なぜ偽薬は効くのか?

周知のように、偽薬(プラセボ)は実薬ではない。偽薬はにせものである。

しかし、病者の症状を改善してしまうことがある。

この理由が知りたい。このメカニズムが知りたい。

騙しているのに、治療が実現してしまう点が、非常に興味深い。

それだけではない。

「なにをどうすれば人を騙すことになるのか?」「そもそも「騙す」とはどのような現象のことを指すのか?」という問いについて、考えざるを得なくなる。

この問題について、ちゃんと考えてみたい。

「参考文献」プラス「文献を読むときに抱くべき問い」

プラセボってなに?

プラセボ論の最前線はどうなっている?

ケサリードがしていたことは一体なんだったのか?

人類学的呪術論の流れにおいてケサリードのエピソードはどのように位置づけられるのか?

「人類学者からすれば「人を騙している」としか思えない仕方で自分の娘の病気を治そうと頑張る父親(=呪術師)のエピソード」から、我々は何を学ぶことができるか? どのような知見を引き出すことができそうか?

(人類学者にとってはどう見ても精霊には見えない)お粗末な物体を、お粗末な仕方で移動させることによって、森に帰還する精霊を「演出」する現地の人々。彼等は、よりによってどうしてそのような仕方で、精霊が森に帰るさまを「演出」しようとするのか? そして当事者である彼等自身は、自分たちの行為についてどのように考えているのか?

それがすんだあとで、だまされたと言って腹を立てるのはルール違反ではないか(中沢 1995:279)。

・嘘という言葉の使用のされ方をチェック。①物理的に存在しない対象について、それがあたかも物理的に存在しているかのように話したときに、「嘘つき!」と言われる。②虚実(の構図)に従って他人の言動が眺められ、虚と実の内容に食い違いが認められた(と思われる)ときに、「嘘つき!」と言われる。③約束を破ってしまったときに、「嘘つき!」と言われる。

「人間の経験とは独立に外在する『物理的世界』という観念の成立」と「虚実(の構図)の誕生」(あるいは「自己の内面の誕生」)には関係はあるのか?

「自分の本当の感情」あるいは「本音」とか呼ばれうるもの。その「実在」を立証する実験がかつて催されたことがあったという。この実験に問題はないだろうか? 「自分のリアル」なるものの存在が、最初から前提にされたうえでこの実験が行われていたとするならば、実験者にとって、「自分のリアル」なるものは、どのような手続きをふむことによって特定できるものと考えられていたのだろうか? *1

・「辛いときも笑顔を見せるバリ人」に関するギアツによる報告を探す。

・「科学と非科学の線引き問題」を参照し、科学と非科学という二項対立を回避しつつ、目の前にある現象を記述していく方法をさぐれ。あと、認識論の社会化についても知れ。あと、これについても、内容が理解できるまで読め。

山形さんもほめている磁力と重力に関するこの本にもちゃんと取り組め。あと、山形さんのこの文章も、理解できるぐらい読み込め。

・中川先生の授業ノーツの内容を把握しつつ、呪術と科学について考えよう。

  1. 呪術論入門
  2. 文化人類学を学ばない人のために
  3. 試験によく出る実在論すべてのはたらく民族誌家のために

魔の木―1785年における精神分析の成立・心理学の哲学を物語る試み

なんか気になる小説。フランス革命と催眠術の意外な関連が描かれているのか?

帯文が非常に魅力的。

フランス革命の前夜、パリに向けてひとりの青年がウィーンを旅立った。その名はヤン・ファン・ライデン、心の病いの療法を求めて磁気治療士メスメルに学ぼうとする医学生であった。それもいささか女好きの…。西ドイツの思想界を騒がす鬼才が、ディドロ『ラモーの甥』とトマス・マン『魔の山』をパロディー化した奇想天外・抱腹絶倒の哲学小説。

レヴィ=ストロース 1996 『悲しき熱帯(下)』 中央公論社

原住民たちは、彼らの体系の論理にうまく騙されて、彼ら自身もそれに成り切ってしまっているのであろうか? 結局のところ、私は、いま自分が見物したばかりの、めくるめくような形而上学的コチリオンが、かなり陰惨な悪ふざけに終るという印象を退けることができない。男の結社は、魂が訪ねて来たという幻想を生きている者に与えるべく、死者に扮しているのだと言っている。女は儀礼から除外され、彼らの正体について騙されているのだが、これは恐らく、日常生活や住居に関することでは女に優先権が与えられ、宗教の奥義は男だけ許されているという配分を裏書きするものなのであろう。しかし、女たちが心底からであるにせよ見せ掛けにせよ、それを信じ込んでいるということには心理的な役割もある。つまり、そのことによって、この操り人形に情緒的または知的な中身が賦与されるからであり、それは男女双方にとって好ましいことなのである。さもなければ、男たちは恐らく、操り人形の糸を引くことにこれほどの熱意をもたなくなるだろう。われわれがサンタクロースを信じさせて子供を育てるのも、ただ子供を騙すためだけではない。子供たちの熱心さがわれわれをまた熱くし、われわれ自身を騙すのを助け、子供たちが信じているように、返礼を求めない気前よさというものが現実と全く両立しないものではない、ということを信じるように仕向けるのである(レヴィ=ストロース 1996:78)。

Kalimbo_Mweroによるプラシーボに関する覚え書き

プラシーボが実際に効くということは、もう疑いの余地がない話である。もし薬の効果が、身体の外部に由来する治癒作用にあるのだとすれば(全面的にそうなのかちょっと疑問ではあるが)、それをまるでもっていないことが最初からわかっているプラシーボの効き目とは、薬の効果とは違って、身体の内部に由来する治癒作用によって発揮された効果以外のなにものでもないということになるだろう。なんのことはない。身体が本来、その内部に持っている修復機能、あるいは治癒作用を働かせているだけのことなのだ。身体自身がもつこうした作用を否定するというのでない限り、プラシーボが効くこと自体を不思議に思う必要はまるでないことになる。むしろ不思議なのは、もし身体にそうした自己治癒作用(たとえば免疫系の働きとか、脳内物質だしまくって気持ちよくさせてくれるとか)があるのなら、その作用が「この場合」なぜ、プラシーボを与えられる「以前には」まじめに働こうとしていなかったのか、ということの方だ。プラシーボが効くということは、つまりプラシーボによって突然がんばりを発揮できるということは、逆に言うと、それまでは、まさにその作用が必要とされている状況でありながら、身体が自己治癒の作用をさぼっていたということにほかならない。身体はなぜ、能力の出し惜しみをしていたのだろう?プラシーボがなぜ、身体にやる気を出させるきっかけになるのだろう(Kalimbo_Mwero 2006)。

浜本満 2001 『秩序の方法』 弘文堂

「なまの弔い」のあいだ中「死者に先立たれた当人たち」は水浴びや洗濯の禁止、椅子や寝台の使用の禁止などいくつもの禁止に服さねばならない。わけても重要なのは性関係の禁止である。これらの禁止を破ることは「弔いを追い越す(ku-chira hanga)」と呼ばれ、違反者は全身の痒み(ku-wawa mwiri wosi)、さらには錯乱(kp'ayuka)に襲われるとされている。(中略) 注意せねばならないのは、ここでいう『禁止』が、けっして誰かが課した命令や取り決めの類ではなく、したがって単に人がその気になれば、あるいは合意によって自由に『解除』したりできる性質のものではないという点である。(中略) やや不正確な比喩ではあるが、ちょうどそれは一〇階建のビルの屋上に書かれているかもしれない「ここから飛び降りることを禁止します。この禁止を破ると死にます」といった禁止に似ている。この禁止を書いたのがビルの管理者であるから、それは同じ管理者によって解除できるはずであるなどと考えることはナンセンスである。たとえ管理者がこの禁止は今日で解除すると宣言したとしても、相変わらずこの禁止を破った人は死んでしまうので、それは少しも解除されてなどいないことになる。「なまの弔い」の期間の禁止も、同様に単なる取り決めや合意の類ではない。それを破った者は、規則違反の廉で誰かに罰せられるのではなく、彼が行った行為そのものの帰結であるところの身体的な異常や錯乱を引き受けるのである(浜本 2001:68-69)。

↑上記の禁止を破った人間が、実際に全身の痒みや錯乱に襲われているのならば、これほど興味深い現象はない。「禁止を破ると全身の痒みや錯乱に襲われる」と人々が自明視しているからこそ、人々は禁止を破った際に、全身の痒みや錯乱に襲われることができる、といえるからである。「信じるものは苦しまされる」ことと、「信じるものは救われる」ことは、同じ現象であろう。

「呪術のやり方」あるいは「偽薬の渡し方」

ある社会で雨をふらせるやり方が、子供を養子にするやり方が、死者に敬愛の念を示すやり方が、なぜしかじかであるのかを、その根拠を示すことによって説明しようとしても無駄である。そんな根拠などないのだから。ただその社会では人々はしかじかのやり方で雨を降らそうとし、しかじかのやり方で子供を養子にし、しかじかのやり方で死者に敬意を示す、などなどと記述することができるだけである(浜本 2001:91)。

フレーザーは類似や隣接性などの観念連合に、呪術(儀礼)的行為を産み出す源泉、呪術(儀礼)的行為の原理という位置を与える。こうした捉えかたの下では、儀礼に類似や隣接性などの観念連合の働きが見られることには何の不思議もない。そしてこうした類似や隣接性の関係が呪術(儀礼)的行為を「説明」する。つまり、例えば「雨を降らす」ための行為が、なぜ他ならぬそういう形で行われるのかは、類似の関係などによって説明がつくのである。しかし、その瞬間、すべての呪術(儀礼)行為は「誤謬」になる。それは例えば、それが降雨に似ているから雨を降らせることができるのだ、などといった誤った理論に基づいた行為になるからである。似ているという事実にはもちろん、雨を降らせる力などない(浜本 2001:97)。

↑確かに、「似ているという事実にはもちろん、雨を降らせる力などない」。

しかし、いざ雨が降ったとき、降雨に酷似した呪術を行ったからこそ当事者たちは、自分たちの呪術こそが雨をもたらしたと、リアルに感じることができるのではないか? すなわち、「似ているという事実」こそが、当事者たちが自らの呪術に入り込めることを、可能にしているのではないだろうか? 

「似ていること」は、「入り込む」ために必須の要素といえないだろうか?

呪術のやり方が降雨に似ているからこそ、いざ雨が降ったときに人々は、呪術によって降雨が実現したと確信できるのではないだろうか? 呪術のやり方が降雨に似ているからこそ、雨が降ったときに彼らは、自分たちの呪術の効果を真に受けることができるのではないか? 

「三回回ってワンと吼える」というやり方で降雨の呪術を行うよりも、降雨に似たやり方で降雨の呪術を行ったほうが、よりその呪術の効果を当事者は確信しやすいのではないか?(←どちらのやり方による呪術がより人々を引き込みやすいか・どちらがより人々を魅了するのか、一度ちゃんと実験して調べてみたいものだ。)

呪術が一つの「物語生成装置」として、隠喩や換喩、種々の象徴的表現を援用していることには立派な理由がある。ルイスが主張するように、こうしたものが単に観察者にとってだけでなく、当の人々にとっても『象徴的』で注意をとりわけ喚起するものであるとすれば(Lewis op. cit:20)、ちょうど意味あり気な夢や思いがけない出来事が、我々の経験に自然発生的な物語の網を投げかけがちであるように、そうした表現は物語を喚起するのに本来適しているのである。そもそも象徴的な、あるいは比喩的な表現は、我々が生きる通常の文脈から、我々が普段は生きることのない一つの可能な世界へと我々をいざなうものなのだ(浜本 1985)

象徴的表現の援用。つまり、「呪術のやり方」に象徴的な側面が含まれているからこそ、その呪術によって引き起こされようとしているところの出来事がいざ生じた際に人々は、彼らが行った呪術に、実際的な効果を認めることが、可能になっているのではないだろうか?

柿本人麿を祭る火事除けの御利益があるという有り難い神社がある。しかし人麿が「火とまる」と類似しているから、この類似が理由で彼を祀ると火事よけになるのだと明かされてしまえば、すべては突然ばかばかしさのなかに解体してしまう。有縁性はせいぜい密かにその網を張り巡らしておけばよいのであって、けっして根拠の地位を堂々と主張できるようなものではないのである。(浜本 2001:123)

↑「柿本人麿を祭ること」は「火事よけ」を引き起こす。「柿本人麿を祭ること」によって、「火事よけ」が実現することが、ここでは期待されている。なぜ、このような呪術が存在するのだろうか? なぜ、「火事よけ」の実現は、「柿本人麿を祭ること」によって達成されようとしているのだろうか? この問いに対する答えは、「人麿が「火とまる」と類似しているから」ではないか? 

「すべては突然ばかばかしさのなかに解体する」ことはないのではないか? 「人麿が「火とまる」と類似しているから」こそ、「柿本人麿を祭ること」が「火事よけ」を引き起こすということに、人々はリアリティ(=当たり前さ、疑えなさ)を感じるのではないか? 「象徴的な、あるいは比喩的な表現」は、人々「が生きる通常の文脈から、我々が普段は生きることのない一つの可能な世界へと」人々を、しっかりといざなっていくのではないか?

このことを証明するための実験を行ってみたくて仕方がない。例えば、武田鉄矢を祭った神社と、柿本人麿を祭った神社を用意し、「どちらがよりよく「火事よけ」を成し遂げると思いますか?」と、被験者の皆さんにアンケートあるいは聞き取り調査を行えばいいだろうか?*2

偽薬が実薬に似ていることについて

偽薬は、それが実薬に似ているからこそ、偽薬を飲んだ病者の病を癒してしまうと考えられる。

しかし本当にそうだろうか? 「似ていること」をことさら重視するのは危険かもしれない。なぜなら、医師から偽薬を渡される病者の多くは、実薬を目にしたことがないかもしれないからである。

実薬というものの形状が一切病者に知らされていないならば、偽薬が発揮する治療効果を、「偽薬が実薬に似ていること」に求めることはできないだろう。なぜなら病者は、医師から手渡された偽薬が、実薬そっくりであることを確信するための手がかりを最初から持っていないからである。「似ていること」に重きをおくのは、やめたほうがいいかもしれない。

しかし、病者は実薬を実際に見ることはできないにしても、「実薬とはどんなものであるのか」という実薬に関するイメージを持っているかもしれない。それならば医師は、そのイメージに合致した偽薬を処方すればよいことになる。つまりここで、「似ていること」は、再び重要な要因として捉え返される。

もしかしたら、より重要な問題は、偽薬を実薬に似せることではなく、どうして病者は、実薬をある特定の形状を備えたものとしてそもそも想像しているのか?ということなのかもしれない。この想像はどのようにして可能になっているのか?

治療者にとっては、病者が抱く「なにをどうすれば病は治るのか」ということに対するイメージを、いち早く把握できたほうが望ましいだろう。そうすれば、どのようなやり方あるいは偽薬を治療者は用いればよいのかがはっきりする。例えば、「病は体内に入り込んだ悪霊によって引き起こされるもの」と自明視している人に対して最も有効な治療のやり方は、「体内に潜む悪霊を取り出す」というやり方であろう。それしかない。このやり方を実演してみせることが、病者に対する最高の治療になる。人類学者にしてみれば騙しているとしか思えないやり方であっても、病者が抱く「ほんとうの治療」と合致したそれは、病者の病を癒すことになる。病者の抱く「ほんもの」を模倣した「にせもの」の治療法は、病者にとっては「ほんもの」にしか見えない。病は確かに治る。医師による偽薬は効果を発揮し、呪術師ケサリードによる「他人を騙しているとしか思えない」治療も、功を奏す。

ところで、治療の現場において偽薬が実薬に「似ていること」が重要な要因になるためには、実薬つまり「ほんもの」がどういうものなのかに対するイメージが、先に構築されていることが必要といえそうだ。

「どうすれば、実薬なるものの強固なイメージを、偽薬を処方する前に、病者に持たせることができるのだろうか?」という問いを立てるのもいいかもしれない。この問いをさらに一般化すると、「「なにをどうすれば病は治るのか」ということに対するイメージを、病者にあらかじめ持たせることは、どのようにして可能か?」という問いになる。

偽薬の効果を高める因子とは?

偽薬の効果を高める因子としては、つぎのようなものが想定できる。

  1. 病者による「医師(あるいは医学全般)」に対する信頼度
  2. 病者による「(偽薬であるところの)実薬の効果」に対する信頼度

とここまで想像力を逞しくして書いてきたけれど、実際に医者はどのようにして偽薬を病者に手渡しているのか私は知らない。知りたい。新薬開発の第三相試験の現場を私は知りたい。

「偽薬を処方する医師=呪術師」説

偽薬を病者に処方する医師は、呪術師として記述しても支障ないように思える。なぜなら呪術師とは、観察者にとって「非合理的としか思えない手段」を用いて、なんらかの目的を成し遂げんとする人のことを指すからである*3。そのため、私にとって偽薬を処方する医師は、呪術師ケサリードと全く同じ存在である*4

新薬開発第三相試験の現場における「偽薬」の渡され方

新薬開発における第三相試験では、二重盲検法が採られることが多い。二重盲検法においては、どの薬剤が実薬なのか偽薬なのかが、被験者である患者だけでなく、実験者である医師にも隠蔽される。また、試験に協力してくれる患者には、実薬あるいは偽薬のいずれかが投与されることが、あらかじめ同意されている。つまり、医師ないし医療関係者から処方される物質が、実薬か偽薬なのかが一切不明のまま、患者は、手渡された薬剤を一定期間服用するのである。

偽薬を処方するにあたり、医者は特別なことを全く行わない。彼らの行うことは、「はい。今日の分です。」と、患者に薬剤を手渡すことのみである。医者は彼らが患者に処方する薬剤を、ことさら実薬にみせかけたりなどはしない。医者は薬剤を、患者にただ渡すのみである。

医者は、自分が手渡している薬剤が、実薬なのか偽薬なのか分からない。患者も同様に、自分に処方されている薬剤が、実薬か偽薬なのか分からない。患者に処方された薬剤が、実薬か偽薬かが判明するのは、キーオープン後である*5

このような状況において、偽薬は、治療効果を発揮する。

偽薬を実薬にみせかけるような言動を、医者から観察することはできない。「偽薬を実薬に見せかける工夫」は、全く必要ないといえる。偽薬が効果を発揮する契機は、医者の言動にではなく、完全に患者の側に存在していると考えたほうがよさそうである。

次のような問いを立てることが許されるかもしれない。

集団によって、偽薬の効きやすさに違いはあるのであろうか? 「偽薬の効きやすい患者」と「偽薬の効きにくい患者」を、偽薬のみを投与された患者集団から、なんとかして特定し、この二つの集団に、なんらかの差異を確認することは可能だろうか?

まずは、さまざまな因子を想定し、偽薬群をそれらに沿って層別解析するべきであろう。偽薬の効果の度合いに影響を与える因子としては、「性別」*6「年齢」「人種」*7「居住地域」「科学に対する信頼の有無」*8「信仰している宗教の有無」*9「信仰している特定の宗教」「国籍」「食生活」「どのような物体を実薬としてイメージしているのか」などの因子が、頭に浮かぶ。

他に因子は想定できないだろうか? 

こんな質問されたらどう答えればいいのだろう?

呪術を語る人類学者たちは、現地の人々の営みを一瞥するなり、それが非科学的であり非合理的でありオカルトであることを瞬時に確信する。そして学会などのレジュメや論文に、「現地の人の言動は非合理的であるように思える」と記述する。そのため、次のような質問をたびたび受けることがある。

「非合理と合理をそもそもあなたはどうして区別することができるのですか? 現地の人の営みを「非合理的なもの」としてあなたはどのようにして判断しているのですか? 現地の人々の語りや実践を、あなたは最初から非合理だと決め付けて話を進めていませんか?」

呪術を研究する人類学者がたびたび受けてしまう上記のような質問に対して、どのように答えることができるだろうか?

  1. すいません。最初から「現地の人の言動」を非合理であるとして決め付けておりました。反証可能性を備えているかどうか*10について注目し、科学的知識に基づいて厳密に科学的実験と科学的推測を行ったうえで、現地の人々の営みが非合理的かどうかを、これからは判断したいと思います*11
  2. 反証可能性を私は全く考慮しておりません。私は自分に違和感を感じさせるような「現地の人の言動」について、非合理という言葉を使っているだけです*12
  3. どのような「現地の人の言動」が呪術と呼ばれ、そして、非合理とされているのか。このことを、呪術に関する先行研究や周囲の研究者仲間から学んだうえで、ある特定の「現地の人の言動」が非合理的かどうかを私は判断しています。最初から「現地の人の言動」を非合理として決め付けているのではなく、どのような「現地の人の言動」が非合理と呼びうるのかについて、私は先行研究や研究仲間から学び、その知識を生かすことによって、「現地の人の言動」が非合理的かどうかを判断しています*13
  4. *14が「そんな質問には答えるな。答えると災いがふりかかる。」と私に言っているので、ノーコメントです*15

電磁波─未知なるものだから怖いのか? それとも「科学」の領域における「未知なるもの」だから怖いのか?

以下、なんとなくさっき思いついたフィクションを記す。

携帯の電磁波って人体に悪影響を及ぼすらしいよ。

こんな話を耳にして、ちょっと私は不安になった。この話は雑誌でも目にすることがある。電磁波という目に見えない何かが携帯から放射され、それが自分の体、特に頭を、徐々に徐々に蝕んでいく…。このようなイメージに時折私はとらわれる。

でもこの話は本当なんだろうか? 本当に携帯の電磁波は人体に悪影響を及ぼすのだろうか? こんなに多くの人が普通に使っている携帯に、そんな危険が本当に含まれているのだろうか? 

ついつい不安になった私は、近くのド○モショップで聞いてみた。

「携帯の電磁波って身体に害を及ぼすんですか?」

ショップの店員は笑顔で答えた。

「人体に悪影響を及ぼすほどの電磁波は出ていませんので、安心してお使いいただけますよ。」

どうやら、携帯から出ている電磁波は、人体に有害なほどのそれではないらしい。ド○モショップの店員による説明に、私は安堵した。携帯の電磁波では人体に悪影響は出ない。このことは科学的に証明されている。ならばきっと大丈夫。携帯は安全だ。本当は最初から分かっていた。携帯は安全だと最初から分かっていた。


だがしかし…。

科学的な手続きを経た上で下されたという「携帯は安全だ」というお墨付きを、私は時々疑ってしまう。本当だろうか?と疑ってしまう。携帯の電磁波に対して、私は時折恐怖する。

「携帯の電磁波を心配するなんてバカだなー。そんなの迷信だって。絶対心配ないって。」とおっしゃるそこのあなた。なぜあなたは「携帯の電磁波は人畜無害だ」と即断できるのか? 科学的に証明されている?さっきのド○モのページ見ただろう? あのう…。「ド○モでは、電磁波照射の強さ等の測定法を研究開発すると共に、総務省の提示した指針値を遵守して電波利用を行っています。」と、いくら企業サイトに書かれていても、完全には安心できないのです。漠然とした不安は消えない。「携帯が安全なのは分かっている。だがしかし…」と恐怖してしまうのです。

おそらく、私自身に、電磁波に関する知識が欠けているから、私は電磁波を恐れるのだろう。測定器を通して電磁波を科学的に測定したり、専用の機器を使って電磁波を操作したりすることによって、電磁波を既知のものとして納得して受け入れる作業が、私には必要なのだろう。未知のものに対しては、どうしても、想像力が暴走してしまう。悪いほうへ悪いほうへと想像力が暴走してしまう*16

それでも携帯を私が使用できているのは、ひとえに、ド○モのサイトにおける「科学的な説明」を信じることができるからであろう。つまり私は、「ド○モ」や「国際非電離放射線防護委員会」といった組織と、それらが依拠する「科学的実験」や「測定」という営みの確かさを信用しているのだ。

とはいえ、そもそも、なんでここまで「ド○モ」や「国際非電離放射線防護委員会」や「科学的実験」や「測定」を私は信用できているのか、まったく説明はできない。

要するに私は、「科学」に捕われているのだ。

もしも私に、「科学的実験」や「測定」に対する信用が欠けていたならば、電磁波に対する悪しき想像力はいっきに爆発し、私は恐怖に苛まれているだろう*17。下記の集団の成員と、私はきっとかみひとえだ。

http://www.pana-wave.com/

この集団の成員は電磁波に完璧にとらわれているようだ。電磁波に時々とらわれる私と、彼らの差はいかほどのものだろう? 条件*18さえそろえば、私もむこうへいってしまいそうだ。

ところで私は、絶対に妖術には、とらわれたりはしない。私には妙な自信がある*19。妖術など迷信だという確信が私にはある。妖術と電磁波は、人に災いをもたらすという点において、非常に似ている。前者は、事故や失業や病気や親族の死といったありとあらゆる不幸を引き起こすとされる。一方後者は、あまりにも強度だと、人体に悪影響をもたらすという。私は電磁者をたまに時折恐れることができるが、妖術にはなぜか恐怖できない。なぜだろう? なぜ私は電磁波にはそこそこ恐怖できるのに、妖術には恐怖できないのか?

それにしても、上記のサイトに掲載されていた「スカラー波についての易しい説明」は強烈だ。このようなイメージは怖い。冗談ぬきで怖い。

あまりにも電磁波を心配していると、「携帯の電磁波が人体に悪影響を及ぼすなんて迷信だ」となぜか最初から確信している人間*20に研究対象にされてしまいそうなので、それはそれで怖い。

反証可能性を備えている仮説は科学的といえる」という仮説には、反証可能性は備わっているだろうか?

めっちゃ書きかけ。しばらく放置。

もちろん、実験や調査といった概念までも、無造作に「科学的(合理的)」フォルダに振り分けられているわけではない。反証可能性という概念が、「科学的(合理的)」フォルダに格納されているわけではない。「科学的(合理的)」フォルダと、「非科学的(非合理的)」フォルダという、二つのフォルダが設置されているという布置自体が、実験や調査や測定といった「手続き」と、反証可能性という「状態」の正当性を保障しているのだ。ためしに問うてみよう。「反証可能性を備えている仮説は科学的といえる」という仮説には、反証可能性は備わっているだろうか? おそらく備わっていない。反証可能性は、物理的な世界つまり「科学と非科学を区分する方法」さえ、問答無用に信じ込まされている。しかし、

「科学」への信頼と電磁波に対する恐怖の同時成立的な関係について

両者は同時成立的な関係にあると書いてみたけれど、あやしい。本当だろうか?

大学卒業直後の3月ごろ、私は京大の吉田寮で、オウム真理教に出入りしている医学部の学生と会ったことがある。「君は何の研究をしているの?」と聞かれた私は、卒論で扱ったサクティに関する話をした。すると彼は、「ああ。それ気功とも言うよね。うんうん分かる分かる。あれ効くよね。」と言ってきた。

オウム内部では、シャクティパットと呼ばれる「重森がたまに行うサクティによる手かざし」によく似た行為が存在していたらしい。

京大医学部の学生といえば、エリート中のエリート。物理、化学、数学のバリバリできる秀才であろう。その医学生に対して私は、「なぜこの人は、サクティあるいは気功の話をまるで本当のことのように話すのだろうか?」と不思議に思い、次のような質問をした。

「やっぱり、なにかが手から出ているんでしょうかね…?」

「うん。あれは体験した人にしか分からないけれど、出ているよ。」

医学生はそう答えると、右手を自分の左腕にかざしてみせた。

嘘を付いているのではない。この人は本気で言っている。うさんくさいサクティの話題に、わざわざ話を合わせているわけではなさそうだ。この人は絶対頭がいいのに、どうしてこうなってしまったんだろう? 

このような疑問が頭にわいたとき、近くに座っていた2人の京大生が、話に割り込んできた。語気荒く、妙にいらいらした口調で。

「○○。なんなんだよそれ。気功? ちゃんと説明してみろ。それは一体なんなんだ? なにかが出ているのか? 」

「うん。出ているよ。説明するとなると、別の次元についてまずは話をしなければならないけれど…。最初から断っておくと、この次元は説明することが難しい。体験してみなければ分からない。」

「次元って何だ? お前は何を言っているのか俺は分からない。ちゃんと説明しろ。」

「それじゃあ。すこし、思考実験してみよう。」

「思考と実験という言葉をわざわざ連ねて言う必要はないんじゃない?」

「気功のことはどうでもいい。○○! お前はなぜ△△君をサティアンに連れて行ったんだ? 俺は反対だったのに!」

「いや。あれは、△△が行ってみたいって言っていたから連れて行っただけだよ…。」

「なんで連れて行く?オウムは危険じゃないのか?」

いっきに、まわりの京大生がオウムの医学生に立て続けに質問を浴びせてきたので、私はあっけにとられていた。京大生は議論好きなのだなあという思いと、なんでこの医学生は気功とかサクティとかいうのにまんまとはまっているんだろう?という疑問を持ちつつ、喧々諤々と展開される京大生同士の議論を私は眺めていた。

で、何が言いたいかと言うと、私は、「「科学」への信頼と電磁波に対する恐怖は同時成立的な関係にあるのではないか」と書いていたが、この問いは、不適切ではないかということだ。

なぜなら、上記のエピソードにおける医学生は、学校教育を通して、気功やサクティについて知ることはないと考えられるからである。

私は、電磁波を恐れる人間は、高校の教科書などを通して「科学」の領域のものとして電磁波というものの存在を知ってしまったために、電磁波を恐れることができるようになったのではないかと予測した。

しかし、この京大医学部の学生は、気功やサクティといったものを、おそらくは、「科学」の領域のものとしては学んでいないだろう。ということは、「科学」への信頼と電磁波に対する恐怖は同時成立的な関係にはないということにならないだろうか? なぜなら、医学生は、高校の教科書には載っていないだろう気功やサクティといったものを、真に受けているのだから。

それとも、オウムのサティアンでは、「科学」というふれこみで、気功やサクティが語られたということだろうか? そしてそれを医学生はあくまでも「科学」として学習した…。

うーん。やっぱ、「科学」という言葉と絡めて考えるのは、不毛な気がしてきた。医学生も、電磁波を恐れる青年も、気功やサクティや電磁波が、「科学」の領域のものだからという理由で、それらを真に受けているのではなく、単に、人の話を信じやすいめちゃくちゃ素直な人間か、もしくは、ずば抜けた説得力を備えた説明を誰かにされたかのどちらかの理由により、それらを真に受ける気になったのではないだろうか? 

科学という言葉は、考察には余計なものかもしれない。「「科学」への信頼」がなくとも、人は容易に気功やサクティや電磁波を真に受けることができるようになれるのではないか?


それにしても、あの医学部の学生は私にとって不思議な存在だった。

しかし真に不思議なのは私のほうではないか? どうして重森は彼のように気功やサクティの話題に入り込めないのだろう? 根拠が示せないからという理由で、重森はこれらの存在を真に受けることができないのだろうか?*21 入り込んでいる人について研究するよりも、入り込んでいない人について研究したほうが、何か分かるかもしれない。

なぜ私は、妖術やサクティを真に受けないのか? なぜ携帯の電磁波に恐怖しない人がいるのか? 

サイコドクターによる気になる報告

1、電波体験

狂気のイメージとして、電波はもうすっかり有名ですね。大槻ケンヂの小説とか、葉っぱのゲームとかで、電波といえばほとんど精神病のトレードマークとして扱われているけど、確かに実際「電波が聞こえる」とか「電波で操られている」と訴える患者はけっこういるものである。専門用語として「電波体験」という言葉もあるくらいだ。(中略)
さてこの「電波」という表現、いつごろから出現したのかというと、もちろんラジオやテレビが一般的になったころ、ということになるはず。これについては、精神神経学雑誌1978年12月号に、松沢病院の藤森英之先生が書いた「精神分裂病における妄想主題の時代的変遷について」という論文が載っている。この論文、明治、大正、昭和のそれぞれの時代に、松沢病院とその前身である巣鴨病院に入院した2435人の分裂病患者のカルテを調べ、妄想の主題について調べたという労作。
この論文によれば、「電波」の妄想は明治大正には存在せず、出現したのは昭和初期のこと。「電波」のかわりに明治大正期に多かった表現は「電気」。まあ、明治期にはこういう系統の妄想よりも「狐憑き」みたいな憑依妄想が多かったのだけれど。時代が下るにつれて、妄想の内容もどんどん多様化していって、昭和36-40年には、「テレビ」「光線」「X線」「電子頭脳」「超音波」「空中放電」などが登場しているとのこと。テクノロジーの進歩を露骨に反映してるわけだ。
藤森先生の分析によれば、狐の霊力も電波などのテクノロジーも、人間の眼に見えないものとしての機能を担っているけれど、狐は「聖の世界」からの使者であるのに対し、現代の機械装置はその背後に「俗」の人間がつねに存在している、とのこと。
だけど、私はこの分析には反対。機械から俗をイメージするってのは、あまりにも一面的なんじゃないか。現代のテクノロジーは自律していて必ずしも背後の人間を必要とはしていない。「電波」にしても、人間が送信したというより、目に見えない世界からの通信という意味合いが強いはずだ。
患者たちは、テクノロジーの中に聖なる世界を見ているんじゃないだろうか。

↑患者たちは、身の回りにある利用可能な言説リソースを、自らの切羽詰った深刻な状況を説明するために、手当たりしだいに使用しているように思える。患者たちにとって、彼らが手にした言説リソースが「科学的といえるかどうか」ということはどうでもよく*22、患者たちは、テレビやラジオや雑誌や身近な他者が発信源であるところの、アクセス可能な言説を採用し、それらをパッチワーク的につなぎあわせることによって、彼ら自身が今置かれている過酷な状況を説明しているのではないか? 身の回りにある「ありあわせのもの」を貪欲に用い、当面必要とされる物語をこさえる患者たちの実践を、私は思わず「ブリコラージュ的」と呼びたくなる。

ところで私は、自分の状況を、「電波」や「X線」という語彙を用いて説明する気にはなれない。そうすることには非常に抵抗がある。どうしてだろうか? 私が妙に懐疑的だからであろうか? 懐疑的といっても、いちいちすべてを疑っているのではなく、ある偏った仕方で特定の対象について懐疑的にならざるをえないと呼びうるような、この私の傾向が、「電波」や「X線」という語彙を用いて自分の状況を説明することを、ためらわせているような気がする…。私は、ある、型にはまった疑い方の、とりこになってしまっていると言うべきか。


2、フォリ・ア・ドゥ

妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。(中略)
AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。(中略)
実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。
ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。
私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。
これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。

↑感染する人と感染しない人の差はどのようにして生じるのか? 

科学者の話を受け入れることができることが、むしろ説明されるべき不思議な現象ではないか?

普通に日常生活を送っているならば、太陽は東から昇り、西に沈んでいるように見える。まるで、太陽が地球の周りを回っているように見える。このことをわざわざ疑うことは、困難ではないだろうか? 

確かに特殊な測定装置に頼って厳密に考えれば、太陽が地球の周りを回っているという考え方は、うさんくさく思えてくる。望遠鏡といった測定装置の誕生とそれらの使用により、はじめて上記のような天動説は否定されることができる。この否定を行う者が、科学者と呼ばれる人々である。科学者は、特殊な測定装置を用いることによって、はじめて天動説を否定することができた。

しかし、科学者ではない一般の人々は、科学者が明らかにしたことを、理解すること*23ができないのが通常ではないか? 一般の人々は、望遠鏡を持っているわけでもなく、それがどういうものなのかもよく知らず、それでいて太陽は相変わらず東から昇り、西に沈んでいくのだから。

科学者の話を受け入れることが、むしろ困難なことではないだろうか?

もしも、科学者のいうことを理解できる一般の人がいるのならば、彼は、科学者と同じような仕方では「天動説の誤り」を理解していないと考えられる。両者においては、「天動説の誤り」に関するリアルさ(当たり前さ、疑えなさ)の性質が、異なっているのではないか? 科学者にとっての「天動説の誤り」に関するリアルさは、彼らが実際に使用した測定装置や実験にその多くを負っているだろう。一方、一般人にとっての「天動説の誤り」に関するリアルさは、測定装置や実験にではなく、科学と科学者と「科学者による語りを伝達するメディア」に対する信頼に多くを負っているのではないだろうか?

科学者ではない一般の人が、科学者による「天動説の誤り」に関する話を理解することができるのは、ひとえに、「一般の人が抱く科学と科学者と「科学者による語りを伝達するメディア」に対する無根拠的な信頼」による。このことを立証することは容易だと思われる。ためしに、「太陽は地球の周りを回っていると思いますか?」と周囲の一般の人に聞いてみたらよい。天動説を否定する一般の人は、どうして天動説が誤っているのか説明することができないに違いない。「太陽が地球の周りを回っているんじゃないよ。バカだなー。」と一般の人*24はすぐさま答えるだろう。しかし、「それではその理由を説明してくださいませんか?」と質問すると、多くの一般の人は、口ごもるであろう。そして苦し紛れに必ずこう言うだろう。「とにかくそうなのだ。実際そうなのだ。偉い人がそう言っているんだ。頭の良い科学者がそう言っているんだ。調べてみれば分かる。これは当たり前のことだ。一般常識だ。中学校の理科の教科書に載っていることだ。」 一般の人は、「太陽は地球の周りを回ってはいない。」という結論については雄弁に語る。しかし、その理由を積極的に語ることはないと予想できる。これでは、「「太陽は地球の周りを回ってはいない。」という科学者による主張を、盲目的に無批判的に表面的に受け入れている」と言われても仕方がないだろう*25

一般の人にとって、科学者が書いた教科書は、聖書と同じなのである。

「物理的な世界の本当のありよう」というものを明らかにすることは可能だろう。そして多くの一般人は、「物理的な世界の本当のありよう」を、科学者が書いた教科書を通して、知ってはいる。しかし、多くの一般人は、科学者の書いたことを、妄信しているだけと考えられる。科学者と一般の人とでは、「物理的な世界の本当のありよう」に対する理解の仕方・理解のレベル・理解の深さが明らかに異なっている。

しかし、それでも、上記のような多くの一般人は、「科学的」と称せられる。その結論を裏付けるための詳細な証明手順を欠いたまま、「太陽は地球の周りを回っていない」という結論のみを繰り返すしか能がないにもかかわらず、彼らは自分自身を「科学的だ」と思い込んでいる。彼らは、天動説を語る他人に会ったときに、「彼らは非科学的でその主張は非合理だ」と捉える*26

なんか間違ってないか?

って、上記のような話題は、既にフッサールが書いていたものと思われる。フッサールの著書を読んだことはあるが、私はフッサールを理解できていない。ちゃんと読もうと思う。

昔、やはり修士一年ぐらいのころ、とある研究会にて、とある物理学者の発表に居合わせた。この物理学者は、いきなりホワイトボードに熱力学第二法則を証明するための数式を全部書き、怒鳴るように次のように述べた。

「どうだ! この数式はリアルか? 分かるということは、リアルであるということだ! この数式と我々の生活感覚との乖離、このことを問題にしたのがフッサールだろう?」

その当時の私は彼の言うことが全く理解できなかった。上に引用した彼の発言さえ、ちゃんと引用できているのか不安だ。いや。きっと間違っている。あの物理学者は、上記のようなことを言っていない。もっと、複雑で新規で面白いことを述べたはずだ*27

彼が言っていることは、私にとって、理解することの困難な内容のものであった。しかし、妙な魅力に満ちていた。科学とリアリティについて、彼は確かに鋭いことを言った。このことに対する確信だけは私にはあった。

この出来事がきっかけになり、私は複雑系に初めて興味をもち、フッサールを読まなきゃと初めてあせったのであった。しかし、今もって私は複雑系についてもフッサールについても本格的に取り組めていない。

*1:「○○がある」「○○が存在する」「○○の実在を確認するor特定する」といった言い回しを、我々は、これらが「物理的に観測可能なモノに関する言い回しなのかどうか」に注意して、慎重に受け取るべきだろう。しかし、我々はおそらく、物理的に観測可能ではないモノに関しても、いつのまにかそれを、物理的に観測可能なモノとして受け入れてはいないだろうか? そしてこのことを避けることは、人間が比喩の体系に依拠して思考をする生き物である以上、不可能ではないだろうか?

*2:武田鉄也の熱烈なファンならば、迷わず武田鉄矢を祭った神社を選ぶかもしれない。つまり、かなりバイアスがかかると思われるので、この実験は再考の余地あり。

*3:現地の人にとっては、観察者が呪術師として描く人物は、どのような人間として映っているのだろう? この人物は、現地の人にとっても、「非合理的なことをする胡散臭い人間」なのだろうか? それとも「なんからの知識に長けた技術者」として見られているのだろうか?

*4:■非合理という言葉を本当はあまり使いたくない。この言葉を使用したならば、非合理と合理を区別する方法を、問われてしまうからだ。■偽薬を処方する医師は実際に病者の病を癒す。同様に、呪術師ケサリードも実際に病者の病を癒す。つまり彼らの治療手段は、実際に病を治すことに成功している。これのどこが非合理的なのだろう? むしろ、病者の病を首尾よく治しているという点において、彼らの治療行為は至極合理的といえる。彼らの治療手段は、目的に合致した行為である。■ただし、彼らの行為はなぜか私に違和感を感じさせる。彼らの行為を目の当たりにした私は、思わず立ち止まらざるを得なくなる。そんなとき、ついつい私は、非合理という言葉に頼ってしまうのだ。「彼らの行為は一見すると非合理に思える」と述べることにより、自らの違和感を表明してしまうのだ。■非合理という言葉は、ある特定の手段が「観察者にとっては受け入れがたい」ということや、「違和感を感じさせる」ということを言い表す際に、使用される言葉ではないだろうか? 私は、いわゆる科学に精通しているわけではない。自らの科学的知識に基づいて、科学的実験や科学的推論を厳密に行ったうえで、現地の人の行為を非合理であると判断しているわけではない。ただただ、自分が感じた違和を表明するためだけに、非合理という言葉を使用している。合理と非合理を区別する方法を自信をもって説明することができないくせに、非合理的という言葉を使用している私は、問題ありと言わざるをえない。だから非合理という言葉を、私は極力使わないようにしたい。「非合理的な」と言いたくなったときには、これを、「違和感を感じさせる」と、言い換えるようにしたい。

*5:キーオープンとは、「薬剤の割り付け」を明らかにすることである。「薬剤の割り付け」の示された書類は、封筒に入った形で、治療試験期間中は金庫などの場所に厳重に保管されており、治療試験終了後に初めて公開される。

*6:これ自体非常にあやしい概念だ。しかし社会的に認知された概念であるため、この区別を利用することはけっして無駄とはいえないはず。

*7:これも非常にあやしい概念だ。

*8:どうやって「科学に対する信頼の有無」を調べることができるのだろう? 「あなたは科学を信じますか?」とでも聞けばいいのだろうか? そもそも科学って何?

*9:科学と同様、宗教という言葉も定義が必要だ。科学も宗教も、どちらも大雑把すぎて、扱いに困る概念だ。とても使い勝手がよく、非常に利用価値の高い言葉なのだけれど、その内実は謎に包まれている。

*10:なんでこのことが科学か非科学かを区別する基準になっているのか私は分からないのであるが。

*11:ある意味潔くて格好いい。「現地の人の言動」が非合理かどうか、どんどん実験して判断してくれと思う。

*12:非合理という言葉を、本来の非合理という意味とは異なるものとして言い換えることにより、「合理/非合理の区別をどのようにして行うのか?」という面倒くさそうな問いから逃げることができている。卑怯。

*13:ブーイングされる可能性大。「要するに、先輩研究者達が非合理として捉えるような「現地の人の言動」をフィールドで見かけた際、自分も先達の真似をして、それらを非合理だと捉えていますってことか?お前はそれでも研究者か!先行研究や周囲の研究仲間をもっと疑え!」と批判される。もしくは、完全なる沈黙で歓迎される。なぜなら皆もそうだから。

*14:守護霊や占い師でも可。

*15:質問者はびびって黙る。あるいはあきれて黙る。もしくは怒り出す。「あなたは正気か?ふざけないでいただきたい!」という批判を引き出せたらしめたもの。「なぜあなたは私の返答を「ふざけている」と判断するのか?あなたは私の発言を非合理的と捉えているのではないですか?あなたこそ最初から他人の行為を非合理として決め付けていませんか?合理と非合理をあなたはどうやって区別しているのですか?」と逆に質問し、会場を煙に巻く。しかし、その後研究者仲間からは「あいつはいっちまっている」「あいつは狂っている」「あいつは人と話ができない人間だ」と嫌われる。おそらく研究者生命終了。でも、結構素敵かもしれない。

*16:いや。未知のものではなく、電磁波が「科学」の領域に属すものであり、あまつさえそれについて私が実に中途半端な知識しか持っていないことが、私を恐怖に陥れているのではないか? 高校の物理の教科書において、電磁波という言葉を目にしたことがあるような気がする。教科書に書かれていることは、一応「科学的に立証されたこと」とされる。つまり私は、教科書を通して、電磁波なるものが「科学」の領域に属すものであることを学び、それがでたらめな存在ではないということを、すっかり信じ込んでしまった。だからこそ、「電磁波は人体に悪影響を及ぼす」という話を私は無視できなくなるのだ。ついつい耳を傾けてしまうのだ。電磁波を私は、それが「科学」の領域に属するものだからこそ恐れるのだ。「科学」の埒外のものであるのなら、最初から私は、電磁波になど見向きもしない。たとえば、妖術を無視するように、私は電磁波とその有害性に関する話を、完全に無視するだろう。

*17:おそらく、「「科学的実験」や「測定」に対する信仰」と、「電磁波に対する信仰とそれに起因した恐怖」は、セットになっていると考えられる。ふたつは同時に成立しているのではないか? もしも私に「科学」に対する信仰がないならば、おそらく私は、電磁波を全く恐れないのではないか? あるいは、いっきに強烈に電磁波を恐れるのではないか? つまり、「科学」への信仰が私にかけていた場合、中間がなく、全面的に恐怖するか全く無視するかの、両極端な反応を私は電磁波に対して示すのではないだろうか?

*18:どんな条件だろう?

*19:この自信はどこからくるのか?

*20:この人物は自分のことを「人類学者」と名乗ったりする。なんとなくいけすかない鼻持ちならない野郎だ。まるでこいつの頭の中には、「科学的(合理的)」フォルダと、「非科学的(非合理的)」フォルダという、二つのフォルダが設置されていて、実験や調査を経ないまま、妖術や電磁波や宇宙人や幽霊といった概念は「非科学的(非合理的)」フォルダに振り分けられているようだ。人類学者が、このようなフォルダ構造の頭のままで世界を眺め、けっして実験をすることなしに、「あれは科学的なもの。あれは非科学的なもの」というふうに、さまざまな事柄を自動的に分類しており、そのこと自体に何の疑問も持たないならば、人類学者とは、なんて思い込みの激しい人間なのだろうか。まるで重森のようだ。

*21:「自らを裏付けする根拠を欠いた仮説は受け入れきれない」という、ごくごく当たり前のように研究者が身に付けている考え方・態度・スタンス。これ自体が、とても奇妙なものではないだろうか? すべての仮説・言説は、自らを裏付けする根拠を絶対に備えているべきと考えるほうが、無茶なのではないか? 根拠は?と研究者はすぐに問い返すが、根拠っていったい何だ? すべての主張が根拠とやらを必ず備えていなければならない根拠を、まずはお前が述べてみやがれ。

*22:我々は日々の生活において、目の前に提示された言説についてそれが「科学的といえるかどうか」と積極的に思案することは滅多になく、目の前に提示された言説を何の検閲も課さずに、受け入れることがほとんどではないだろうか? 目の前に提示された言説が「科学的かどうか」と思案することは、むしろ稀なことであり、特殊な状況(←どんな状況だ?)においてはじめて行われることではないだろうか? つまり、疑うということは珍しいことであり、多くの人は日々の生活において、そんなに懐疑的ではないように思える。例えば、ほとんどの人間は、占いや厄年などに関する言説をさしたる抵抗もなく受け入れたりする。

*23:=受け入れること。真に受けること。

*24:高校受験を経験したことのある日本国民

*25:重森がまさにそうである。重森は「地球は太陽の周りを回っており、さらに地球は自転もしている。太陽が地球の周りを回っているのではない」と、まことしやかに述べることができる。しかしそのわりには、このことを説得的に説明することはできない。証明の仕方・証明の手順を完全に忘れており、結論だけが頭に残っている状態といえる。しかしたとえ、証明の仕方・証明の手順とやらを、中学理科の教科書を読むことにより、再び自ら流暢に説明することができるようになったとしても、相変わらず重森は、科学者と同じ仕方・同じ強度で「物理的な世界の本当のありよう」を理解しているとは言い難い。この場合の重森は、理解している、というよりも、しったかぶりしていると言ったほうが適切であろう。重森は「分かった」という気がしていない。腑に落ちていない。どこか遠い世界の出来事のように、何の臨場感もなくただただ機械的に、教科書から暗記した「地動説」の証明に関する文章を忠実になぞってみせることしか、重森にはできないのではないか? はたしてこんな状態で、「分かっている」といえるのか?

*26:さらに、天動説を語る人々を、この自称「科学的な人物」は、研究対象にまでしてしまうのかもしれない。「どうして彼らは天動説を信じるのか?」という問いを立てて、この自称「科学的な人物」は、彼らとともに生活したりするのかもしれない。

*27:例えば、「マックスウェルの悪魔」をどう退治するのかということについてもその研究者は話していた。もちろん、私はその内容を全く理解できなかった。「マックスウェルの悪魔」って何だ?と思っていただけであった。