秘密結社NH系

ピンポーンという音とともに、

「NH系です!受信料の請求でお伺いしました!」

という元気な声がしたので、

「テレビ持ってないです!」

と、ドアに向かって咄嗟に答えた。

結社の人間は、

「テレビご購入の際はお教えください...」

と言って去っていった。

この間約6秒。

テレビを手放してから、4年以上になる。

結社の人と受信料について言葉を交わすのは、ひさしぶりだった。

ちょっと後悔している。

なぜなら「テレビ持ってません」というセリフは、議論の前提を覆す禁じ手のようなものなので、これによってNH系の人を追い返してしまうのは非常に芸がないからである。

テレビを持っている振りをして、受信料に関する議論を行えば面白かったのではないか? 

「NH系が勝手に電波を流しているのに、どうしてNH系に受信料を払う必要があるのか?」「NK系の番組を見ているとは限らないのに、どうしてNH系に受信料を払う必要があるのか?」などの質問をすることによって散々議論した後、最後の最後になって「実は私はテレビ持ってません」と言えば、オチとして面白かったのではないか*1。「同じ土俵」に立った上で議論し、どうしても負けそうになったときに初めて切り札として出すべきセリフが「テレビ持ってません」であろう。ここでの「同じ土俵」とは、「重森はテレビを持っている」という前提を、NH系の人も重森も踏まえているという状態を指す。重森がテレビを持っていないならば、NH系と重森は同じ土俵にもはや立てなくなるといえる。

日頃から私は議論を行う際に次のような点に注力している。

まず第一に、相手がどのような前提に依拠しているのかを早急に見極める。

次に、相手のロジックに矛盾がないか慎重に探索する。矛盾が見つかればそれを相手に突きつける。

次に、相手のロジックに矛盾が全く見られない場合は、相手のロジックがこちらにも流用可能かどうかを吟味し、流用が可能そうであるならば、流用してみる。例えば、2秒ぐらいNH系の人に手のひらを向けた後で、「NH系が勝手に流す電波の受信料を私が払う必要があるのなら、私があなたに勝手に流すサクティについても治療代を払ってもらいます。代金は2000円です*2。」と反論してみる*3

もしも、相手のロジックに矛盾が全く見つからず、かつ、相手が私による上記のような反論を正当な反論として認めてくれない場合は、どうするか。

「テレビを持ってません」のようなセリフは、このような段階で初めて出すべきものといえる。これは、議論が成立するための土俵自体をなくしてしまう行為である*4

今回はいきなり必殺技を出してしまった。芸がない。つまらない。もっとひっぱるべきだったと思う。もっと議論を楽しむべきだったと思う*5

*1:「それではパソコンのTVチューナーでNH系の番組を見ていませんか?そうであるならば受信料を払ってください。」という返答は今回もらえなかった。このように言われたらどのような反論が可能だろうか。私はTVチューナーを持ってはいるが、まだ一度も使ったことがない。このことをなんとか前面に押し出して、受信料の支払いを拒否すればよいだろうか。この点については、深く考えてみなければならない。

*2:すなわち、サクティ一秒の照射につき1000円。

*3:「「勝手に流す」ものに対して料金を請求する」というNH系のロジックを、重森はここで流用しているといる。しかしこの行為はまた同時に、「「電波」というジャーゴンを受け入れるようNH系側は迫っているので、こちらも「サクティ」というジャーゴンをNH系に押し付ける」という流用行為にもなっている。もちろん、このような反論をされたらNH系の人は驚くと思う。しかしNH系の人がもしもマヒカリやオウムや法輪功の関係者ならば、重森の提示した土俵にうっかり乗ってしまい、「ううむ」と考え込んでくれるかもしれない。http://megalodon.jp/fish.php?url=http://www.mahikari.or.jp/qa.html&date=20060304220453

*4:私の議論の仕方はいつもこのようなものなので、はっきりいってインチキである。皆に嫌がられるタイプの議論の仕方だ。相手にとっては、「お互いが当然踏まえているだろう」と思われていた前提を、いきなり無化されてしまうのだから。相手はへなへなになってしまう。やる気をなくす。こいつと議論しても埒が明かないと思い、開いた口が塞がらなくなる。だからこんな議論の仕方は、やめたほうがいいのではないかと思う。

*5:例えば、次のような楽しみ方がありえただろう。私がNH系の人に向かって「電波って何?」という質問を投げかけるのである。日本という国に生きる我々は「電波」というジャーゴンにすっかり慣れ親しんでいるため、このジャーゴンを耳にした際に、ことさら違和感を感じることはない。しかし、「電波」なるものの存在を、「科学的」に証明することは容易ではない。「科学的」に証明しようとするならば、それなりの手間と専門的な装置が必要になる。NK系の人がたとえ理学部出身で、電波の存在の証明の仕方に熟知していようと、長い長い語りを私に披露しなければならなくなる。これはむこうにとって非効率的なことだ。もしも私が「電波って何?」という問いを立てたならば、NH系の人は何と答えてくるだろう。興味がある。← ていうかこれも「テレビを持っていません」と同じような「議論が成立するための土俵自体をなくしてしまう」ような必殺技ではないのか? 「電波」の存在についてもNH系の人は、私との間に、既に了解はとれているものと思っている。にもかかわらず、「電波って何?」といわれた際には、NH系の人は議論する気をなくすだろう。「ああ、俺はこいつとは分かりあえねー。議論できねー。こんな他者性満載な奴はいやだ。」と呆れ、そして悲しむに違いない。← 実は私は「電波」なるものについて、それが実在しているものなのかどうか確かめたことがない。「電波」というものをちゃんと理解できていない。周囲の人間が、あたかも当たり前のように言及し、日常生活上で使用しているので、私も彼らの真似をして、まるでそれについて深く熟知しているように「電波」という言葉を使いこなしているだけである。私は「電波」というものに対して、あまりリアリティを感じていない。「電波」という言葉は、「愛」とかいう言葉や、「妖術」や「サクティ」とかいった言葉と同様に、私にとって違和感を感じさせる言葉だ。いつも疑問を感じながら、おずおずと使用している言葉のひとつだ。電波というものについてこれを完璧に了解するためには、それこそ専門書を読み解き、実験をしてみる必要があると思う。でないと、いつまでもこの言葉は、私に定着しないであろう。しっくりこないであろう。← 言葉は使用することに価値があり、「それが何を実際に指し示しているのか? それと対応する物理的な対応物はあるのか?」や「その言葉が自分にとって腑に落ちない理由」について深く考える必要はまったくないと一方では思うため、私は日々、知ったかぶりをしているような感覚で、さまざまな言葉を使用している。そしてちょっとした罪悪感を感じている。この罪悪感は、覚えたての「現地語による自己紹介文」を披露し、現地の人々が笑顔で喜んでいるときに、ふと感じてしまう罪悪感に似ている。「現地語で自己紹介文を述べている」はずの私は、自分自身を、「口から「単なる音の羅列」を出している者」として捉えがちであり、喜ぶ現地の人たちを見て妙な罪悪感を感じるときがある。