べてるの家
正月なので、積ん読していた本を読んでいた。
「べてるの家」関係の本に、ざっと目を通した。
- 作者: 横川和夫
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社
- 発売日: 2003/03
- メディア: 単行本
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とても普通の人たち ベリーオーディナリーピープル~浦河べてるの家から
- 作者: 四宮鉄男
- 出版社/メーカー: 北海道新聞社
- 発売日: 2002/11
- メディア: 単行本
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べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 浦河べてるの家
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2002/05/01
- メディア: 単行本
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「べてるの家」は、「統合失調症(精神分裂病)などの精神障害をもった人たちの共同体」(横川 2003:2)である。日高昆布の袋詰めの下請けをきっかけにして始まる彼らの商業活動は、次第にその規模と種類を拡大・増加させ、今や年商は1億円にのぼる(2003年当時)。
私は、この組織を駆動させているものに興味がある。誰がどのようにしてこの組織をここまで大きくしたのか? そしてどのようにしてこの共同体は維持されているのか?
間違いなく、キーパーソンとなるのは、向谷地(むかいやち)さんという名のソーシャルワーカーであろう。「べてるの家」における活動を緩やかに方向付けているのは彼だ。絶妙なバランス感覚に基づいて患者さんたちの活動を動機付けている。
向谷地さんは、商売を重視する。
ぼくが浦河に来て、精神障害をもった人たちに出会って最初に感じたことは、この人たちは病気によってしあわせを奪われているのではなく、本来的に人間に与えられているはずの苦労を奪われているということでした。病院を退院してきた回復者のメンバーたちに、『商売をやってみないか』と提案したのは、奪われた苦労をいっしょにわかちあってみたかった、メンバーたちが見失ったり、忘れかけたりしていた苦労の味をもう一度とり戻し、それを共有したかったからなんです。(横川 2003:50)
つまり、「自分で考え、自分で決めて、行動するという当事者性」を奪い返す営みが商売ということである。「べてるの家では、なにも自分で決められない、できないとされてきた人たちが、その存在感を含めて自分の役割を、つまり広い意味での仕事を再発見できる」のである(ibid)。
精神障害を治すというよりも、精神障害をそのまま持ったまま、商売をするという方針。これを全面的に押し出して、「べてるの家」の経営を黒字にしている人物。それが向谷地さんなのである。
私は一抹の不安を覚える。もしも、何らかの事情により向谷地さんが「べてるの家」から去ってしまった場合、「べてるの家」はどうなるのだろうか? 精神障害者が事業を経営し、年商1億円もの利益をあげるという前代未聞の快挙は、向谷地さんの存在に負うところが大きいのではないか? もしも、向谷地さんがいなくなってしまったならば、べてるの家は崩壊してしまわないだろうか? 経営が破綻してしまわないだろうか?
べてるの家という稀有な存在に歓喜すると同時に、私は上記のような不安を抱いた。
そもそも「べてるの家」による事業は、下請けとして行っていた昆布の袋詰め作業が、原材料を供給する工場の工場長により、無理矢理中止させられたことに始まる。
メンバーたちは「下請けの内職作業ではなく、自分たちが昆布を仕入れて商品化し、全国の日本キリスト教団傘下の教会に産地直送で販売してもらえば、きっと売れるにちがいない」(横川 2003:52)と判断し、昆布を扱う漁業協同組合にかけあった。
この当時の様子について、横川は、向谷地さんによる次のような語りを紹介している。
「彼らは直接、昆布をあつかう漁業協同組合に出かけていって、『浦河の昆布を全国に売りたいんです』と訴えたんです。元手は十万円でした。その後、商品の種類も増やし、販路を開拓していきました。そんな作業を続けながら、浦河赤十字病院が外注に出した業務(廃棄物の処理など)を引き受けたり、精神科病棟を中心に始めた紙オムツなどの個別配達も、ほかの病棟から浦河町にまで広がっていったりして、五年後には、自分たちで会社をつくろうという話に展開していったんですね」(ibid)
私は疑問を持つ。本当に「彼らは直接、昆布をあつかう漁業協同組合に出かけていっ」たのだろうか?
いや。実際は確かにそうであったにちがいない。精神障害者たちが、実際に漁業協同組合へ出かけていったのは事実であろう。
しかし、私がここで注目したいのは、誰がどのようにして精神障害者をここまで動機付けたのかということだ。精神障害者たちを行動させたのは、向谷地さんではないだろうか? 彼がいなければ、精神障害者たちは漁業協同組合に出かけていったりはしないのではないか?
なにも私は「向谷地さんがいなければ「べてるの家」(の運営・経営)は成り立たない」ということを言いたいのではない。私は「向谷地さんという類稀な能力をもった人物のその行動様式と思想は、ちゃんと次の世代に受け継がれているのだろうか? 向谷地さんの行動様式と世界に対する認識の仕方を身体化し、向谷地さんなきあとも向谷地さんのように振舞える人物は、ちゃんと育っているのであろうか?」という心配をしているのである。
頭の良い人はどこにでもいる。それこそ向谷地さんの周囲には医者もいれば記者もいる。いわゆる高偏差値な人間はどこにでもいる。しかし、精神障害者に事業を始めさせそれを成功に導き、さらに精神障害者たちが伸び伸びと(わがままにドロドロと賑やかに喧嘩しつつ)生活できるような環境を作り出せる人物は、そうはいない。
私は、向谷地さんが身につけている行動様式を保存するべきだと思う。すべてのメディアを利用することによって。文字や映像の形で。そして最も行うべきことは、向谷地さんのそばで一緒に働き、向谷地さんの行動様式を学習することである。向谷地さんのような面白い存在が持つ行動様式と思想をそっくりそのまま誰かに移植しなければ、非常にもったいないと思う。
そこで、「何を研究していいのか分からない」と悩んでいる全国の社会科学系の学生に私は言いたい。直ちに北海道へ行き、向谷地さんに連絡を取って、べてるの家に住み込んで欲しい。そしてエスノグラフィーを書いて欲しい。べてるの家は、民族誌家が、その身を置くべき絶好の環境ではないだろうか。
たとえば、さきほどの漁業協同組合の話。このエピソードの経緯は実は不明瞭だ。どのような過程で誰が何を語り、漁業協同組合にかけあうという実際の行動が現出したのかが、実は分からない。
前出の本ではなく、別の本においては、漁業協同組合のエピソードは次のように記述されている。
下請けでさんざん苦労してきたからこそ、自前の商売をやろうという気にもなったのだろう。幸いに、これまで三つ折り昆布や四つ折り昆布を作る時に切り落としていた昆布の端っこがたくさん貯まっていた。それを活用しようというのだ。(中略) 共同作業所や施設など、精神障碍者がなにか仕事をはじめようとすると、普通は、保健所か行政の福祉担当の窓口に相談に行く。ところが、べてるが相談に行った先は、浦河の漁業協同組合だった。業者からではなく、漁協から直接昆布を仕入れようというのだ。「売れ行きが伸び悩んでいる日高昆布を全国へ販売したいんです」と言って相談に行くと、漁協も大歓迎してくれた。原料の仕入れに特別の配慮をしてくれたばかりか、そういうことなら役場の商工課にも行ったらいいよと、担当者まで紹介してくれた。川村先生は当時のことを、「漁協に行くんですからね。いいセンスしてますよね。うっとりします。僕らにはそんな発想は生まれてきませんからね」と、いかにもうれしそうに語る。(四宮 2004:124)
上記においては「べてるが相談に行った」とある。しかし、べてるとは一体誰のことを指すのであろうか? それには向谷地さんも含まれているのか? 一体誰が漁協組合のドアを開けたのだろうか?*1 そして誰が口火を切ったのだろうか? そしてそのとき、どのような言葉が発せられたのであろうか? そもそもどのようにして「漁協に行こう!」というアイディアが生まれたのだろうか? そしてそれは誰の発案なのか? 音頭をとったのは誰か?
私は、このような具体的な細部が知りたい。この細部の描写なしでは、「べてるの家」という共同体の解明はありえないと思う。
誰か、学部の学生でも修士課程の学生でも、誰でもいいから、べてるの家で2年ぐらいフィールドワークをして欲しい。
いい研究になると思う。
金を出してでも、そのエスノグラフィーは読んでみたいと思う。
べてるの家におけるキーパーソンたちの行動様式。これを知るために有用な情報がネット上に転がっていたので迷わずリンク。なお、見出しは重森の独断と偏見による。
・べてるをユートピア視するな(まずは自分1人で踊りなさい)
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2541dir/n2541_07.htm#00
べてるは常に「不充分」です。私たちがやってきたのはいわば期待を裏切ることの歴史です。昔は浦河という町の期待を裏切り,いまは世間の期待を裏切っています。それは,取りも直さず私たちの力の限界がいつもある,ということです。
こういう状況のほうが,かえって浦河を希望する人たちも,浦河に行く前に地元でやれることは何かと考え,その試行錯誤の中で,やっと現実感が生まれるのではないでしょうか。「遠く離れたところにべてるというところがあるらしい」と理想郷のように憧れて,べてるに行くと奇跡が起きるかのように思ってしまうのはよくないし,実際何も奇跡なんか起きないですから。(中略)
べてるは,期待ばかりしてくる人には,本当になんもしてくれないところですが,入院前の苦労なり,切実感を持ってくる人には,学びになるプログラムや人材は豊富だと思います。
・自分で自分を自分たらしめてね☆(めざせ依存嫌いのクールな自立系)
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2541dir/n2541_02.htm#00
「うーん。べてるの家に生き甲斐など感じていないです。そういうものを感じないようにわきまえています。もしべてるがなくなっても,私はぜんぜん平気ですよ」
上記2つの情報に私が付けた見出しの内容が、ほとんど同じになっている。これはきっと偶然や私の思慮不足の結果ではない。
おそらくべてるの家において人は、「自分で生きていくこと」をとことん実践させられる。暴れて物を壊したら自分で弁償。労働時間も自分で決定。そもそも働くかどうかも自分で判断。やることなすこと全て自分で決めていかなくてはならない。誰も尻を拭いてくれない。そして最終的には、「自分が、自分を、自分の力量を考慮したうえで操作すること」を迫られる。
この「自分で生きていく」という実践を支えるものがあるように私は思う。それは「自己客観視の技術」だ。
べてるの家において、人は次のような行動をとるよう促される。
すなわち、自分を客観視(突き放して冷静に眺めること)できるということが重視されるといえる。そしてこの自己客観視は、仕事への関わり方をも決定すると私は考えている。
自分を客観視できるようになった結果として、べてるの家において人は、「「自分にはできないことができるようになること」に固執せず、「自分にできること」を淡々と行うような、恐ろしく合理的な姿勢」*4を身につけさせられるのではないだろうか?
これが、べてるのやり方ではないだろうか?
自分を見つめること、観察すること、客観視することの徹底。
実際、この自己客観視は、べてるの家において終始促されている。
例えば、向谷地さんがべてるの家のメンバーに投げかける「語り」には、「醒めた頭で自分を観察せよ」というメッセージが含まれている。向谷地さんは、この点に極めて自覚的である。以下は、向谷地さんが早坂潔さんに投げかける自分自身の「語り」について述べている箇所である。
「たとえば、彼が『腹立った』と言ってガラスを割ったり、壁に穴を開けたりしたとき、それに対して、はっきり批判する。『きょうのようなことは早坂潔に対して申し訳ないぞ』『そんなことをいつまで早坂潔にやらせるんだ。かわいそうだと思わないのか』って」(横川 2003:31)
徹底したやり方だ。
ビデオカメラで自分を撮影し、その画面に映る自分をリアルタイムで観察するような視点。研究者が冷静に研究対象を眺めているような視点。べてるの家では、このような視点を持つよう促されるのである。
*1:『べてるの家の「非」援助論』によると早坂潔さんが「先頭」だったらしい(浦河べてるの家 2003:49)。これは比喩なのだろうか? それとも本当に早坂さんがメンバーの先頭を歩いていたのだろうか?
*2:俗っぽく言い換えると次のように表現できる。「自分のスペックを考慮した損得計算に基づいた上で自分の言動を統制する。」
*3:べてるでは、とにかく人を、新しいことに飛び込ませているように思う。「やってみなければ分からない」というポジティブな挑戦の精神があるように感じられる。しかし、この挑戦はあくまでも調査にすぎず、挑戦に固執させたり、挑戦の失敗が「努力不足」として責められることはない。べてるにおいて人は、とにかく新事業に挑戦し、うまくいきそうならばそれを継続・拡大させ、自分ではこなせそうにないならば他の人に代わってもらったり、協力をお願いしたりする。非常に柔軟だ。バランスが取れている。「絶対に成し遂げねばならぬ」という不健康な強迫観念に裏打ちされた挑戦ではなく、「とりあえずやってみるか」という気軽な調子で、新しいことに挑戦できているように感じられる。
*4:この姿勢と対比されるものとして次のようなものがある。「「自分にはできないことができるようになること」に固執し、「自分にできること」を淡々と行うのではなく、頑張って頑張って頑張って努力して努力して努力して、「なんでもできること」を目指すような、「やればできる」という妄想に基づいた恐ろしく非合理的な姿勢」 一部の真面目な人々は、学校や親を介することによってこの姿勢を身につけ、そして破綻する。べてるに集う人々には、このような行動様式を身につけてしまっている人が多いように思う。己を知り、己にできることを見極め、己にできることを淡々とこなす(=ありのままの自分を冷静に把握し、それ以上の存在になることを過剰に希望するのではなく、ありのままの自分を受け入れ、その上で自分にできる仕事を淡々とこなす)。ただし、「己にできること」が他にもないかを、日々様々な事業に挑戦することによって、模索しながら。