沖縄がよんでいる(電波)

最近、沖縄関連のイベントに縁がある。むこうからやってくる。「沖縄人」や「沖縄研究者」と頻繁に遭遇する。なぜだか知らないが、沖縄という文字や語りが、私に迫ってくる。

まるで私は沖縄によばれているようだ。

とある沖縄出身の人物は、私のサイトに掲載されている私のプロフィールを見て、彼の主催する沖縄関連の組織へ入会するよう、私に連絡を取ってきた。また、修士の頃にお世話になった恩師の一人は、私を沖縄関連のプロジェクトへ誘ってくださった。

非常に神秘的なもの(運命的なもの)を感じる。

「私が沖縄出身者だから」という答えが成り立つかもしれない。私が沖縄出身なので、「沖縄人」や「沖縄研究者」からコンタクトがくるのだ、という説明が成り立つかもしれない。

確かにそうともいえる。

しかし、あまりにも立て続けに*1沖縄関連のイベントに巻き込まれるので、私にしては珍しく、「なにか神秘的なもの」を、この現象の背後に感じている。そして、嵐の前の静けさのような、なんらかの妖しい予兆を感じる。

と、ここまで書いてきたうえで、「いやいや」と、頭を振ってみる。つとめて懐疑的になってみる。

私が現在感じているところの、「なにか神秘的なもの」と「妖しくも非常にポジティブな予感」。そもそも私は、どうしてこのような存在と予感を、感じてしまっているのだろうか? その機序はいかなるものであろうか?

かろうじて、上記のような問いを立ててみる。なんらかの物語に捕らわれはじめている自分を感じつつ。

日々、私を見舞う大量の情報の中から、「沖縄と関連のあるもの」だけが選択され、私の目に飛び込んでくるような感覚を覚える。「なにか」が、私の周囲で生じる出来事を関連付け、組織化していることを、私は想定せずにはおれない。この場合の「なにか」というものに対して、ある人は「神の思し召し」という概念を、またある人は「ご縁」という概念を、すなわちなんらかの「物象化された概念」を、あてがうのであろう。

うーん。自分が使用するところの語りについて、その語りを使用することの自然さからあえて目をそらし、自分自身が使用する語りの構造について過度に説明的に語るならば、上記のようになるのだろうか。

しかし、語りについていくら分析的になっても、リアルなものは依然としてリアルだ。「面白いことが起きているなほんと。物象化って面白い。語りを物象化理論に基づいて眺めることの正当性・妥当性について、私はまだまだ半信半疑*2なのだけれど、「時に人は「神の思し召し」や「ご縁」という存在を、出来事の経緯に登場するひとつの出来事として、かつ、出来事の経緯そのものとして捉える」とするこの考え方はやはり面白い。とにかく我々が使用する語りには、面白い現象が紛れ込んでいるという気はする。」と思えていても、依然としてリアルなものはリアルだ。

なかなかはまりかけているなと思う。

そう。先日とある研究会で、「沖縄研究で著名な研究者が、私の出身大学院に今年の春から赴任してくる」という情報を掴んだ。

ますます神秘的なもの(運命的なもの)を感じる。

人間に本来備わった、経験を組織化する能力が、今まさに自分の中で、活発に活動していることがありありと実感できる。面白い。シンクロニシティしまくり*3

上記で言及してきたような「沖縄」絡みの物語に、私が絡めとられてしまう素地は、もともと整っていたといえる。

私は沖縄で18年間暮らした。しかし、私は沖縄のことをあまり語らない。

沖縄は私にとって、「大嫌いだけど大好き」あるいは「触れたくないけど触れたい」と形容すべき、厄介な対象なのである。18のときに沖縄を出てからというもの、私は沖縄を意図的に避けてきた。いや。意図的というよりも、反射的に、私は沖縄から顔を過剰にそむけてきた。沖縄という音を聞くと、なんともいえないドロドロした、赤と黒が入り混じった閃光が私の体を走る。「帰りたくないけど帰りたい」場所、それが沖縄。

要するに私にとって沖縄は、いい意味でも悪い意味でも「気になって気になってしょうがないもの」ということである。

なぜこんなことになってしまっているのか? このことについて自分を深く掘り下げて、ちゃんと探求しないといけないなと思う。「くぬいるしるーやー。やーないちゃーだろ?」*4と私が「沖縄人」から頻繁に言われ続けてきたからだけではあるまい。私が沖縄と呼ばれる場所で生まれ育っていく過程で、私という存在に影響を与えてきたエージェントや出来事や人物や人の流れを全て特定し、私という人間を中心に置いた「(複雑かつ正確な)世界の見取り図」、すなわち曼荼羅*5を、作成したい気分なのである。その時期にさしかかっているような気がするのである*6

そろそろ沖縄に、私は取り組むべきなのだろうか。

あーしかしめんどー。なんぎー。

はっきりいってこの作業はしんどい。

やりたいけれど、やりたくないと正直思う。やる必要あるのかなとも実は思う。なんでこんな大それた妙なことを企画しているのだろう自分は、とおかしく思う。

けれど、いつかは取り組まなければならない作業だと思う。

世界とつながるためには、世界について考えなければならない。自分をも含めた世界というものを一度はしっかりと説明し尽くしてみたいのである。そうすることによって、世界に自分をしっかりと位置づけて、堂々と胸を張れるようになりたい。

なんかまだ浮いている感じ。おそらく浮いたままでもいいのだろうけれど、たまにはつながってみたい。まだまだ緊張が取れない。もっと楽になりたい。

*1:明らかに「主観的」な言葉だ。「あまりにも立て続けに」という副詞を用いている時点で、私は既に「客観的」な記述を行っていないことになる。しかし、感じてしまうものはしょうがない。リアルなんだからしょうがない。

*2:まだまだ十分に理解しきれていないということ。

*3:ユングをちゃんと読みたい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3 呪術について復習したい。http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/jujutsu.html http://members.jcom.home.ne.jp/mihamamoto/research/published/fieldwork.html

*4:「この色白が。お前「内地人」だろう?」

*5:箱庭よりも複雑な世界観。もちろん、作り終えたらちゃんと壊すつもりだ。そしてまた作る。で、また壊してまた作る。この繰り返し。作り終えたら気分がすっきりするが、やがて色褪せるので、壊してはまた作り直すのである。そんな気がする。

*6:自分史を作り終えたとき、あるいは自己紹介という形で自分を満足に物語ることができたとき、人は爽快感を感じる。この作業は、自分自身を含めた世界というものを説明しつくすことによって、自分を世界にしっかりと根付かせる営みといえる。だからこそ、爽快なのではないだろうか。