人類学バトルの感想

人類学バトルの場で交わされた議論について、いまさらながら感想を述べる。

議論の間、私がずっと疑問に思っていたこと

「人類学は役に立つべきか?」と題されたこのシンポジウムにおいて、終始私が気になっていたのは、「何を根拠に挙げれば「人類学(的研究)は役に立つ」と主張できるのか?」ということであった。

「人類学(的研究)は役に立つ」という言い回しは、どういうことが実現されたときに使用できる言い回しなのだろうか? 

このことが事前に定義・共有されていないと、その場にいる論者達は、「どういうことが実現されるときに「人類学(的研究)は役に立つ」と言うことができるのか」に関する各自の定義に従って話をしてしまい、議論の収拾がつかなくなってしまうように思う。

ダイナマイトは役に立つか?

分かりやすい例として、ノーベルという研究者が発明したダイナマイトとそれに関する研究を挙げてみる。

はたして、ダイナマイトは、役に立つと言えるだろうか? 

このような問いに対して、次のような回答が予想できる。

  1. YES。ダイナマイトは、戦争における作業効率をあげるために、役に立つ。
  2. YES。ダイナマイトは、鉱山における作業効率をあげるために、役に立つ。
  3. YES。ダイナマイトは、土木工事における作業効率をあげるために、役に立つ。

おそらく、軍関係者と鉱山関係者と土木工事関係者ならば、「ダイナマイトは役に立つ」ということに賛同するだろう。ダイナマイトは、それぞれのアクターが念頭においている目的を、効率よく達成できるからである。

ダイナマイトは、軍関係者にとって、「敵を大量に殺戮する」という「目的」にかなうものであり、鉱山関係者や土木工事関係者にとっては、「岩盤を切り崩す」もしくは「地面や斜面に穴を開ける」という「目的」にかなうものである。

しかし、ダイナマイトは「役に立たない。むしろ迷惑だ」と異議を唱える者もいるだろう。全ての戦争と殺人を否定する人道主義者がそうである。彼らは、「大量殺人を可能ならしめる悪魔の道具」としてダイナマイトを捉え、「ダイナマイトは有害だ!」と主張するであろう。彼らにとってダイナマイトは、「役に立つ」どころか、世の中から消えてほしいものといえる。

また、次のような反応を示す人も勿論いるだろう。

「あのう。ダイナマイトは我々にとって何の役にも立たないのですが…」

たとえば、サトウキビ栽培農家は、ダイナマイトについて上記のようにコメントするであろう。「台風や日照りに負けない強い品種のサトウキビを作り出すこと」「サトウキビの成長速度を可能な限り早めること」「少ない労力でサトウキビの借り入れを行うこと」 これらがサトウキビ栽培農家の関心事である。ダイナマイトは、このような「目的」と照らし合わせた際に、全く役に立ちようがないのである。

結論

達成すべき「目的」として何を設定するか。これを明確にしない限り、論者は好きなように「目的」を設定できてしまう。そして、その「目的」の達成度を、それぞれが信頼を置くところの証拠*1に従って、てんでばらばらに語ってしまう。そして結局、議論の収拾がつかなくなってしまう。

「役に立つ」という言い回しは、どういうことが実現されるときに初めて使用可能な言い回しなのか? このことをまずは、議論すべきだったのではないか?

重森にとっての人類学

ところで、私にとって人類学は役に立つといえるのだろうか?

答えはもちろんYESである。

他人から嫌われていると思い込みやすい私は、「分裂生成」が生じないよう、常に人間関係を相互作用の産物として捉え、状況によってバランスよく、自らの言動を「相補的なもの」にしたり、「対称的なもの」にしたりしている。そうすることにより、人間関係が破滅的なものにならないように努めている。また私は、他人を苦しめてしまわないように、自分が「ダブルバインド」を行使していないかどうかいつもチェックしてもいる。さらに、笑いを生じさせるために、「治療的ダブルバインド」のテクニックを使用したりしている(つもり)。

ベイトソンという人類学者が創り出した知見に私は依拠しすぎているが、人類学は私が日々幸せに生きていくために役立っているといえる(←主観的な印象)。

「本当にそうだろうか? 人類学の知識を駆使している割には、重森の対人関係のありかたは、好ましいものとは言いがたいのではないか?」と疑う方は、重森の友人や、重森を知る人間に、「重森ってどう思う?あいつ嫌な奴っぽくね?」と質問してみたらいい。

おそらく、「重森はいい奴だ。面白い奴だ。」と多くの人は答えると思う。

まさにこれは、人類学のおかげなのです*2

追記 混迷状態こそが「人類学バトル」にふさわしいのではないか論

達成すべき目的として何を設定するか。これを明確にしない限り、論者は好きなように「目的」を設定できてしまう。そして、その「目的」の達成度を、それぞれが信頼を置くところの証拠に従って、てんでばらばらに語ってしまう。そして結局、議論の収拾がつかなくなってしまう。

と私は書いているが、「この結論はいかがなものか?」という疑問がわいた。

「議論の収集がつかなくなること」を私は嘆いているが、「別にそれでいいのではないか?」と思ったのである。

今回のエントリーにおいて私は、達成するべき「目的」が明確に特定されていなかったばかりに、その場にいた様々な論者によって、達成するべき「目的」が乱立させられてしまったことを嘆いている。

乱立とは具体的にはどのような状態のことをいうのか? 例えば、「人類学バトル」の参加者たちは、以下に示すような発言を行い、おのおの好き勝手に「目的」を設定した。

ある論者は「会社で働く一般人が幸せに生きていけるためのテクニックを、人類学は提供できるか?」と問うた(ここでは「会社で働く一般人が幸せに生きていける」という「目的」が設定されている)。

またある者は「新しい枠組みを提出することが人類学の役割だ」と述べた(ここで設定されている「目的」は「新しい考え方を作りだすこと」である)。

そして、「人類学者は役に立つ研究をしているのか? さっきから「役に立つこと」が語られるばかりで、「役に立たないこと」は全く語られないではないか!」とまくしたてる者もいた(この発言のみからでは、この論者によってどのような「目的」が設定されているのかは分からない。しかし、なんらかの「目的」をこの論者も念頭に置いていたと思われる)。

以上が、「人類学バトル」の現場であった。

論者たちはそれぞれ勝手に「目的」を設定し、人類学がその「目的」にどれほど貢献できるのか(あるいはその「目的」に貢献できていないか)について発言を行った。そのため、議論は混迷を深めた。皆が好き勝手に「目的」を想定したうえで語るからである。

そして私は今回のエントリーにおいて、「人類学バトル」における議論が、上記のように収拾つかなくなってしまったことを嘆いた。

しかし、このような混迷状態のどこが悪いのであろうか?

人類学を、たったひとつの「目的」に貢献するものとして語るほうが、嘆くべきことではないだろうか? 

私は、自分のために人類学を学んだ。

自らが抱える「対人恐怖症」あるいは「社会恐怖症」と呼びうる症候を治すために、「呪術・妖術」や「儀礼」や「思い込み」や「リアリティ」に関する人類学の知見を、利用しようとした。

あまり大きな声では言えないが、私は、上記のテーマと関係しない研究には関心がない。「すべての人類学者は、「呪術・妖術」や「儀礼」や「思い込み」や「リアリティ」に関する研究のみを行い、どんどん私に資料を提供してくれ!」と思うほど、他の研究に私は興味がない。「人類学は俺の役に立てばいい」とさえ思っている。

しかし、他の人類学者にとって、このような私の願望は迷惑以外のなにものでもない。

「イルカの追い込み漁」に関心を持つ人や、「頼母子講」に関心を持つ人や、「年齢階梯制度」に関心を持つ人や、「レンディーレにおける羊の所有者が自分の羊を他の人の羊と区別する方法」に関心を持つ人もいる。そしてなによりも、彼らが研究を行う上で念頭においている「目的」は、それぞれ異なる。

にもかかわらず、今回のエントリーにおいて私は、人類学の「目的」はたったひとつに限定するべきだと主張していたのだ。もちろん私は、人類学の「目的」を、「対人恐怖に悩む重森くんに救いを与えること」に限定するべきだと主張したわけでもなく、そのように強く主張したいわけでもないが(←恥ずかしくてこんなこと言えない)、結局は、「目的」はひとつに限定するべきであると言わんばかりのエントリーを書いてしまった。

混迷状態こそが、「人類学バトル」にふさわしいのではないか?*3

*1:統計学における有意差。あるいは、「目的」の達成度に関する当事者たちの「主観的な印象・評価」

*2:たとえ、「重森?あんな奴だめだ。頭悪いくせにお高くとまって妙に生意気で大嫌い!」という返答を多くの人からもらったとしても、このことは「人類学が役に立たない」ということをすぐには意味しない。重森による人類学的知識の使い方が、単に下手だった可能性がある。または、「重森?あんな奴だめだ。頭悪いくせにお高くとまって妙に生意気で大嫌い!」と答える人に、何か問題がある可能性もある。ところで、お分かりのように、ここで私は「人に好かれる面白い人と思われること」を至上の「目的」として設定し、この「目的」にどれほど人類学の知見が貢献できたかについて、「他人による証言」と「自分自身の感想」という主観的な証拠を提出することにより、この「目的」への達成度が測れ得ることを、暗に皆に教え込んでいる。この教え込みをどのようにして有利に密かに成し遂げるか。あるいは、もしもこの教え込みがわざわざ教え込みと明示される必要がないほどに、既に皆の間で成り立ってしまっているものであるならば、この教え込みは一体どのようにして成り立ってしまったのか。このようなことが、人類学バトルの場で、最も優先的に議論されるべきことであったと、私は思う。どのような「目的」が最もふさわしい「目的」なのか。そして、なんらかの知識なり活動の、その「目的」への「達成度」はどのようにして評価しうるのか。これらふたつの事柄に対する判断を可能ならしめる暗黙の前提を可視化すること。人類学のウリのひとつが、そのメタ科学的なスタンスであり、自分自身の認識のありかたを常に相対化することであるならば、この作業を避けてはならないと思う。

*3:異なる「目的」のもとで研究を行う人々がいる。この事実があるからこそ、「目的」をひとつに収斂させるべきではない。このように私は述べている。しかし、この説明は意味不明だ。説得力がない。「目的」をひとつに限定することをためらわせるのは、進化主義的な考え方に陥りたくないという私の思いではないだろうか? 想定可能な様々な「目的」のなかから、掲げるのに最もふさわしい「目的」を、ひとつだけ選出しようとする態度。他の様々な「目的」を、その至高の「目的」よりも劣位のものとみなすような思考。これは進化主義的な考え方そのものである。これこそ人類学が最も嫌う思考法のはずである。だから混迷状態のままでいいのだ。「目的」と「目的」を比較し、優劣をつけてはならないのだ(しかし進化主義的な考え方を否定してしまうと、他人の論文の良し悪しを決めることが不可能にならないか? 進化主義的な考え方を否定してしまうと、大学院入試の際に、学生を選別できなくなるのではないか? ある程度の進化主義的思考は必要ではないか? しかしある程度とはどの程度なのか?)。