S先生

先週、大学院時代にお世話になったS先生が退官なされた。S先生の最終講義に駆けつけることができず、非常に残念だった。

私は直接S先生から指導を受けてはいない。修士1年の時にS先生の講義を受講したことはあるが、S先生のゼミには一度も参加したことがない。私がS先生と接触する機会は少なかったといえる。

しかし、S先生が私に投げかけてくれた語りには、無視できないものが多い。今でもその語りは私の中で強く存在し続けている。私はS先生から密かに大きな影響を受けてしまっていると思う。

私が受講したS先生の講義は、「人種」や「民族」という概念に関する講義だった。

いかに「人種」や「民族」という概念が虚構じみて胡散臭いものであるのか。しかし虚構じみて胡散臭いくせに、いかに「人種」や「民族」という概念は人を捕らえて離さないものであるのか。

これらのことを私はS先生の講義で理解した。

そして、あれはいつだっただろうか。そう。東校舎の中庭でバーベキューをした時だ。酔っ払った私が、下手な三線を弾いていたときのことだ。

S先生が驚いたような顔をしてゆっくりと話しかけてきた。

「…君は、出身は沖縄なのかね?」

「…はい。一応そうです。…でも、三線を弾き始めたのは沖縄を出てからです。」

会話は、確かこんな風に始まった。

バーベキューの夜以来、S先生は私に会うと、沖縄関係の話をするようになった。S先生がくれた沖縄関係の情報では、次のような情報が最も印象深い。

「「沖縄人」である伊波普猷が「「沖縄人」は「日本人」になるべきだ」と強く主張していたこと」

私は沖縄出身のくせに、沖縄のことや伊波普猷のことをよく知らない。その頃の私は、儀礼と妖術のことしか頭になかった。

しかしだからこそ、S先生がくれた上記の情報は、妙に強烈に私の脳裏に焼き付いた。

S先生の手には大きな傷がある。

学生運動の頃、機動隊と衝突して負った傷なのだそうだ。当時学生だったS先生は、指導教官の人類学者たちを「人類学は搾取している!」と激しく糾弾したという。

この話を知っていた私は、くそ生意気にも、次のような質問をS先生にしたことがあった。

「S先生は昔、人類学者たちを「人類学は搾取している!」として糾弾したんですよね? でも先生は今、大学で人類学者をしている。これは矛盾していませんか?」

S先生はいつもと変わらず穏やかな調子で、次のように述べた。

「…それは君たちが総括してくれればいい。」

私は黙って頷いた。

「総括」という言葉の意味が分からず、私はただただ沈黙するしかなかったのである。

『不確定性を飼い馴らす』を討論会で私が発表した時、S先生がくれたコメント。

「…折り合いをつけるしかないんじゃないかね…。」

論文指導というよりも、なんだか、人生指導をされたように思う。あからさまに。

そして一番私の脳裏に焼き付いているS先生の語りがある。

「フィールドで調査を行い、情報を収集し、それらを分析して論文という形にまとめること*1」と、「調査される側である「現地の人たち」と、人として対等に付き合うこと*2」とのあいだで引き裂かれ、人類学を諦めることを選択した、とある人類学徒の手記について、私がS先生に意見を求めた時。

S先生はなぜか笑顔で次のように言った。

「それでも人類学は、切り刻むのですよ!」

「切り刻む」というセリフに、わざわざ何かを刀で切るような動作を重ねたS先生を前にして私は、「なんでこの人は笑顔なんだ!」と動揺した。

私は今でも動揺したままだ。

「人類学は切り刻む」というセリフと、S先生の笑顔を、私は鮮明に覚えている。

S先生が私に埋め込んだ語りは、おそらく一生消えないだろう。

*1:すなわち「切り刻むこと」

*2:この部分。ちょっと記憶があやふやだ。私が読んだ本は、女性の人類学徒が書いた本だった。彼女は中東のどこかでフィールドワークを行い、そこで行われていた「呪術的実践」に従事していくにつれ、現地の人々による「呪術的実践」を、どこか突き放した態度で記述する研究者という自分自身のあり方に、次第に違和感を感じ始めていった。断筆宣言を髣髴とさせるような、この本のあとがきにおいて、S先生のことが言及されていた。だからこそ私はS先生に意見を求めたのだ。この本の詳細が思い出せない。確か、共同研究室の、岩波文化人類学シリーズの下の棚あたりにあったはず。白い本だったような。S先生が監修あるいは編集に関わっていた本だ。