宗教という言葉

ネット上をさまよっていると、下記の記事を偶然見つけた。
「麻原だけは許せません、ではお知らせです」/普通のオウムと2億1千万の普通

以下、「宗教」という言葉について脳髄反射的に思ったこと。

学会においても日常生活においても、私はよく見かける。「宗教」という言葉を、それが何を指し示しているのかが既に自明であるかのように、気軽に簡単に使用する人たち*1。このような人たちに遭遇すると、私は複雑な気持ちになる*2

もちろん、相手がどのような音(=言葉、比喩、その網の目)に呪縛されているか*3をいち早く見抜き、最も効果的な仕方で相手から「理解」を勝ち取り、「それなりに話の分かる奴」「なかなか賢い奴」と思わせることに専心しがちな、生半可に京極堂チックな私*4が、言えたことではないが。

*1:しかし、あまりにも厳密に言葉の定義にこだわると、話が進まなくなる。「宗教」の定義をすることで時間がすぎてしまう。とはいえ、あまりにも言葉の定義を怠ると、話が深みのない無味乾燥で単純なものになってしまう。そう。あれはいつだったか、ある研究会で論文を発表したときのこと。私の論文上に現れる「近代」という言葉に敏感に反応した人物が、「ここでの近代とはどのような意味なのですか? たとえば、どのような論者による近代理解を採用しているのですか? 近代の意味するところを詳しく説明してください」とコメントしてきた。そのときの私の論考の内容は、妖術信仰に関するものであり、近代について論じたものではなかったので非常に困った。コメントをしてくれた人物は、近代について長年考察している人物であり、私が何の説明もなく近代という用語を安易に使用していることに違和感を覚えたらしい。この違和感、私も理解できる。宗教という言葉を気軽に簡単に使用している人を見ると、「お前が使うその宗教という言葉はいったいどういう意味なんだ」と問い詰めたくなる。しかし、しかしだ。言葉の意味を探求することは、ある程度に留めておかないと、きりがない。その気になれば、どのような言葉に対しても「その言葉は何を意味するんですか?厳密に説明してください」と質問することが可能だ。例えば、「私」という言葉。「あなたが使用している「私」という言葉の意味を教えてください。私とは主体のことですか? 自我という用語とどのように関係しているのですか? 「私」とは何か、詳細に説明してください」と突っ込まれたら非常に困る。いちいち厳密に、自分が使用する言葉の意味するところを分析していたら、それだけで時間が経ってしまい、論文など書けない。だから、ある程度は、目の前に提示された言葉を、盲目的に受け入れたりしなければならないと思う。また同様にある程度は、言葉を、安易に簡単に気軽に使用するしかないと思う。

*2:「沖縄人」や「日本人」や「呪術」や「科学」といった言葉についても同じような気持ちになる。

*3:相手がどのような音(=言葉、比喩、その網の目)に呪縛されているかが把握できれば、あとはそれをプログラムを書いて実行するかのごとく、相手へ向かって打ち込めばいい。その結果、相手を「納得」に導いたり、ホッとさせたり、激怒させたりできれば、あるいは、相手が体を許してくれさえすれば、それだけで十分。言葉の内容─それは一体何を指し示すのか─について厳密に考えることなど、実際に日常生活をそつなく平穏無事に送っていく上では本来は不要。

*4:憑物落としを得意とする京極堂こと中善寺秋彦は、相手に応じてお祓いの仕方を変える。「そういう人間にはああやって本当のことをいうのが一番効くと思ったのさ」「そうか──君は確か、お祓いをする相手の信心している宗派でそのやり方を変えるんだったね──」(中略)「まあ、そう怖い顔をするなよ。君のいう通り、僕の憑物落としはその相手の置かれている環境やらその人の性質やらというのを知らないとできないのだ。理屈はさっき述べた通り、方法は君が嵌った通りだ。君には君が一番解る言葉で語った訳で、これが経文になったり祝詞になったり、または科学用語になったりするだけだ―。」 『姑獲鳥の夏』(p-48 友人関口との会話)