「虚/実」(の構図)を「虚/実」の「二項対立」として誤解していた私

「虚/実」(の構図)とは

今、私は北九州にいる。大学のゼミ室で、この文章を書いている。

飛行機やバスに乗って北九州へ移動しながら「虚/実」について考えた結果、下記のような結論(常に暫定的な)に達した。

私の修士時代の指導教官が用いていた「虚/実」(の構図)という説明概念を、私はこれまで「虚/実」の二項対立と言い換え、そしてさらにそれを「演技/素」「本音/建前」の「二項対立」図式と言い換えていた。

この言い換えは間違いである。私は言い換え方を間違っていた。言い換える必要がないにもかかわらず、「虚/実」(の構図)を「虚/実」の二項対立として私は言い換えていた。

「虚/実」(の構図)は、「虚/実」の二項対立や「演技/素」「本音/建前」の「二項対立」図式とは、似て非なる概念である。

なぜなら、私の指導教官は、「虚/実」(の構図)という言葉によって、単に次のことを指し示していたからである。

「虚/実」という二つの空間がある。「目の前に提示された他者の言動」は、自動的に「虚」として分類される。そして必然的に「実」*1という領域も想定される。

すなわち、上記における「虚」とは、「表」あるいは「表面的なもの」と呼びうるような領域であり、この領域が想定されたら最後、この領域と対(つい)になるかたちで「実」という領域(「裏」あるいは「深層なるもの」)までもが芋づる式に想定されてしまうということである。

「虚/実」の「二項対立」とは

それでは、「虚/実」の「二項対立」とはどのような状況を指すのであろうか?

「虚/実」の「二項対立」という言葉を見た人が思い浮かべる状況とは、「目の前に提示された「他者の言動」が、はたして「虚」に属するのか「実」に属するのか考えあぐねること」である。

ただし、ここでの「虚」は「表」と訳してはならない。なぜなら、ここでの「虚」は、なんらかの「空間的な領域」のことを指してはいないからである。むしろ、ここでの「虚」は、「嘘」あるいは「演技」と訳したほうが適切である。同様に、ここでの「実」は「裏」と訳してはならない。ここでの「実」は、「本当」あるいは「素」と訳すべきである。

「虚/実」(の構図)と「虚/実」の「二項対立」の違い

「虚/実」の「二項対立」という枠組みは、目の前に提示された「他者の言動」が、「嘘なのか本当なのか」を考えさせるものといえる。

ここで重要なことは、「虚/実」の「二項対立」は、目の前に提示された「他者の言動」を、「表」という意味における「虚」としては分類しないということである。「他者の言動」を「表」という意味における「虚」として分類するのは、「虚/実」(の構図)である。「虚/実」(の構図)と「虚/実」の「二項対立」の役割(=管轄)は、明確に異なっていることに注意しなければならない。

上記のことを図で示すならば、次のようになる。

  1. 「虚(=表)/実(=裏)」 ← もしも虚と実の内容が一致するなら  = 「本当」あるいは「素」あるいは「本音」
  2. 「虚(=表)/実(=裏)」 ← もしも虚と実の内容が不一致ならば  = 「嘘」あるいは「演技」あるいは「建前」

つまり、「虚(=表)/実(=裏)」(の構図)は、「虚(=嘘)/実(=本当)」の「二項対立」を成り立たせているといえる。「虚/実」の「二項対立」という考え方を成り立たせる考え方が、「虚/実」(の構図)なのである。

人が「他人の言動」を「虚/実」(の構図)に依拠して眺めたとき、「目の前に提示された」という単純な理由により、「虚」の内容として、「他人の言動」が当てはめられる。そしてこの後で初めて、「(「他人の言動」という内容を今や備えた)「虚」という領域の内容は、はたして「実」の内容と一致するか否か」という問題が生じるのである。この「そしてこの後で初めて」以降において私が描写した状況こそ、「虚/実」の「二項対立」という言葉が対応する状況に他ならない。

修正報告

私は「ひどい」というエントリーにおいて次のように文章を締めくくった。

つまり私は、「本音/建前」「演技/素」の二項対立から、依然として解放されていない。

三つ子の魂百まで、なのか。

今回のエントリーにおいて行った反省を生かすならば、私は上記の文章を、下記のように修正すべきである。

つまり私は、「虚/実」(の構図)から、依然として解放されていない。

三つ子の魂百まで、なのか。

「呪術で殺すぞ」というタイ人ブローカーの言動を、「虚/実」(の構図)に基づいて眺めることにより、私は「呪術で殺すぞ」という語りを「虚」に当てはめた。そしてそのうえで、この「虚」の内容は、「実」と一致していないと半ば確信した。

2年前、私はこのような仕方で考えをめぐらすこと自体に、どうしようもない不毛さを感じていた。にもかかわらず、相変わらず同じことを行っている自分を、例の新聞記事を読んだ際に再認識したため、あきれかえってしまったのである。

もちろん、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」という私の確信はそもそもどうして私に生じているのかという問題は、「虚/実」(の構図)や「虚/実」の二項対立とは別問題である。これらの説明概念の存在が、上記のような確信を私に「直接的に」抱かせているのではない。miirakansuが指摘するように、私が「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信するためには、「何か別の原因」が必要であろう*2

お詫び

以上、「虚/実」(の構図)が「虚/実」の「二項対立」という考え方を成り立たせていることを示してきた。

「虚/実」(の構図)は、「虚/実」の「二項対立」を成立させるための基盤となっている。「虚/実」(の構図)に依拠した結果、「虚」として分類された「他者の言動」が、今度は「実」の内容との「一致/不一致」を問題にされるとき、人は初めて「虚/実」の「二項対立」という言葉の使用を許されるのである。

私はこれまで、指導教官が用いていた「虚/実」(の構図)を、「虚/実」の「二項対立」と混同していた。このふたつは明確に区別されねばならない。このふたつの説明概念の関係は、前者が後者を成り立たせているというものである。そして、あえてこのふたつの説明概念を、それぞれ別の言葉で言い換えるならば、次のようにするべきであった。

  1. 「虚/実」(の構図)   → 「表/裏」(の構図)、「表面的なもの/深層なるもの」(の構図)
  2. 「虚/実」の「二項対立」 → 「嘘/本当」の二項対立、「演技/素」の二項対立、「建前/本音」の二項対立

「虚/実」(の構図)を、「虚/実」の「二項対立」と誤訳したため、私は混乱を招いてしまった。

非常に申し訳ない。

もちろん、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」という私の確信はそもそもどうして私に生じているのかという問題は、「虚/実」(の構図)や「虚/実」の二項対立とは別問題である。これらの説明概念の存在が、上記のような確信を私に「直接的に」抱かせているのではない。miirakansuが指摘するように、私が「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信するためには、「何か別の原因」が必要であろう。

今回のエントリーにおける上記の箇所にて、私はだいたい次のようなことを述べている。

①タイ人ブローカーによる「呪術で殺すぞ」という語りを重森がまのあたりにする。②重森は、「虚/実」(の構図)そして「虚/実」の二項対立に依拠する。③重森は「何か別の原因」を取得する。④「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」という確信に重森は至る。

上記の①〜④の順番で事態が進行していくのが、「「虚/実」(の構図)と「虚/実」の二項対立に依拠して考える」際の、通常の流れであろう。

しかし私は、次のような仮説が成り立つのではないかとも考えている。

①タイ人ブローカーによる「呪術で殺すぞ」という語りを重森がまのあたりにする。②いきなり重森は「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信する*3

つまり、こういうことである。

タイ人ブローカーによる「呪術で殺すぞ」という語りをまのあたりにした途端、重森は、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信する。

ここでは「何か別の原因」は全く関与していない。「何か別の原因」が登場してこないにもかかわらず、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信している点が、「「「虚/実」(の構図)と「虚/実」の二項対立に依拠して考える」際の、通常の流れ」とは異なっている。

投影ですか

それでは、どうして重森は「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信しているのだろうか?

月並みな説明であるが、ここでは「投影」が生じていると思われる。

タイ人ブローカーによる「呪術で殺すぞ」という語りをまのあたりにするやいなや、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信する重森は、タイ人ブローカーに自分自身を見ているのである。「呪術で殺すぞ」と述べたというただそれだけの理由により重森は、「呪術に効果などない。呪術など信じられない」と考える自分自身をタイ人ブローカーに読み込んでいるのだ。「呪術で殺すぞ」というセリフに敏感に反応し、そのセリフを口にする他人に自分を読み込む。つまり自分を他人に投影しているのである。よくある話である。

かくして、「何か別の原因」なしでも、「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」という重森の確信は成立することになる*4。要するに、重森は思い込みが激しいのだ。

さらにこの思い込みは、自分にはできないことを首尾よく達成しているという更なる思い込みを誘発してもいる。結果、重森は強烈な怒りを伴う嫉妬を抱くことになる。

重森は、呪術の効果を信じていない。そして重森は、「虚/実」(の構図)に強固にとらわれており、絶えず自他の言動をこの構図に依拠して眺めてしまう。このような重森にとって、「呪術で殺すぞ」というセリフは、口にすることが難しい。もしも重森がこのようなセリフを喋るのならば、すぐさま重森は違和感を感じてしまうだろう。気持ち悪さを感じてしまうだろう。「虚/実」のそれぞれの内容が食い違うことに、青二才の重森は耐えられない。脆弱なのである。

前述のように、重森は自分自身をタイ人ブローカーに読み込んだ。タイ人ブローカーは重森とは違って、「呪術で殺すぞ」というセリフを述べることに、何の違和感も感じておらず、首尾よく自分の欲望を達成している。重森にはこのように思われた。

そのため、重森はタイ人ブローカーに嫉妬する。この嫉妬は、怒りといっしょくたになった嫉妬である。

「虚/実」(の構図)に重森がとらわれていないならば、さらに、投影などしないならば、このような現象は起きないであろう。「呪術で殺すぞ」というタイ人ブローカーによる言動をただそのようなものとして受け取り、「ふーん。新聞によると、タイ人ブローカーは「呪術で殺すぞ」とインドネシア人女性らを脅したようだね。」と思うのみであろう。「ほんとは呪術の効果なんて信じていないけどね。「呪術で殺すぞ」って言えば、インドネシア人女性たちを思い通りにコントロールして売春させることができる。だったら、このセリフを利用しない手はないよね。」という邪悪な意図を、タイ人ブローカーに読み込んだりはしないはずだ。

「虚/実」(の構図)という厄介なものにとらわれているばかりに重森は、余計な憎悪を、他者に抱いてしまうのである。自分が本当は行いたいものの、どうしても行うことの難しい行動。すなわち「自分のリアル」とは異なることをしゃあしゃあと口にすること。重森にとっての「自分のリアル」と異なることを述べている他人を見ると重森は、その人物を勝手に自分自身と同一視し、つまり、その人物にとっての「実」を自分自身にとっての「実」と同様のものとしてみなし、「ちくしょう!うまくやりやがって!!」と、嫉妬と怒りにかられるのである。

お礼

北九大のゼミ室にて深夜3時まで議論に付き合ってくれたモンチ様。

「呪術で人を殺す」という言葉を聞くと、シゲさんのリアリティはその言葉が「本当」(=素)であることを許しません。ですから、発言者の人の表層を「嘘」(=演技)とし、それゆえに深層を「呪術で人は殺せない」としてしまうのです by モンチ

モンチによる上記の指摘から着想を得ることにより、「投影」の考え方を用いて自分を説明できる可能性に、私は気付くことができました。

どうもありがとうございます! 今後ともどうぞ宜しくお願い致します!

*1:その内容が「虚」と一致するときもあれば一致しないときもあるような

*2:とはいえ、「虚/実」(の構図)に私がとらわれているからこそ、私は「タイ人ブローカーは呪術を信じていない」と確信できるといえる。このような因果関係を提示することは、例えば、自動車事故の原因として、「自動車事故が起きるために必要不可欠な自動車を生産する自動車工場の存在」を想定するかのようなものであり、いくぶんとっぴに思われるかもしれない。しかし誤りではない。

*3:すなわち重森は、「虚/実」(の構図)に依拠し、タイ人ブローカーによる「呪術で殺すぞ」という言動を、「虚(=表)」に分類するとともに、「実(=裏)」の内容を「虚(=表)」とは異なるものとして決め付けている、といえる。

*4:明らかにしたい課題がひとつ。「呪術で殺すぞ」と述べる他人に対して、「こいつは呪術を信じていないのではないか?」と疑う人物は、「呪術の効果を信じていない」と思われる。逆に、呪術の効果を信じている人物は、「呪術で殺すぞ」という他人を、「こいつは呪術なんて信じていないのではないか?」とは疑えない・疑いにくいのではないか?