。まずはこの言葉の使い方について検討するべきでは?

*3:だとすれば、優先順位をつける際の基準はなんだ?

*4:果たして本当だろうか? 単なるアンケートの可能性もあるのではないか?

*5:例えば、過去に付き合ってきた恋人たちや、付き合うまでには至らなかったけれども私に思いを伝えてくれた人たちの一部が、私はいまでも「好き」です。

*6:そもそも「好き」とか「愛している」とか「付き合ってください」という言葉を使用することに私はいかがわしさを感じる。「あなたとセックスしたい。かつ、あなたが他の人間とセックスすることを禁止したい。とにかくあなたと時を多く過ごしたい(=あなたを拘束・独占したい)。」という要求を、オブラートに包んで伝えているような気がする。← 他人の考えてることをお前は勝手に先回りして捉えている。「好き」とお前が発話するとき、その「好き」というお前の「語り」が、他人にどのように受け取られるのかをお前は勝手に先回りして想像している。いわば、ここに他者は存在しない。お前が勝手に頭の中で作り出した他者と、お前は脳内で会話しているにすぎない。「あなたは私とセックスしたいんでしょ? かつ、あなたは私が他の人間とセックスすることを禁止したいんでしょ? とにかくあなたは私と時を多く過ごしたいのでしょ?(=あなたは私を拘束・独占したいんでしょ?)」と、他人に受け取られるのがお前は怖いのだ。もしくはそのように受け取られるのが嫌なのだ。←つまりお前は、「セックスすること」や「自分の恋人が他の人とセックスすることを禁止すること」や「自分の恋人を拘束・独占すること」に罪の意識を感じている。やってはいけない行為だと思っている。本当はそうしたいくせに、してはならない悪いことだと考えている。「してはならない悪いこと」とは限らないのに。むしろ、拘束・独占されることによって喜ぶ人もいるのに。

*7:時折私は妙に買いかぶられることがある。「重森君は馬鹿のフリしてるけど、実は策士だよね。なんか考えているよね。計算しているよね。食えないやつだよね。」と言われることがある。まったくの心外である。たいてい、このようなことを述べる人は、その人自身が策士だったり、食えないやつだったりする。いわゆる頭の切れる人は、勝手に他人の頭をえらく高級なものと捉えてしまうような気がする。その結果、私は「馬鹿な自分を提示することによって得られるメリット」について考えることを余儀なくされる。「デフォルトである馬鹿な自分をそのまま臆面なく他人に見せることにより、自分はなんらかのメリットを得ることができるのだろうか?」という「語り」に頭を占拠されてしまうようになれる。「デフォルトである馬鹿な自分をそのまま臆面なく他人に見せることにより、自分はなんらかのメリットを得ることができるのだろうか?」という「語り」を頭にめぐらせている時点で、既に私は策士ではないか。つまり結果的に私は策士になってしまう。計算するよう仕向けられてしまう。食えないやつにならされてしまう。わーぉ。合わせ鏡の相互反射プロセスによる「食えない重森君」の誕生だ。

*8:「自分は霊をおろしているとリアルに感じるシャーマン」という文章の意味がよく分からん。霊をおろしているシャーマンは、まさしく霊をおろしているのだから、「自分は霊をおろしている」などと思考できるはずがない。霊をおろしているシャーマンは、もはや霊をおろしているシャーマンではなく、霊そのものなのだから(←? 「シャーマン」と「霊」は同一なのか? それとも、「シャーマン」と「霊」という、異なる二つのモノが存在しているのだろうか?)。「霊をおろせるということ」は、「霊の存在に疑問を投げかけるような「語り」を自分の頭から締め出せること」ではないだろうか? 自分の頭にめぐるべき「語り」を取捨選択し、調整し、限定し、制限することができる人物こそが、シャーマンにふさわしいのではないだろうか? 「自分は霊をおろしているとリアルに感じるシャーマン」という文章については、今後も検討していくべき。

*9:重要なのは、相手を喜ばすことである。シャーマンは、クライアントが微笑むことを言えばいい。相手が喜ぶことをすればいい。「本音」(=「自分のリアル」)ではないから言わないというのは幼い。単に自分がかわいいだけである。「自分のリアル」と「自分の発話の内容」が食い違うことに耐えて、とにかく相手を喜ばすことに専念すればいいのである。たとえ、相手にどのように解釈されるか分からなくて怖くても、あたかも「本音」であるかのように自らの「語り」を提示し、相手を微笑ますことができれば、それでいいのである。