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琉球民族あるいは南島人の精神分析

大正十三年三月。「琉球民族精神分析」と題された伊波普猷による文章。

そこで私は一つの疑問を起さゞるを得なくなつた。本県ではどの県にも劣らず国民教育が鼓舞されてゐる。それは実にいゝことだ。けれども暗示をかけるのを教育者の能事のやうに考へてゐるのは間違つゐると思ふ。それから近来こゝでは仏教や基督教なども盛んに活動してゐる。彼等の教祖達はいづれも人類に生命を与へたローファーであったが、その真精神はその宣伝が企てられた一刹那から曲解された。そして彼等の末流は暗示をかけて人を奴隷化する魔術師となつた。吾々沖縄県人はこれ以上暗示をかけられてもよいだらうか(伊波 1976:301)。

「奴隷」「魔術師」「教育」「暗示」という言葉が気にかかる。

次に、昭和五年十二月二十二日。「南島人の精神分析」における伊波普猷の記述。

南島人に接する人はかういふ所にすぐ気がつくに違ひない。彼等は理性もかなり発達して居り、感情も頗る豊であり、直覚力も強いが、意志の力が非常に弱い。(中略) 三百年間この大切な意志を動かす自由を与えられなかつた為に、彼等は恐らく世界中で一番意志の弱い人民になつてゐるだらう。彼等は島津氏が与へた身動きも出来ないやうな制度の中にぶち込まれたが最後、この制度に対して疑問を起すことが出来なくなり、従つて暗示にかゝり易くなつた。南島人はこれから魔術師の暗示にかゝらない様に用心しなければなるまい。(中略) 暗示ばかりかけられて、一部の人々の都合のいゝ奴隷に甘んずるやうなことがあつてはならない。[バートランド・]ラツセルも「教育は特殊の信条を真であると思ひ込ませしめるものでは無く、真理に対する慾望を長ぜしめるにある」といつた。三百年間奴隷の境遇に沈淪してゐた吾々南島人は、再び奴隷的生活をおくるやうなことがあつてはならない。私達は租税や血税を納めて、能事了れりと思つはいけない。これらのものは奴隷さへも能くする所のものである。私達が納めなければならぬ最も尊い税は、個性上に咲いた美しい花でなければならぬ。だが、この個性を培ふべき苗圃は、磽地と化し去つて、しかもさうならしめた責任が、専ら吾々に嫁せられつゝあるのは、堪へられないことである(伊波 1974:12)。

再び、「奴隷」「魔術師」「教育」「暗示」という言葉に出会う。

伊波は「沖縄人」あるいは「琉球人」について、それを、なんらかの欠陥をもつ存在として捉えていた。「内地人」もしくは「本州人」と「琉球人」を比較した際に、その差は顕著に現れると、彼は考えていたようである。「内地人」より劣った存在としての「琉球人」。このような描写が伊波の文章には繰り返し現れる。

上記の文章からは、伊波が、「支配者ないし施政者による「暗示」により、「沖縄人」は「奴隷」的な心性を持つに至った」と、考えていたことが読み取れる。

私は、「沖縄人」も「日本人」も、その区別が以前よりは曖昧化した現代において、上記に引用した伊波普猷の文章を読み、「沖縄人」や「日本人」といったカテゴリーとは別のカテゴリーを連想した。

私が連想したのは、「ひきこもり」あるいは「ニート」といったカテゴリーである。

伊波が言及する「沖縄人」というカテゴリーと、現代の「ひきこもり」(あるいは「ニート」)というカテゴリーには、共通した属性がある。

どちらのカテゴリーも、絶えず何者かによってその在り方を否定され、別の何かになることを強制される存在である。簡潔に言うならば、「とにかく文句を言わずに働いて税金を納めることを強制される存在」である*1

我々は魔術師の暗示にかからない様に用心しなければならないのではないか。暗示ばかりかけられて、一部の人々の都合のいい奴隷であることに満足するようなことがあってはならないのではないか。

非常に甘い考えである。

現在の自分を否定し、周囲が期待する何かになって初めて、現在の生活を維持することができる状況において、「魔術師」による「教育」がもたらす「暗示」に背き、「個性上に咲いた美しい花」で居続けることは、餓死を意味するのではないだろうか。

我々は、死なない程度に無理をして、「周囲が期待する別の何か」にならなければならないのではないか。ある程度は。

非常に殺伐とした考えである。

仕事のできない同僚の、そのもたついた動作を目の当たりにしたとき、殺意にも似たどす黒い感情が生起する私は、もう確かに、「ひきこもり」ではない。「こいつ馬鹿か?ふざけてないか?こんな体たらくで給料もらっていいと思っているのか?」という考えが頭をよぎり、イライラした口調で彼らに接する私は、もう確かに、「ニート」ではない。

しかし同時に、「個性上に咲いた美しい花」でもない。


■参考引用文献

伊波普猷 1974 「南島人の精神分析」『伊波普猷全集第二巻』 平凡社
伊波普猷 1976 「琉球民族精神分析」『伊波普猷全集第十一巻』 平凡社

■参考サイト
http://d.hatena.ne.jp/toled/20060318
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060408
http://www.lifestudies.org/jp/kokka.htm

もしも私が日本における学校の教師であり、入学式において国家斉唱の起立を求められたならば、私は起立する。さらに、必要とあらば国家も歌う。

なぜか? 

そうすることのメリットがあるからである。下手に波風立てるようなことをして、クビになりたくないからである*2

学校とは「教育」を通して「日本人」を作り出す「国民製造装置」*3であり、「日本人」として不適切な人間を、本来必要としない。だからこそ私は、「日本人」として振舞うのである。

国家など、利用してしまえばいいのである。私にとって国家斉唱は、「国立市在住ではないけれど、国立市立図書館を利用したいがために、偽の住所なり文書なりをでっちあげて、まんまと国立市立図書館の利用者カードをゲットすること」と、本質的には同じである。

立ち上がって歌を歌うだけでお金が貰えるなら、そうしたほうが得である。国家斉唱することに、過剰な意味を読み込む必要はない。

いつもスパイのつもりでいたらいいのである。スパイは、自らを監視する者を騙すために、己の振舞いに気を使う。うっかり「沖縄口」を使用して、スパイと間違われて射殺されてしまわないように、「日本語」のみを流暢に話してみせるのである。「日本人」に向かって、それはそれは上手に。

もしも私が、「日本兵」として戦争に動員されそうになったならば、損得勘定したうえで、兵士になるか国外逃亡をするかの判断をする。私は日本国籍保有者ではあるが、「日本人」ではない。「日本人」という自覚は私にはない。お粗末な戦略しか練れない人間を指揮官にした軍隊に入り、犬死するぐらいなら、日本中の金融機関からお金を借りて、一人でケニアやインドネシアの奥地に逃げる。そこで「現地の人」と楽しく暮らす。

その際は、「スワヒリ語」や「インドネシア語」を流暢に話してみせる。「現地の人」に向かって、それはそれは上手に。

私は日本国籍保有者ではあるが、「日本人」ではない。「日本人」という自覚は私にはない。お粗末な戦略しか練れない人間を指揮官にした軍隊に入り、犬死するぐらいなら、日本中の金融機関からお金を借りて、一人でケニアやインドネシアの奥地に逃げる。そこで「現地の人」と楽しく暮らす。

また、無茶なことを書いてやがる。国外逃亡など、うまくいくはずなかろう。

国外逃亡よりも、国家が無謀な戦争をしないよう国民が国家を操作したほうが、効率がいいのではないか? 現在自分が利用しているところの国家を、自分にとってより都合のいいものにしていこうという欲望。この欲望に基づき、実際に行動を起す。教師は生徒にこの欲望を、学校における「教育」を介して、あからさまに直接伝えることはできないにしても、せめてメタメッセージのレベルで伝えることができたらいいのではないか? 「world is mine」*4というメッセージを伝えることはできないだろうか?

とはいえ、上記の理想を実現させるための具体的な方法は思いつかない。どうすれば国家を操作できるのだ? 選挙などあてにならないが、これに頼るしか方法はないのだろうか? それとも勉強して東大に入って、官僚になればいいのか?

伊波普猷の文章を読んでからというもの、気分が落ち込んでいる。読めば読むほど苦しくなる。以下、「琉球民族精神分析」より引用。

有島武郎氏の「小児の寝顔」といふ小品文に「……夜おそくなど、独り眼をさまして、熟睡した小児を見守つてゐると、見守るに従つて私の心は淋しくされる。彼れの頬は健康と血気とを以つて赤い。彼れの皮膚は苦慮によつて刻まれたる一条の皺をも持つてゐない。然しその何事をも知らぬげな顔全体の後ろに、恐ろしい真暗らな運命が、それが冷やかに底気味悪く覗いてゐるではないか」といふことがあるが、無邪気で可憐な我が子の寝顔を眺める度毎に、私も亦武郎氏と同じ様な不安の念に襲はれる。そして生長しにくい孤島に可愛い子を産み落して自分と同じ様な苦労を繰返させるのは一つの罪悪ではないかと思ふことさへある。そこで私はこの頃、いつそのこと日本の中心に引越し、東京府に籍を移して、子供を江戸子にしてやるのが、子供に対する大なる愛ではないかと感ずるやうになつた。私は覚えず愚痴をこぼしたが、之を弱者の心理だといつて軽蔑する人があつたら、勝手に軽蔑するがいゝ(伊波 1976:295-296)。

悲しい。伊波は我が子を「沖縄人」よりも「日本人」にしたいのである。

しかし、「軽蔑する人があつたら、勝手に軽蔑するがいゝ」と啖呵を切るところ、この開き直り方が、私は好きである。

国家など、利用してしまえばいいのである。私にとって国家斉唱は、「国立市在住ではないけれど、国立市立図書館を利用したいがために、偽の住所なり文書なりをでっちあげて、まんまと国立市立図書館の利用者カードをゲットすること」と、本質的には同じである。

ジジェクが既に指摘していることだが、上記のような態度が一番あぶない。

「国家など利用してしまえばいいのである」と述べる私は、「わたくし日本という国が大好きで大好きでたまりません。日本を愛してやみません。日本のためなら死もいといません」イデオロギー*5から、距離が取れているように見える。少なくとも私自身は、「イデオロギーから自由な自分」を感じている。

しかし、赤の他人から見た私は、まったく申し分のない「日本人」ではないか。教育基本法を改正したい人間が望む「日本国民」ではないか。赤の他人は、「やべ。俺もあいつのように「日本人」の振りをしないと、「非国民」として目立ってしまう」と判断し、彼もまた「日本人」として真面目に振舞いはじめてしまう。

かくして、体育館に集った人々は、どう見ても立派な「日本国民」としか思えなくなる。

そしていろいろあって、アメリカの介添えもあったりして、とうとう「日本人」は戦争にかりだされることになったとする。

もちろん「日本人」の多くは、戦争なんかに行きたくない。家でゴロゴロしていたい。しかし、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」から「非国民」扱いされるのは怖い。だからこそ人々は、過剰なほど「日本国民」を演じる。率先して「日本人」を演じる。

つまり、私のような、中途半端に斜に構えた人間の振る舞いは、私を観察する赤の他人による「世界に対する想像」を、一定の方向へ確実に誘導してしまう。「本物の日本人」あるいは、教育基本法を改正したい人間が作り出したいと願う「ねっからの日本国民」など、実際は少数なのに、斜に構えた人々があえてそのような存在として振舞うことにより、それを模倣する輩があふれ、結果的に、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」が実際よりも大勢いるように見えてしまう。

「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」が実際には少数しかいなくても、赤の他人によって「「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」などいたとしても少数だろう。みんなイデオロギーから距離をとっているはずだ。だが、しかし……。」と想像されてしまったらさいご、あとは「演技/素」「ネタ/ベタ」といった二項対立など何の役にも立たない混沌とした状況が訪れる。「どうやらイデオロギーからさめているのは俺だけのようだ。このまま「不良日本人」をしていると、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」から「非国民」として糾弾されるのでは?」という想像をしてしまったら最後、人々は「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」を演じ始める。互いが互いに「「日本人らしいかどうか」自分は他人に監視されている」と思い込んだ末、人々は自らすすんで、「日本人」ならば当然行うであろう行為─「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」ならば必ず行うに違いないと「その人」が想像している行為─に確実に手を染めていく。 

やがて、「国民以外の人間の大量虐殺」や特攻隊に代表されるような「万歳アタック」が行われ、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」が結果的に誕生する。

「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」に自分が結果的になってしまわないためにも、また、赤の他人を「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」に結果的にしてしまわないためにも、やはり、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」を作り出そうとする政策には、はっきりと反対したほうがいいのではないか?

「私は国家斉唱を拒否します。」と断言したほうが、「本物の日本人」ないし「ねっからの日本国民」を作り出さずに済むのではないか? 赤の他人の「世界に対する想像」を、「どこかに「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」がおり、その数はさめている人よりも断然多い。」という内容のものに方向付けなくて済むのではないか?

他人の目を気にしすぎるあまり、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」を結果的に体現してしまわないように、あるいは、赤の他人に「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」を結果的に体現させてしまわないように、「他者志向的な行動・生き方」はほどほどにし、もっとみんな「我がまま」で「自己中心的」になったほうがいいのではないか? 『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三のように。

あらためて考えてみる。

もしも私が学校教師であり、国家斉唱と起立を求められたならば、どうするか?

基本的に私は、式自体面倒だから参加したくなく、さらに言えば、学校教師として教壇に立つのも一週間に3回ぐらいがちょうどいいのではと考える怠惰な人間なので、「今から国家斉唱だから立て」と言われたら、不快になる。

それに、いままで述べてきたように、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」の「見かけの数」を増やすことによって、自分で自分を「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」へ結果的に成形したくはないため、国家斉唱と起立は断りたい。

しかし、教師をクビになるのは困る。

だから、式で私は気絶することにする*6

あるいは、国家斉唱が行われそうな場には行かないよう努めたい*7

国家斉唱をしたからといって、すぐに「日本国民」が戦争に動員されることになるわけではないが、「「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」ならばもちろん断らないよね?「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」ならば当然やるよね?」という共通理解がいったん構築されてしまうと、もう後には引けなくなる。国家斉唱やその際の起立は、「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」ならばもちろん断らない行為だ。

そして、これらの行為と「万歳アタック」までの距離は、そう遠くはないのではないか?

「「本物の日本人」や「ねっからの日本国民」なら絶対行う」とされる行為のレパートリーが次々に追加されていき、気が付けば「万歳アタック」という状況になるのではないか?

話は変わる。

教育基本法が改正されること」について、反対の声があがっているが、「教育基本法の改正内容について」ではなく、私は、「多くの人々が反対しているにもかかわらず、一方的に政府の政治家や役人によって教育基本法が改正されてしまうこと」自体に危機感を覚える。

この風潮自体が問題ではないか?

このままいろいろと法律で決定されていけば、いつか徴兵制に行きつくのではないか? 

私は、国家が軍隊を持つことには反対ではない。最低限の力は必要だと考える。力がなかったからこそ、沖縄は薩摩に占領されたのだ。いくら空手が強くても、銃で撃たれたら終わりだ。自衛のための力は必要だ。

ただし、その力をどう使うかという指揮命令系統について、私は悲観的である。私は日本という国家が持つ軍隊を信用しない。反対の声があがっているにもかかわらず、ろくな議論が行われずに、勝手に少数の人々が法律を変更できる国家が持つ軍隊に、誰が入りたいと思うだろうか?

↑なんかいっぱい書いているけど、「想像力がどうのこうの」という話は余計ではないか? 

単に、私を含めて多くの人々は「上からの命令に逆らうと処分されるので、上からの命令に従う」のではないか? 「ジジェク的なものの見方」は、わざわざ導入しなくてもいいのではないか?

そして、立てるべき問いは、「教育基本法の改正や、国家斉唱の強制を認めてしまうと、上からの命令がどんどんエスカレートし、自分や自分の大切な人が不利益を被るような状況になっていくのではないか?」という問いであり、「もしもそうであるなら、どうやってそれを防げばいいのだろうか?」という「闘い方についての問い」ではないだろうか?

*1:要するに、「教育」によってまっとうな「日本国民」になるべき存在である。そして納税は国民の義務である。

*2:国家斉唱の際に起立しなくてもクビにならないならば、起立しない。だって面倒じゃん。ただでさえ式はだるいのに。

*3:参考資料 http://d.hatena.ne.jp/Z99/20050730

*4:世界は俺のもの

*5:しかし、このイデオロギーの内容とは裏腹に、このイデオロギーを持つべく政府から圧力をかけられた「日本国民」が持つことになる心性は「日本という国を牛耳る中央政府の役人や政治家やそれらの意思を体現する上官の命令に従いたくて従いたくてたまりません」というものであろう。

*6:私は根性なしである。

*7:根性なしである。