シャーマン紹介ビジネスを思いついたときに気付いたユタに対する差別意識

会社で昼休みにmsnのページを見ていたら、次のような見出しを発見。

沖縄の霊能者「ユタ」って知ってる?編集部が独占取材!

さっそく見てみると、ユタがどーんと紹介されている。

msnのページは日本中の多くの人が見ていることだろう。そのトップページに「ユタ」の二文字が載っており、そのリンク先にはユタのことがカラフルな写真とともにどーんと載っているのだ。

これで沖縄に観光客が増えないわけがないだろう。

ふと、ビジネスプランを思いついた。

沖縄中のユタを調査し、その得意技や年齢や性別や居住地を把握し、密かに彼らと提携する。そして、本土からの客を彼らに紹介する代わりに、紹介料をユタからいただくのである。ユタに会いたくてもどのようにして会えばいいのか分からない本土の人に、お好みのユタを格安で提供するのである。

イメージとしては、下記のようなヒーラーの一覧を作成し、消費者がネット上で選択できるようにしたい。

http://www.tokyobbs.or.jp/esp_haken/##1

そこそこ儲かるのではないか。

『インターネットにみる今日のシャーマニズム−霊性のネットワーキング−』において、塩月さんが既に報告しているように、「ユタに会いたいのでユタを紹介してほしい」と希望する人間は数多くいる。

そうであるならば、この動きをビジネスに利用しない手はないのではないか。

などと、ここまで考えて、急にいやな気分になってきた。

やはり、抵抗がある。

なんともいえない抵抗を感じる。

この抵抗はいったい何だろうか。

ユタに対して明らかに私は、不信感を持っている。独特の語彙を用いて客を精神的に落ち着かせることができるという点では、彼らは臨床心理士や精神科医と変わらない。むしろ、ロジャースの来談者中心療法を馬鹿のひとつ覚えのようにして駆使するしか脳のない臨床心理士や、客の話を全く聞かず、薬のみを処方するばかりの精神科医よりも、ユタがよっぽど有能な相談相手たりうることを私は知っている(数々の臨床心理士と精神科医とユタに出会ってきた個人的な経験から)。

しかし、私はユタに不信感がある。この不信感は、臨床心理士や精神科医に感じる不信感とは、やや異なる不信感だ。

何度も繰り返して申し訳ないが、ユタのような、シャーマンと呼びうる人たちを前にすると、「自分は騙されているのではないか?」*1という猜疑心がいつも私には芽生えてしまう。

ユタの語りに私はまったく入り込めないからこそ、私はユタに邪悪な意図を勝手に読み込んでしまうのであろう。

しかし、それだけではない。ユタが言及する「霊」や「神」といった存在を真に受けることができないことが、私がユタに不信感を抱く絶対的な原因ではない。

精神科医や臨床心理士の語りに対して、時折胡散臭さを感じながらも私は、精神科医や臨床心理士をどこかで自分と同じ存在として捉えている。どうも私は、彼らがある程度の学歴を持っているがゆえに、全面的に肯定はしないものの、彼らをある程度(「社会人」として?)認めているようなのだ。

すなわち、彼らが自分と同じように頑張って頑張って努力して勉強してきた(と思える)人間だからこそ私は、彼らを自分と同じ世界の住人として、ある程度受け入れる気になっているようなのである。

要するに、ここで表明されているのはユタに対する露骨な差別意識だ。

確かにカミダーリという苦悩の体験を経たのではあろう。しかし、所詮彼らは社会からドロップアウトした負け組だ。食うに困って仕方なく、元手も学歴も資格も一切必要ない、身一つではじめられるユタなどという仕事をしているのだろう。*2

このような偏見が私にはある。

どこかで私はユタを蔑んでいるのだ。下に見ているのだ。努力していない人間*3として卑下しているのだ。

このような偏見があるからであろうか。ユタが過剰にもてはやされたりすると、私は落ち着いていられなくなる。「ユタユタうるせえ。いいものとして持ち上げすぎ。ユタの中には客を困らせる悪質な奴もいるぞ。そういうユタもちゃんと取り上げろ。」と文句を言いたくなってくる。

しかし私は、偏見から自由になりたいと願う人間でもある。

だから、ユタに対して密かに抱いている差別意識からも、自由になりたいと思っている。

しかし、これはどうすれば可能になるのであろうか?

まず私は、「努力しない人間*4は卑下して当然である」という妙なエリート意識(根性主義?)を払拭するべきである。「努力しない人間は死んで当然」という強迫的な信条から自由になるべきである。この完璧主義ともエリート主義(根性主義?)ともいえるような、変に硬直した考え方は、思えば小学生の頃から私の脳に巣食っている。「もしもテストで70点をとってしまったならば、死をもって償うしかない」と思いつめつつ通学していたあの頃の私は、今でも健在だ。

そして、エリート主義(根性主義?)から自由になれたあとでやっと、「霊」や「神」に対する自分自身の懐疑的な眼差しについて、考えてみたほうがよさそうである。

と思いつくまま書いてきたが、私は本当にユタへ差別意識を持っているのであろうか?

書いていて、「これほどまでに自分は邪悪な人間であろうか?私は自分を邪悪な人間として描きすぎるのかもしれない」と思ったりしてきた。

しかし、とりあえず、ユタに対する不信感は確かにあるので、この不信感が何に起因しているのかに関する一考察(語り方のひとつの可能性)として、このエントリーをここに残す。

追記 ところで、どのような人たちをユタというのか?

 これらの事例にあるように、ユタは物事の説明をおこなう際に、「染色体」、「電磁波」、「微粒子」、「元素」、「ヒヤデス星団のアルデバラン星」、「波動」、「DNA」といった、科学的とされる多彩な用語を使う。そして、科学的用語の他にも、スピリチュアリズムや「精神世界」(17)ブームの影響を受け、神や先祖のことを「宇宙人」、先祖や神と交流することを「コンタクト」、あるいは「霊界交信」、神や霊の言葉を「メッセージ」、それを受け取り紙に書くことを「自動口述」と言い換えるなど、さらに新たな用語を用いるユタも出てきた。

from 聖なる狂気−沖縄シャマニズムにおける憑依現象−

塩月さんが上で描写するユタは、はたしてユタといえるのだろうか?

「宇宙人」や「波動」などの語彙を持ち出す人が、沖縄で目撃されると、研究者によってユタと呼ばれるのであろうか?

「ユタとはどのような人たちのことをいうのだろう?」という素朴な疑問がある。

*1:①約束どおりに病気を治してくれないのではないか? ②自分のリアルとは異なることを言っているのではないか? ③物理的には観測できない存在についてあたかもそれらが物理的に存在しているかのように偽装して語ってこないか? という3種類の不安のうち、特に②の不安が私には顕著だ。次に①の不安が大きい。③の不安は最後に位置する。

*2:東大出身で株式会社代表取締役のかたわら、ユタ業を営む人物がいたら、私はその人物を信用するのだろうか? もしいたら、実家の近所のてんぷら屋のユタよりは信用するかもしれない。ところで私は、いわゆるお坊さんや神主さんと呼ばれる人たちは、さほど疑うことがない。なぜか私は彼らを公務員と同じような存在として捉えているふしがある。その一方で私は、街角の手相占い師に対しては警戒する。彼らを見かけると目をあわさないようにしてしまう。同業者に対する近親憎悪だろうか?

*3:ここでの努力とは、以下のような非常に限定された「目的」を達成するためになされる行為を指す。「学校でよい成績をあげる。」「名門大学に入る。」「一流企業に入る。」「会社で自分に課せられたノルマをしっかりとこなす。」「遅刻はしない。」「病欠もしない。」「仕事がないからといって定時に帰らず、他の人の仕事を手伝う。」「年収は700万を超えるべきである。」 すなわち、結果的に「企業」へひたすら貢献することが、「努力すること」のようだ。

*4:おそらく野宿者もこの範疇に入っている。そして、努力しない人間というのは、どうやら大学に行っていない人間ということであり、さらに言えば、まともに就職活動をせず「どうにかなるさ」とひたすら他力本願的に生きているような、私とは正反対の生き方をしてきた人間のようである。私は病的に真面目なのだ。優等生なのだ。いい子ちゃんなのだ。一見しっかりしているように見えて、かえって固すぎてポッキリと折れてしまうような堅物なのだ。