敷金返還闘争途中経過─交渉における説得力とは何か?

「敷金は全部そっくりそのまま返せ」という内容の文書を送ったものの、不動産屋からは何の反論も来ない。これは一体どういうことか。不動産屋は私の要求をさくっと無視して、しれっと敷金からクリーニング代を引くつもりなのだろうか。

まったく進展がないなあと思いながら、大家さんの家に最後の家賃を払いに行く。歩いている途中、「まてよ。敷金の使い方については不動産屋よりも大家さんに決定権があるのかも?」と思いついた。そこで最後の家賃を支払うついでに、大家さんに直接「敷金全部返せ」と伝えることにした。

大家さんの家には、大家さんの息子がいた。本物の大家さんは80過ぎのお婆ちゃんなのだが、この頃足を悪くしたらしく表に現れない。代わりに、40代後半ぐらいの息子さんが対応に出てくる。

家賃5万5千円を渡し、領収書に印鑑を貰ったあと、私はおもむろに次のように語ってみた。

「あのう…敷金についてなんですが…。既に○○商事さんには書類でお伝えしたことなんですけども…、敷金からクリーニング代を取らないでくださいませんでしょうか? 敷金からクリーニング代を引くという特約を私は○○商事さんと結んでいるんですが、法律に詳しい友人からこのような契約を結ばせること自体が問題だと最近聞かされまして…。今、全国各地で敷金からクリーニング代を取られた人が裁判を起こしてます。そこで私も敷金を取り返そうと思いまして…。そこでお願いがあるのですが、敷金からクリーニング代を引かずに敷金はそっくりそのまますべて返すよう、○○商事さんに大家さんの方からお伝えしてくださいませんか?」

私の長い語りを大家さんの息子は目を見開いて聞いていた。そして大人しそうな声で、次のように答えた。

「は、はい。明日電話で伝えます…。」

交渉終了。

反論がくると思って私は身構えていた。猛烈な反論がくると予想していたからこそ、私はびくびくと遠慮がちに敷金を全部返すよう要求した。しかし、大家さんの息子はあっさりと私の要求をのんだ。

かなり肩透かしをくらった。

なぜ大家さんの息子は私に全く反論しなかったのだろう? 帰り道、ずっと考えながら歩いた。思いついたことは以下の事柄。

1、大家さんの息子は働いておらず、そのため交渉に慣れていなかった。だから私の要求をあっさりのんだ。
2、大家さんの息子は私の語りに登場する特定のフレーズに反応した。だから私の要求をあっさりのんだ。

これまで私は家賃を払う際に、大家さんの息子と何度か顔を合わせたことがあった。大家さんの息子はいつもテレビを見ているようだった。土日ならまだしも、平日でも彼はテレビの音がする部屋から登場する。どんな仕事をしているのだろう?と常々私は疑問に思っていた。

もしかしたら大家さんの息子は働いていないのではないか? 大家業だけで生活しているのではないか? そのため、大家さんの息子には、他人と激しく交渉するという経験がないのではないか? 

なんらかの労働に従事しさえすれば、他人と交渉する場面に必ず出くわすというわけではない。しかし、労働活動に乗り出していればそのような機会を持つ確率は高くなるといえる*1。そしてそのような場面を多く経験した人間は、そのような経験を全く欠く人間よりも、交渉自体を楽しめるようになるのではないか。つまり交渉を怖れなくなるということだ。交渉を怖れずに、交渉を通して、話を自分に都合の良い方向へもっていこうと努めるようになるだろう。びくびくとただただ相手の要求をのむことはなくなっていくはずだ。

しかし…。と考え直す。

大家さんの息子に「社会経験(←って何だ?)」がないからこそ、彼は私の要求を素直にのんだというよりも、大家さんの息子は敏感かつ賢明であったからこそ私の要求をのんだのかもしれない。

むしろ大家さんの息子は私の語りに含まれていた特定のフレーズに鋭く反応したとはいえまいか?

例えば、「裁判」。このフレーズは、多くの人々にちょっとした恐怖を与える。このフレーズを使えば、「なんだか面倒なことに巻き込まれそうだ」と相手に思わせることができる。

あるいは「法律に詳しい友人」。弁護士なのか社会労務士なのか具体的に正体を明示しないからこそ、相手は恐怖感を覚える。「こいつのバックには誰かがついているらしいな」と相手は警戒する。

それとも、大家さんの息子が私の要求をあっさりと認めたのは、別の理由からであろうか。

大家さんの家を訪ねる前日、私は近所の散髪屋で頭を丸坊主にした*2。見方によっては、坊さんかその筋の人に見えなくもない。

いずれにせよ私は、「正体がよく分からない不確定要素たっぷりな人」に見えていたのではないか? 

いままでの考えをまとめると下記のようになる。

大家さんの息子は、「裁判」や「法律に詳しい友人」といった危険なフレーズを語りにちりばめる怪しい丸坊主の男に、形容しがたき説得力を感じてしまった。

そして彼は敷金からクリーニング代を引き抜くことをあっさり断念した。

*1:家でテレビばかりを見ている状態では、親以外の生身の人間と激しく交渉する機会は得られないだろう。

*2:丸坊主にしたのは、朝に寝癖をいちいち直すのが面倒だったからである。