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異界談義

異界談義(角川書店 国立歴史民俗博物館編)

異界談義

異界談義

リアルな感じでつかみだすこと

私は若い頃からいわゆる民俗学が扱う事柄に興味をもっていました。しかしながら、その勉強を本格的に始めた頃から、「民俗学」とか「民間信仰」とかいった言葉をなるべく使わないようにしながら、そうした用語で指示されてきたことを、もとリアルな感じでつかみだせないものかと考えていました(小松 2002:84)。

高知県物部村いざなぎ流の調査

そのムラで民宿に泊まりながら、彼らを調査したり、彼らと飲み食い等の行動を一緒にしたりしているうちに、彼らが持っているリアリティみたいなものをどうやってつかまえるか、ということに深く思い至ることになりました(小松 2002:85)。

シャーマンの本音と恐怖のリアリティ

犬神の調査をしたとき、非常に親しくなった太夫さんと一升瓶を抱えるようにして飲みながら、語り合ったことがありました。私は犬神について彼の本音の話を聞きたかったので、酒の力をも借りて聞き出そうとしたのです。(中略)しかし、彼は泥酔しているのに、犬神一般については話してくれましたが、誰々の犬神とか、どこの家は犬神筋だ、とかいった具体的なことについては固く口を閉ざしてしまいます。
「それはいえない。犬神が聞いている。だから口にしたら怖い」
こうした太夫たちやムラ人たちの抱く恐怖のリアリティを、共有できませんでしたし、うまく表現することができませんでした(小松 2002:86-87)*1

豊かな妖怪文化

人間は想像する動物です。見えないもの、どこにあるかわからないもの、不思議なものを、一生懸命想像してきました。それは科学をも生み出しましたが、同時に、日本における精神文化、さらには妖怪文化をも生み出してきたのです。(中略)残念なことに、日本人は、豊かな妖怪文化があるにもかかわらず、近代の合理主義・科学主義の悪しき影響か、どちらかといえば撲滅する方向へ向かってきました。そうした現象をないことにしたり、そういうものは低俗な文化だというレッテルを貼りつづけてきたのです(小松 2002:89)*2

出来事が物象化されたものとしての妖怪

先ほど私は、妖怪は「コト」だったといいましたが、それはどこそこにお化けが出たコトという意味ではありません。たとえば、ある一か所にだけ突然雨が降ったという不思議があったとします。でも、それは説明として「どこどこの神がお怒りになった」とか「どこどこの仏様にお祈りして降らせたんだ」とか、霊験、あるいは神威みたいなもので説明できない、説明がつけられない、そういう怪異なことをとりあえず妖怪として括っていったというのが多分最初なんだろうと思います。それが、いつのまにか、キャラクターとしての化け物、お化けみたいなものに意味が乗り変わっていったわけです(京極 2002:104)*3

↑なんとなく、出来事の経緯(=表情、関係態)が物象化したものとしてのングランビと似ているような…。うーん。面白いー。

オカルトというブラックボックス

私たち普通に暮らしている人間にとって、あの世と妖怪と占いというものは、実はすごく近しいもので、茫洋とひとつの括りにまとめられているはずなんです。ところが、いざ研究対象にするときには、切らないと研究できない。占いは占いの研究をしましょう──ということをやってきたわけです。でも、一般の人にとっては、占いと妖怪は似ている。似ているというのが変なら、何となく同じようなところで反応している。もちろん一般の人は突き詰めることはしないだろうし、私も日常してはいないわけですが、何となく近いと思ってはいるはずなんです。そういう現状を、今まではオカルトというブラックボックスに全部放り込んで処理していたわけです。オカルトというのは便利だけれども、すごく危険な言葉です。でも異界という切り口で考えたときに、妖怪と占いは一線に並ぶわけです。すっとしたきれない形が見えてくる。ですからこうした研究は、研究者のための研究ではなくて、私たち一般人にとってもとても新しい視座を与えてくれるものだと思います(京極 2002:104)*4

恐山とイタコの歴史

江戸時代にも、恐山の例祭などにイタコは登っていたと思われますが、文献上には、はっきりと出てきません。むしろ乞食、勧進の乞食といった表現で記されていたようです。「乞食」とは本来は仏教用語で、仏教徒の修行形態をさす由緒ある言葉ですが、日本の一般社会では「こじき=物乞い」として蔑称になってきました。とくに制度的な仏教寺院の視点からすると、イタコなどの民間巫者たちは、勧進イタコ、乞食イタコなどの名前で、コジキに分類されることが多かったと考えられます。恐山の堂社や施設、各種の祭礼行事などは十八世紀に大幅に整備されたことが知られていますが、霊場内にはいろいろな名前の浄土や地獄のスポットも作られました。たとえば「観音の浄土」「弥陀の浄土」「猟師地獄」「酒屋地獄」「ばくちうちの地獄」「親に口答地獄」などというような。宝暦十一年(一七六一)の記録には「神子地獄」というのが出てきます。おそらくミコ地獄でしょう。また幕末の弘化期の資料には「穢多子地獄」というのもあります。これもエダッコ、つまりイタコ地獄ではなかったかと思います。ここには、ミコやイタコを、猟師や酒屋などともに罪深い賤業と見なす、当時の仏教寺院側のまなざしが読みとれます。(中略)近代に入ると、明治四十年(一九○七)の大祭のときに、コジキたちが祭りに来るのはよくないという理由から、その参加を禁止したという記録が残っています。当時の地域経済の状況を考えると、もちろんこのコジキには、さまざまな人たちが含まれていたと推測されますが、これによってイタコなども、いったんは恐山から締め出されることになりました。ところが大正年間に入り、津軽地方のイタコが組合を組織して大祭に参加するようになります。ここでは、イタコたちが特定の寺院などの差配下に属し、そこから免許を貰うことで自分たちを権威づけ、組織化していった経緯がうかがわれます。これは近代社会という文脈の中で、イタコたちがコジキといった被差別的な名称で排除されることを回避しつつ、自分たちの新たなアイデンティティを主張するという、ひとつの自衛策であったと考えられます。おりしもこの時期は、恐山にはじめてホテルが建てられるなど、観光化の兆しが見え始める時代でした。こうした霊場の環境変化も、イタコの組織化に拍車をかけたといえましょう。戦後になり、昭和三十年代、観光化とマスメディアの宣伝などにより、イタコが盛んにクローズアップされるようになります。恐山は円覚寺という禅宗の寺が管理しているのですが、この寺は、公式見解では恐山がイタコで有名になることは好ましくない、としています。ところが、実際に大祭からイタコを排除すれば、この祭りの観光的価値も半減してしまいます。それで黙認しているというのが現状のようです。このように、恐山とイタコとの間には、常に葛藤しながら共存してきたという複雑な歴史があります(池上 2002:134-136)*5

イタコの言葉の受け取られ方─遺族にとってはリアル

イタコ系巫者に最も求められた職能が、口寄せ、つまりその場にいない他人の霊を招き寄せ、身に憑けてその言葉を伝えるという仕事です。(中略)このイタコの口寄せという技能は、師匠のを聞いて覚えるわけですから、その意味では、職人さんの技能の伝授とよく似ています。どちらかというと意図的、定型的、非個性的という特徴をもっています。師匠と弟子では雰囲気が似ているし、またかなりの決まり文句や節回しが定型化しているという点では、一種の芸能的なもの、ということもできます。イタコの能力を否定する人は、「イタコの口寄せは、どれを聞いても同じだ」といいます。つまり、ひとりのイタコのもとで口寄せを何列も聞いていると、客が変わっても同じ内容が定型的に繰り返されている、というのです。もちろんこれは醒めた観察者の感想です。イタコの言葉を聞く遺族の人たちにとっては、たしかに死んだ息子の声が聞こえるし、死んだお父さんの言葉が感じ取られるのです(池上 2002:137-138)*6

霊感商法の温床としての祟る死者

祟る死者、障りを及ぼす死者は、民間巫者たちが語る基本的な災因、つまり人々の不幸の原因のひとつでもあります。さらに、死者や先祖の霊障への過度の恐怖は、一部の宗教のいわゆる霊感商法といったものの温床にもなってきました(池上 2002:162)*7

*1:リアリティを共有できたら、太夫のことを理解できたことになるのだろうか? 太夫を理解することが目的ではなく、ここでは単に「犬神を恐れることができるようになる方法」が模索されているということだろうか? 仮に犬神を恐れることができるようになったとして、このことをどうやって論文に書くつもりなのか? 「犬神に私は恐怖を感じました」と信仰告白されても、読み手は「ああそうですか。あなたはそう感じたのですね。で、それで?」としか思わないのではないか? リアリティを共有したがる研究者は、共有できないことをずっと問題にし続けて、同じところをぐるぐるぐるぐる回るしかないような気がする。そして、たとえ共有できたとしても、このことを論文に書く際に悩むと思う。「共有できた」ならば、そのことを単純に記述するのではなく、「いかにして共有できるようになったのか」について詳述してほしい。私が知りたいのはあくまでもメカニズムだ。結果ではなく。 by重森

*2:近代の合理主義・科学主義にも、妖怪文化にも、批判的でありたいものだ。 by重森

*3:面白いー。次のページも参照のこと。http://nopperi.hp.infoseek.co.jp/repo-/r-butudai031122/r-bu-1.htm by重森

*4:なんでオカルトという言葉は危険なんだ? なんでもかんでも格納可能なブラックボックスだからだろうか? でも、それがブラックボックスだと気付かれなければ、使い続けてもいいのではないか? ある言葉のブラックボックス性が指摘できるならば、その他の言葉も、同様の疑いにさらされてしまい、論文を書くこと自体が困難になってしまわないだろうか? by重森

*5:イタコの組織があるとは知らなかった by重森

*6:オレオレ詐欺?」と思われかねないが、客から求められたうえで行われるのでオレオレ詐欺ではないはず by重森

*7:「憎むべき霊感商法」と「称賛すべきシャーマンによる癒し」を区別する基準はなんであろう? 客の満足度が低い場合に文句をつけられた「称賛すべきシャーマンによる癒し」が、「憎むべき霊感商法」として捉え返されるということだろうか? by重森