プランター

上野駅構内にはプランターが置かれている。

私はこのプランターが嫌いだ。

朝と夜、通勤時に構内を定期的に観察し続けてきた結果、次のようなことに気づいた。プランターは野宿者がいた場所にいつも出現している。昨日野宿者が所在無く佇んでいた空間は、今日にはプランターによって占拠されているのだ。以上のことから次のことがいえる。

プランターは、駅構内に野宿者が住み着くのを防ぐために置かれている。すなわちプランターは野宿者排除のための道具となっている。

腹が立つ。

寒い冬だから、暖かい地下通路に野宿者は集まってくるのだろう。そこでじっとしているだけなんだから、排除せずに、そっとしておいてはくれないものか。

と思いつつも、次のようにも私は思う。

時折、野宿者は強烈な匂いを放っているときがある。率直に言えば臭い。汗と尿の入り混じった強烈な匂いを放っているときがある。また野宿者の服装は黒く汚れていることが多く、清潔感が全く感じられない。

そのため、正直に言うならば、私は野宿者のそばに寄りたくない。

しかし、「野宿者は消えて無くなれ」とは思えない。

私は仕事のできない人間である。いつ職にあぶれるか分からない。また、いつ会社がつぶれるかも分からない。つまり私は自分が野宿者になる可能性をいつも考慮している。

だから、目の前の野宿者は、未来の自分に思えてならない。

そのため、彼らが排除されているのを見ると、自分が否定されているように感じて腹が立ってしまう。

どこかのNPO団体の方に提案したい。野宿者の方に銭湯代を配給し、さらに厚手の袈裟を彼らに寄付してくれないだろうか?

野宿者が「修行中の人」として認知されるようになれば、プランターに居場所を追われることはなくなるのではないか? 

浅草には目をつぶってボーっと立っているだけで金をもらえる坊さんが出現する。彼らは浅草が観光客で溢れる土日にしか現れない。

野宿者をそのような坊さんとして解釈するよう、人々の目を誘導することはできないだろうか? どのような工夫を施せば、「目をつぶって立っていること」を「立派な労働」あるいは「働くこと」として、人々は受け取るようになるだろうか? 「存在していること」自体が、「立派な労働」あるいは「働くこと」として理解されることは、いかにして可能だろうか?

そろそろ社会人3年目の青二才は、相変わらず甘ったれたことを考えながら、今日も銀座線に飛び乗る。