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「二重の意識」を推奨する保苅さんに対する違和感

人類学 気になる人

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ジェスチャー

保苅さんは、アボリジニの世界に参入しつつ、チャクラバルティの「二重の意識」という態度を推奨する。

「二重の意識」とは、乱暴に要約して言うならば、「(アボリジニによる)超自然的な存在に関する「語り」と、西洋近代的なアカデミックな「語り」を同時に受け入れよう。どちらにも正当性を付与せずに。」という態度のことである(保苅 2004:222-223)。

「二重の意識」が要請する態度は、グリンジやサンタルの超自然的な歴史をいわゆるニューエイジ運動のごとくそのまま単一の歴史時空に普遍化することを意味していない。そうではなく、グリンジの歴史をアカデミックに普遍化(=世俗化)せざるをえない意識と、こうした普遍化を拒んで歴史時空の多元性を引き受ける意識とを同時に保ちながら歴史叙述をおこなう態度である。(中略) この二つの歴史叙述を矛盾しつつも同時に行うこと。(保苅 2004:222-223)

保苅さんは、アボリジニの世界に参入しっぱなしのうえで、「二重の意識」を推奨している。

なんとなく私はこのような保苅さんに違和感を持つ。

ボリジニの世界に参入しきっているうえで「二重の意識」を推奨する保苅さんは、ポーズをとっている(=演技している)ように見えてしまう。なぜなら「保苅さんのリアル」は、アボリジニが言及する超自然的な存在に本気で庇護を求めることができるほど、アボリジニ寄りになってしまっているのだから(ピーター・リードによる描写を参照のこと)。正当性をアボリジニの世界観に付与しないにしても、彼にとってのリアルはアボリジニ側にある。その彼による「二重の意識」の実践は、彼が鋭く批判するところの「呪術や信仰を論じる人類学者たちが行うジェスチャー」になってしまってはいないだろうか?

尊重するとはどういうことか? たとえば、「アボリジニの人々は、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったと信じている」と記述する歴史学や人類学は容易に可能なわけですよ。実際、呪術や信仰を論じている人類学の研究報告のほとんどが、霊的、呪術的、神的な経験を「……と見なされている」とか「……とされている」とか「……と信じられている」といったふうに記述しています。(中略) たしかにかれらの信念を尊重はしているけど、「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な隠蔽なんじゃないでしょうか。だってケネディ大統領が実際にアボリジニの長老に会ったなんて、研究者は誰も思っていないんだもん。思っていないんだけども、「それはそれとして大切にしてますよ」というジェスチャーだけはしている。」(保苅 2004:26)

私は「二重の意識」の実践に努める保苅さんの心を、次のように深読みしてしまう。

「西洋近代的な世界観に生きる人たちは、大地(カントリー)に意思などないという。そんなことはない。大地(カントリー)には確かに意思がある。西洋近代的な世界観に生きる人たちがいうように、大地(カントリー)に意思はないとは私は思っていないんだけども、西洋近代的な世界観に対して「それはそれとして大切にしてますよ」というフリをしておかなきゃ。はじめからデタラメだとして否定しないようにしなくちゃ。一応尊重しておかなきゃ。「二重の意識」を実践しなきゃ。」

保苅さんはアボリジニの世界にリアリティを感じている。そうであるならば、そのような保苅さんが実践する「二重の意識」は、ジェスチャーになってしまわないだろうか? なぜなら、本当は保苅さんは、「「大地(カントリー)の意思」は存在する。」と思っているのだから。呪術や信仰を論じる人類学者たちによる、調査地における他者に対する尊重の行為を、保苅さんは彼らの本心(=リアル)を見抜いたうえで、ジェスチャーであると言う。同様に私も、保苅さんによる「二重の意識」の実践を、保苅さんの本心(=リアル)を見抜いたうえで、ジェスチャーであると言いたくなる*1

ジェスチャーと呼ばれかねない「二重の意識」の実践。これに従事する保苅さんにとってのリアル

ボリジニの世界観は、西洋近代的な世界観と真っ向から対立するものである。後者は前者における「大地(カントリー)の意思」など認めない。そして保苅さんは、前者にリアリティーを感じている。

そうであるならば、「二重の意識」という態度を貫くことは不可能ではないにしても、非常に実行困難な行為といえる。アボリジニの世界にリアリティを感じる保苅さんにとって、「二重の意識」を実践することは、矛盾から生じる苦しさを引き受けることであるに違いない。

洪水の中、大地(カントリー)に庇護を求めた保苅さんは「そのとき、僕は真剣だったんです。異文化を尊重するなんてことじゃぜんぜんなかった。」と述べると同時に、「大地(カントリー)に意思などあるわけない。」と述べることはできるであろうか? できないのではないか? 「自分のリアル」を無理矢理押し込めたうえで、はじめて保苅さんは「大地(カントリー)に意思などあるわけない。」と言えるようになるのではないか?*2

「二つの歴史叙述を矛盾しつつも同時に行うこと」はできる。形のうえでは。表面的には。「研究者自身のリアル」を無視するならば。それに、「二重の意識」の実践は、自らとは異なる他者を切り捨てるのではなく、第一に彼らとつながることを目指し、自他ともに多様性を認め合うという、暖かい心意気に満ち溢れた、素晴らしい実践だと私は思う。進化論的で自文化中心主義な考え方より、こちらのほうが人に優しい気がする。

そうだ。保苅さんに直接聞いてみよう。

長々と「二重の意識」の実践について述べてきた。しかし、私が最も関心を持つのは、「大地(カントリー)の意思」を感じ取れるようになった「保苅さんのリアル」である。「保苅さんのリアル」が無理矢理押し殺されたまま営まれる「二重の意識」の実践よりも、「保苅さんのリアル」に私は興味がある。

「保苅さんのリアル」が、オーストラリアにおいて「大地(カントリー)の意思」の存在を認めるまでに変化してしまった機序。これにしか興味がない。

でも保苅さんはもう死んでしまっているので、直接会って話をすることはできない。非常に残念だ。

こうなったら、憑依系シャーマンに頼んで、亡くなった保苅さんを降ろしてもらうしかない。保苅さんであるところの憑依系シャーマンと「保苅さんのリアル」について議論し、保苅さんであるところの憑依系シャーマンにインタビューを試みよう。

そして、その内容をゆくゆくは本にまとめて出版しよう。もちろん、保苅さんとの共著ということで。きっと保苅さんなら、私のこの荒唐無稽で超自然的で非合理的な提案を頭ごなしに否定することはないはずだ*3

*1:研究者の本心(=リアル)と、その研究者が書いた論文とを、連続させて考えること。研究者の本心(=リアル)を、研究者が書いた論文の内容と、深く関連させて論じること。このような行為自体に問題はないだろうか? 研究者の本心(=リアル)と、その研究者が書いた論文は、切り離して考えたほうがいいのではないか? 保苅さんが、呪術や信仰を論じる人類学者たちの本心(=リアル)を見透かしたうえで、調査地における他者の超自然的な「語り」に対して彼らが彼らの論文上で行う「……と見なされている」といった記述を、「それはそれとして大切にしてますよ」というジェスチャーとして読みかえることに、私は違和感を覚える。だから私も、保苅さんの本心(=リアル)を見透かしたうえで、彼による「二重の意識」の実践─「アボリジニの世界観」と「西洋近代的な世界観」の併記─を、ジェスチャーとして意地悪く読みかえたくなる。

*2:仮に、保苅さんが30秒ごとぐらいに己が依拠する世界を、「アボリジニの世界」から「西洋近代的な世界」へ交互に移動することができるならば、「二重の意識」の実践は易々と可能であろう。しかし、このような芸当を一体誰ができるというのだろう? → ていうか。一般の人たちはこのような芸当に長けているのではないか? 研究者や一部の宗教的狂信者が異常なのではないか? 前者はやたら疑うことに徹する人たちであり、職業的に「離脱しっぱなし」であることが求められている。他方、後者は「参入しっぱなし」な人たちである。キリスト教徒にとって「神」という存在は無茶苦茶リアルであり、「神などいるわけねーじゃん。」と言おうものなら猛烈な反対にあう。研究者と宗教的狂信者はどちらも極端である。参入か離脱かの二者択一的なスタンスが両者には共通している。彼らとは対照的に、一般の人たちの多くは、参入でもなく、離脱でもない、ゆるくていい「加減」なスタンスで日々生活しているのではないか? 例えば、結婚を例にとりあげてみると、私の周囲の人たちは、結婚していても普通に不倫しているし、そのことに罪悪感をあまり感じていないようである。しれっと矛盾したことをしている。参入もしていなければ、離脱もしていない。あるいは、参入しておきながら同時に離脱もしているような、妙なスタンス。矛盾を無視する能力に長け、日々を優雅に生きているように思える。非常にうらやましい。こういう人にとっての「自分のリアル」とは、なんなのであろう。お気軽でいいよな。ちょっとは罪悪感に苦しめよと思う。うらやましい。

*3:だめだ。きっと出版などできない。なぜなら、憑依系シャーマンに保苅さんを降ろすよう依頼しておきながらも、私は相変わらず「こいつ本当に保苅さんなのか? シャーマンが保苅さんの演技してんじゃねーのか?」と疑うだろうから。