参入離脱自由

下記の本の中で、宮台さんが面白いことを言っている。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

ソクラテスの目標は自由です。ただし、政治からの自由=市民的自由でも、政治への自由=政治的自由でもない。じゃあ何か。自立です。囚われないこと。依存しないこと。彼が対峙したのは言葉に囚われる態度、とりわけ書かれたものに依存する態度です。たとえば「言葉がいらない世界」という言葉。これを問題にする点で、デリダソクラテス的です。

アリスティッポスによれば、ディオゲネスに代表されるキュニコス学派は、欲望に囚われるかわりに、欲望から身をはなすことに囚われていきます。彼によれば、欲望に囚われるのでもなく、欲望回避に囚われるのでもないあり方がいい。だから彼は、欲望に自在にハマり、欲望から自在に退却する、いわば欲望への参入離脱の自由を賞揚することになります。

僕も処方箋のなさを実践していますよ。何百人もの女とヤリまくってきて、結婚などクダラナイと吹いていた僕が、敬虔なクリスチャン一族の女と結婚して、妻に操を立てる。結婚直前には、神父による結婚講座を何回も受講する。僕は転向したのか。クダラねえよ。僕は何も変わっていない。なにせ参入離脱自由なんだから。それが「あえて」だよ。(宮台 2005:428-433)

参入離脱自由…。「あえて」…。

人はそんなに都合よく、制度に囚われたり制度への囚われから逃れたり、イデオロギーに呪縛されたりイデオロギーから離脱できたりするのだろうか?

私は「あえて」サクティを出すことはできる。

しかしいつも「自分のリアル」が置き去りになる。「サクティなどあるわけない」という「自分のリアル」と、「患者さんに手をかざしサクティを出す」という行為が衝突する。私はいつも参入しきれていない。

参入離脱自由など、達成できるはずがない。

保苅さんならできたかもしれないけれど…*1。私には絶対に無理だ。

私は「離脱しっぱなし」。「離脱すること」を自由に選択した結果、「離脱しっぱなし」なのではなく、気が付けば「離脱しっぱなし」。そういえばバリにおいて私は、周囲の人々がサクティをまるであたかも本当に存在しているかのように出したり受けたりしていたからこそ、彼らの言動を真似していたように思う。私は周囲の目を気にしていたのだ。サクティがあるかのように振舞わないと、ブーイングに見舞われるような気がして、サクティがあたかも存在しているかのように振舞っていたのだった。情けない。他人の目を気にするなんて、ヘタレそのものではないか。

自由に「サクティの存在する世界」に生きることを選択できること。自由に「サクティの存在する世界」に参入できること。このようなことは私にはできない。

私はとにかく疑うことしかできない。といいつつも、私は妙な思い込みに囚われていることが多いのだけど。

会社で仕事しているときに、下記のような疑問に思い至った。

参入離脱自由を推奨する宮台さんは、参入離脱自由を達成できていないのではないか?

むしろ宮台さんは「離脱しっぱなし」のように思える。制度から離脱する一方で、参入ができていない。

「結婚(して妻に操を立てること)」に参入できているならば、「結婚(して妻に操を立てること)」について「クダラナイ」と述べることはできないはずだ。

「結婚(して妻に操を立てること)」に参入するということは、「結婚(して妻に操を立てること)」に関して全く違和感を持たないということであろう*2

「結婚(して妻に操を立てること)」に参入できているならば、「結婚(して妻に操を立てること)」をしている自分自身について、もう一人の自分があたかも遠くから眺めているかのごとく言及する、などということはできないはずだ。この行為こそ相対化であろう。アイロニーであろう。離脱であろう。

宮台さんは、参入しきれていない。私と同様に、「自分のリアル」と「己の言動」が衝突したままのように思える。

「神などいねーよクダラねえ」と述べるキリスト教徒がキリスト教に参入しているとはいえないように、宮台さんは「結婚(して妻に操を立てること)」に参入しているとはいえない。

それとも、宮台さんにとって参入とは、演技のことなのだろうか? 「自分のリアル」は置き去りにしたままで、なんらかの行為を遂行することを、参入と読んでいるのであろうか。

そうであるならば、私が想定していた参入という言葉の意味は、宮台さんが使用している参入という言葉の意味と異なる。

私にとって参入とは、違和感を感じなくなることである。しっくりくることである。「自分のリアル」と「自分の言動」が一致することである。自分の行為を「これは演技だ」と自分で捉えることができない状態のことである。「クダラナイ」などと思えなくなることである。サクティの存在に自明性を感じ、かつサクティを手から出せるようになることである。妖術の存在に恐怖できることである。「あなただけが常に好きです」と心から言えることである。

あーしかし。

重要な問題は、「囚われ」や「呪縛」や「縛られる」や「参入する」という独特の比喩を使用するかしないか、であるかのような気がしてきた。

論理階型をひとつアップさせるのである。「〜への囚われ」という言い回しを使用して世界について語るのをやめるか否かが問題であるような気がする。私が言いたいことを図にすると下図のようになる。今まで私は論理階型1にいた。私は論理階型1において今まで議論を行ってきた。この論理階型1の上位に位置する論理階型2に移動したほうがいいのではないか、と私はふと思ったのである。もっとも論理階型3まで行ってしまうと、言葉で遊べなくなるので不毛だ*3

<重森の頭の中に巣食う比喩の体系>

論理階型3 言葉を使用する                                /言葉を使用しない

論理階型2 囚われという言葉を使用する  /囚われという言葉を使用しない

論理階型1 〜へ囚われる/〜へ囚われない

「囚われ」という言葉を使用するからこそ、「「〜への囚われ」から逃れる」という言い回しを、生き生きとした質感とともに理解することができてしまう。世界を、「〜へ囚われる/〜へ囚われない」という二項対立を通して眺めはじめた頃から、何かがおかしくなりはじめたような気がする。

いつか私は、とある人類学者に、「重森君は「呪縛」という言葉に呪縛されているね。」と言われたことがある。この助言は私の注意が、上記の図における論理階型1から論理階型2へ向くように、促していたといえる。

呪縛という言葉を知らなければ、「自分は何かに呪縛されているのではないか」などということを私はけして問題にしなかったであろう。「なんとなく苦しいなー」とだけ思いながら、制度や虚構にどっぷり参入して日々生きていたかもしれない。

うー。なんか出てきそうだけどなかなか出てこない…。

*1:いや。保苅さんは参入離脱自由というよりも、「参入しっぱなし」といったほうがいいかもしれない。ピーター・リードが描くところによると、アボリジニが言及する「大地(カントリー)の意思」を保苅さんは感じ取れるようになっている(保苅 2005:193)。なんでそこまで囚われることができるのだ!と激しく突っこみたくなるほど、保苅さんはアボリジニの世界に見事に参入できている。保苅さんは、「大地(カントリー)の意思」を、自分の意思で好きなように都合よく、無視することはできるのであろうか? 保苅さんはアボリジニの世界から自由に離脱することは可能なのだろうか? 私はこれは無理であるように思う。保苅さんはむこうに行ってしまったままのように思えてならない。オーストラリアにおける保苅さんについて、ピーター・リードは次のように描写している。「ミノは、彼がカントリーに到着してからのある時期に、カントリーと彼とが形而上的につながったことをもはや疑わなくなった。彼は、洪水の川を泳いで渡るとき、カントリーに庇護を求めた。「そのとき、僕は真剣だったんです。異文化を尊重するなんてことじゃぜんぜんなかった。」」(ibid) 保苅さんは真剣だ。保苅さんはアボリジニの世界に参入しきっているといえる。結論。保苅さんは参入離脱自由とはいえない。むしろ「参入しっぱなし」である。参入することや離脱することを、自由に選択することはできていない。

*2:信号機が赤ならば、何の疑問も持たずに立ち止まるべきなのである。「信号機が赤なら止まらなければならないなんてクダラねえ」と思いつつ、横断歩道の前で止まっている人は、道路交通法に参入できているとは言い難いように思える。

*3:つーか。論理階型という概念を私は適切に使いこなせているのだろうか。不安だ。