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霊に対する京極堂のスタンス

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

霊に対する重森のスタンス

この2・3週間、仕事の傍ら、モンチに勧められた京極堂シリーズについて、情報を集めていた。

京極堂シリーズと、その作者である京極夏彦氏に関する資料に目を通した結果、京極堂(≒京極夏彦氏)のスタンスは私のそれと、非常に類似していることが分かった。ここでの「スタンス」とは、霊や妖怪といった「一見して不合理な」存在に対する考え方あるいは態度、のことである。

私は、霊というものを、物理的に観測できる存在としては捉えない。霊というものを私は、言葉だけの存在として捉える*1。そして私は、「脳レベルで霊や霊の声*2が知覚できることがある」と考える。*3霊というものが物理的な存在ではないとしても、「霊が見える。霊の声が聞こえる」と述べる人が、脳レベルでそれらを知覚している可能性はある。

簡単ではあるが、上記が霊に対する私の基本的なスタンスである。

邪で暖かみに欠ける重森

しかし、話はやや複雑である。上記のようなスタンスを掲げつつも私は、「霊や神の声が聞こえる」と述べる人物を激しく警戒する。「他人の話を鵜呑みせず、批判的に吟味する」だけならば健康的といえるのだが、私はそのような人物に、邪悪な意図をすぐに読み込んでしまう。

あろうことか当の私自身が、邪な人間である。私は、相手の信仰をいち早く把握することにつとめ、その信仰に沿って語りを繰り出すことにより、首尾よく相手からの理解をとりつけようとするような、姑息な人間である*4。そして、このような自分自身を私は他人に投影してしまう。自分と他人を同じ思考を行う人間として同一視するのである*5

例えば、私の実家の近所に住むてんぷら屋のおばさんは、「神や霊の声が聞こえる」と真顔で述べる。「ちょっと頭がおかしい電波な人」として私は彼女を切り捨てるつもりはない。しかし私は「彼女は嘘を付いている」とすぐに思いたがる。そのように疑ってかかってしまう。

このようなとき、私はすぐさま自分の考えを修正する。「彼女が嘘を付いているかどうか、今はまだ分からないはずだ。嘘つきと決め付けるな!」と自分を叱る。そして、「彼女には神や霊の声が聞こえている可能性があるではないか!」とたたみかけ、当初抱いた考えに急いで修正を加えようとする。そして最終的に私は「彼女にとっての世界に関する語りに、ひたすら真摯に耳を傾けてみたい。」と思い込むよう、自分を説得する。私は、「一見して不合理な」ことを述べる人物に遭遇するたびに、このような問答を繰り広げ、自分自身を操縦しているのである*6

京極堂の霊や妖怪に対する眼差し

「一見して不合理な」ことを述べるてんぷら屋のおばさんに対して私は、「こいつは嘘をついているのではないか? 本当は神や霊の声など聞こえないくせに聞こえると嘘を付いて、客からお金を騙し取ろうとしているのではないか? ただ単に便利なセリフとして、そんなに深く考えずに「神や霊の声が聞こえる」と述べているだけではないか?」と疑ってしまいがちなのであるが、それを一生懸命修正し、「彼女にとってのリアリティを否定してはいけない」と思い直す。

このような作業に従事する私は、はたから見ると滑稽であろう。暖かみなど感じられない。ばたばたしていてただただ無様である。

モンチによると、小説家京極夏彦氏が描く京極堂なるキャラクターは、私などとは異なり、非常に暖かみのある人物とのことである。京極堂の霊や妖怪に対する眼差しが暖かいのだそうだ。

「冷たい人と思われるより暖かい人と思われたい。京極堂の持つ暖かさとやらを是非とも自分も身につけてみたい*7。」 

このような邪な動機に基づき、私は京極夏彦関係の資料を読み漁った。以下より、現時点における私の京極堂理解を記述しながら、その暖かみについて探っていきたい。

霊に対する京極堂のスタンス

京極堂の副業は憑物を落としたり悪霊を祓ったりする祈祷師なのだった。もっとも神主を正業と考えればその延長といえるのかもしれないが、彼の場合は神道のそれとは違い、何と祓われる方の信仰している宗派でそのやり方が違うという、一風変わったものである(『姑獲鳥の夏』p27)

まず私は『姑獲鳥の夏』を読んだ。京極堂の本業は古本屋である。京極堂の古くからの友人である関口によると、京極堂は、神主であり、かつ祈祷師でもあるという。自分の仕事場で日がな一日中読書に耽る京極堂は、自分自身のことを「科学と宗教の橋渡し」と表現し、その役割を次のように説明する。

「(中略) 科学者にも昼間から幽霊を見せてあげて、宗教者には呪文を唱えずとも幽霊を消せるようにしてあげるんだ。要するにああいったものは脳味噌が自己正当化してるようなものだからね。」(『姑獲鳥の夏』p30)

そして、京極堂は幽霊について次のように述べる。

「(中略) 幽霊はいるよ。見えるし、触れるし、声も聞こえるさ。しかし存在はしない。だから科学では扱えない。でも科学で扱えないから、絵空事だ、存在しないというのは間違ってるよ。実際いるんだから」(『姑獲鳥の夏』p30)

京極堂は、幽霊について「存在はするが存在しない」と述べる。これは一体どういうことか? 引き続き京極堂の語りに耳を傾けてみよう。

「世界は二つに分けられる」
(中略)
「つまり人間の内に開かれた世界と、この外の世界だ。外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれをまったく無視している。」(『姑獲鳥の夏』p34-35)

京極堂は「外の世界/内の世界」という区分を持ち出す。やがて話は、「客が我が儘をいう」という話題に移っていく。ここでの「客」とは「心」のことであり、「心」に奉仕する存在として「記憶の蔵」が対置され、対話は進んでいく。対話の相手はもちろん、関口である。

「客はときに我が儘をいう。そこで蔵の中から見合った在庫品を引っ張り出して来て、恰も今入荷したかのように誤魔化す訳だ。これも、客は新鮮なものと一切区別はつかない。しかしどうにも辻褄が合わぬことになる。入荷していないのに出荷するんだからね。帳簿が合わなくなる訳だ」
「客──心は、いったいどんな我が儘をいうというんだね」
「例えば死んだ人間に逢いたいとかね」
(中略)
「それが幽霊か」
「まあ、それだけじゃないが、だいたいそういうことだね。これはその人の心にとってみれば──と、いうより内側の世界では絶対に現実のものと区別はつかないよ。いうなれば、これは仮想現実とでも呼ぼうかね。いやその人個人にしてみればまさに現実さ。現実そのものだってまったく同じように脳の検閲を受けて入ってくるんだからね。我我は誰一人として真実の世界を見たり、聞いたりすることはできないんだ。脳の選んだ、いわば偏った僅かな情報のみを知覚しているだけなんだ」(『姑獲鳥の夏』p41-42)

「心」に対置される「記憶の蔵」とは、すなわち脳のことを指す。そして脳は心の要求に従い、死んだ人間さえも差し出す。つまり京極堂はこのように述べている。「幽霊は物理的には存在しないが、脳が作り出しさえすれば、知覚できる──。」 

上記のような考え方は、冒頭で示した私の考え方と瓜二つである。京極堂も私も、世界を2つに区分する。そして、霊を物理的な存在ではなく、脳に居場所をもつものとして捉える。

霊に対する京極堂のスタンスは、霊に対する私のスタンスとほとんど同じといってよいだろう。

京極堂の暖かさとは?

「科学というのは普遍的であるべきものだ。同じ条件の下で実験した結果は同じじゃなくちゃいけない。しかし心だ、霊だ、魂だ、神だ仏だってのはそうはいかない。どんなに同じ宗派だろうが、人が別なら別別だ。だから科学で扱える分野ではない。」(『姑獲鳥の夏』p29)

前節では、霊に対する京極堂の考え方が、私のそれとほとんど同じであることが確認できた。両者とも世界を2つに区分する。霊を物理的な存在ではないとし、脳にその居場所を限定する。京極堂と私は驚くほど良く似ている。それでは、暖かさが私にではなく、京極堂に見出されることは、両者のどのような差異に起因しているのであろうか? いよいよ、京極堂と私の違いについて見ていきたい。

京極堂は、妖怪の話が好きである。好きというよりも、面白がっていると言ったほうが適切かもしれない。『姑獲鳥の夏』において、ウブメ(=姑獲鳥)に関する古文書の記述を読む京極堂は、明らかにはしゃいでいる。その姿は、大好きなマンガを読む子どものようである。

「石燕の時代は安永だが、それより百年ばかり遡るとね、まだウブメの怖さは活きている。確か貞享三年、石燕の死んだ年のほぼ百年前だね、その年に発行された『百物語評判』という本の記述などはなかなかいいよ」
(中略)
「──産の上にて身まかりたりし女、其の執心、此のものとなれり。其のかたち、腰より下は血にそみて、其の声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり──どうだい、絵で見るよりも怖いだろう。」(『姑獲鳥の夏』p72-73)

つづく…

文章の部品格納コーナー

また、呪術に関して京極堂は関口と、次のような会話をする。

「呪いの人形──って訳か。これは──実際に効くのか? いや、呪いというのは、この世に本当にあるものなのか?」
「呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。ブラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うという。呪いは言葉だ。文化だ。」
「文化論を聞きたいんじゃない。相手を呪い殺したり、不幸にしたりする所謂<呪い>が有効かどうかが聞きたいんだ」
「少なくとも共通の言葉や文化を持つ集団の中では確実に有効だよ。」
「超自然的な力が働くのか?」
「そんな馬鹿馬鹿しい力は働かないよ。呪いはいうなれば<脳に仕掛ける時限爆弾>のようなものだ。まあ──解らんだろうな」(『姑獲鳥の夏』p414)

↑ここでの京極堂は、なんかいばってないか? 「まあ──解らんだろうな」とか言うなよ。それにしても呪いって何だよ。文化とかいう言葉を安易に使って説明すんな。余計分かりにくくなる。呪いよりも、言葉自体を私は不思議なものと思う。言葉なるものを聞き、傷付いたり、喜んだり、笑ったり、怒ったりできること自体を不思議に思う。ただの音じゃん。なのにその音を耳にしただけで、なぜ感情に変化が確実に起きるのだろう? その意味では言葉が呪いそのものだ。

*1:こんな風に、「物理的な世界/言葉だけの世界」という風に、どうして私は世界を2つに区分してしまえるのだろうか? この区別を可能にする基準を提出できない私は、このような区別が成り立つという信仰を、単に告白しているにすぎない。早くクワインを読まねば。

*2:しかし不思議に思う。自分に聞こえた声が、どうして霊や神の声だと分かるのだろうか? 霊や神がいるということが前提にされていることも不思議であるが、さらに、自分に聞こえた声が、他ならぬ霊や神のそれであることが、どのようにして判別できているのだろうか?

*3:「脳レベルで霊が見える人」よりも、「脳レベルで霊が見えているわけではないにもかかわらず、霊の存在を自明視する人々」ではないだろうか? 霊がリアルに脳レベルで見えてしまっている人が、「霊が見える」と述べることは、比較的納得のいく話である(←もちろん脳レベルで霊が見えてしまうことは不思議なことではあるのだが、誰もが夢を見ることがあることを考慮するならば、そんなに不思議なこととはいえない)。しかし、霊が脳レベルで見えていないにもかかわらず、霊の存在を自明視している人がいることは、不思議な現象である。なぜ霊の存在を真に受けることができるのだろうか?

*4:例えば、「自分のことを「好き」と言ってくれる人とセックスするべき」という信仰を持っている女性に対し、相手の体が目当てな私はここぞとばかりに、「好きです。」と言ったりする。「「好きです。」と言えば、ゆくゆくはセックスさせてくれるだろう」という思惑がここで炸裂していることは言うまでもない。

*5:女性に「好きです。」と告白した隣人に対して、「ああ、こいつはあの女性とセックスしたかったんだな」とすぐに自分勝手に了解しがちである。

*6:要するに、謙虚かつ冷静な、柔軟な思考をする研究者を、取り繕っているのである。

*7:そして人に好かれたい。