公園の適正な利用方法について

ここ数日、「公園の適正な利用方法」についてあれこれ考えていた。

憲法学者の笹沼氏によると、大阪市長居公園のテント強制撤去を、「2002年に制定されたホームレスの自立の支援等に関する特別措置法11条に基づいて」進めていたようである。

この法律に基づいて、テント強制撤去を正当化するためには、下記の3つの条件が満たされていなければならないという。

  1. 公園の適正な利用を妨げていること
  2. 自立のための支援の連携策をとること
  3. 必要最低限の措置でなければならない

このうち私は、1つ目の条件「公園の適正な利用を妨げていること」について考えていた。

公園は、どのような利用が許された場所なのだろうか? 「適正な利用」とはどのような利用方法を指すのであろうか? 

もしも、法律の条文に、「公園の適正な利用方法」の具体例があらかじめ明確に定義されていないならば、「公園は基本的にはどのように利用されてもいい場所」ということにならないだろうか。ある特定の利用の仕方が、他の公園利用者に問題視されたならば、話し合いによりその特定の公園利用法を禁止する必要が出てくるという話ではないだろうか。何が禁止されるべき行為かは、実際に実行してクレームがつくまでは分からない。従って、公園にテントを設置しそこで生活することは、それが問題視されないならば、許されている行為といえる。

なにも私は、公園はどのように利用されてもいいとのみ主張したいのではない。

公園にテントを設置しそこで生活することが問題視されたならば、そのときに初めて、当事者同士が交渉し、妥協案を模索していけばいいと私は考える。「公園を無法地帯にせよ」と言っているのではない。公園を利用する際には、その公園を利用する人間同士が交渉を行い、お互いが納得した上で、絶えず流動的にルールを決めたらよいと言いたいだけである。

今回の長居公園のテント村をめぐる出来事において、私が非常に憤ったのは、公園にテントを設置してそこで生活することを禁止しようとする人々がいたことではなく、公園にテントを設置しそこで生活することの是非をめぐって当然行われるべきであった当事者同士の交渉が全く行われぬまま、大阪市により一方的にテントが強制撤去されてしまったことである。

テント村の住人は、話し合いをしようとした。彼らは紳士的に交渉するつもりでいた。しかし、大阪市はそれを無視した。私はこのことに怒りを感じる。

そんな折、次のようなエントリーを読む機会に恵まれた。

ひとつのテント村が消え、残ったもの 長居公園のこと

そして、このエントリーに対する下記のようなコメントに、私は頭を抱えた。

公共の場所を個人が占有しちゃってるので強制排除は仕方ないんじゃないでしょうか。
他の市民から「排除して欲しい」という要望があったら役所としてはやむをえないと思います。
野宿を認める=経済的理由による私的占有を認める事になっちゃいますので、だれかが
公園に勝手に倉庫や家を建てかねないです。

共生を願う方々が募金を集めるなりして野宿できる空き地や住居を提供するとか、
「市の予算で収容施設を整備しよう」といった前向きな運動を起すべきではないでしょうか。
赤字財政の大阪市にとって福祉予算を積み増す事は増税とイコールだとは思いますが…
双方が妥協できるような提案をせずにただ執行反対を叫ぶようでは「反権力」という
自己満足のために運動しているような印象を周囲に与えかねないと思います。

また公務員に対して業務拒否を願うとかは異様ではないでしょうか。
個人的感情を優先して公の命令に従わない公務員を認めるというのも恐ろしい事だと思います。
女性蔑視や民族差別的な性向を持つ方が公務員として偏向した公権力(当人にとっては正義)を
振るう事も容認されるのでしょうか?

私のエントリーに対するコメントではないが、上記のような語りは、私の欲望にとって迷惑極まりないので、すべからく批判したいと思う。

ところで、このコメントの投稿者名は不明である。なので、コメントの投稿者名を、ここでは便宜的に「法治国家大好きさん」と名付けておこうと思う。

さて、「法治国家大好きさん」は、まず次のように述べる。

>公共の場所を個人が占有しちゃってるので強制排除は仕方ないんじゃないでしょうか。

ふたつコメントを返したい。

第一に、公園にテントを設置してそこで生活することの是非を話し合う以前に、あたかも最初からこのような行為は禁止されているかのような語り口に、私は違和感を覚える。

第二に、占有という言葉は、なにやら不穏なイメージを抱かせる。「法治国家大好きさん」はどうして占有という言葉を使用するのだろうか? 公園にテントを設置しそこで生活することを、わざわざ占有と呼び、それが不法な行為であるかのような印象を「法治国家大好きさん」は読み手に与えようとしてはいないか?

公園の遊具で遊ぶ児童に対して、「彼らはジャングルジムで遊んでいる。彼らは公園を利用している。」とは言えても、「彼らはジャングルジムを占有している。公園を占有している。」とは言わないだろう。「ジャングルジムを占有しているのでそんな児童は強制排除だ!」と主張する人がいたらお目にかかりたい。

たとえば仮に、「ジャングルジムは遊具ではない!ジャングルジムを占有するな!公園を占有するな!あれは観賞用の芸術作品であり、登ったりするものではない!」という説を持ち、児童がジャングルジムを占有することを問題視する市民がいたならば、この人物は、公園を利用する一市民として、ジャングルジムの利用方法すなわち公園の利用方法について、ジャングルジムを利用する児童あるいはその親と話し合うべきであろう。なんらかの公園の利用方法を、「はじめから禁止されたもの」として考えるなと言いたい。公共のものは、その利用者である市民が交渉して、その利用方法を適宜決めていけばよい。

>他の市民から「排除して欲しい」という要望があったら役所としてはやむをえないと思います。

なぜ、「法治国家大好きさん」は、「排除して欲しい」という要望に役所は忠実であるべきと考えているのだろうか? 非常に不思議である。

>野宿を認める=経済的理由による私的占有を認める事になっちゃいますので、だれかが公園に勝手に倉庫や家を建てかねないです。

長居公園のテント村の人々は、公園にテントを立てることはできても、倉庫や家を建てるほど裕福ではないはずである。従って上記の主張には無理がある。

もしも仮に、公園に倉庫や家を建てる人間が出たならば、その倉庫や家が、他の公園利用者にとって公園の利用を妨げるものである限りにおいて、問題化したらいい。すなわち、倉庫と家の存在のせいで、公園を利用することができないと感じた市民が、その倉庫や家の持ち主と直接交渉し、公園をお互いが気分よく利用できるように、ルールを決めればいい。

>共生を願う方々が募金を集めるなりして野宿できる空き地や住居を提供するとか、「市の予算で収容施設を整備しよう」といった前向きな運動を起すべきではないでしょうか。

「共生を願う方々が募金を集めるなりして野宿できる空き地」という文章のうち、「募金」を「税金」と読み替えると、公園こそが、「野宿できる空き地」として見えてこないだろうか?

>赤字財政の大阪市にとって福祉予算を積み増す事は増税とイコールだとは思いますが…双方が妥協できるような提案をせずにただ執行反対を叫ぶようでは「反権力」という自己満足のために運動しているような印象を周囲に与えかねないと思います。

「ただ執行反対を叫ぶ」というのは間違いです。テント村の住民たちが話し合いをしようと働きかけたのにも関わらず、大阪市はそれを無視したのです。

>また公務員に対して業務拒否を願うとかは異様ではないでしょうか。個人的感情を優先して公の命令に従わない公務員を認めるというのも恐ろしい事だと思います。

上司の命令であれば何でも遂行する公務員というのは恐ろしいと思います。個人的感情というよりも、個人的な考えにより、公務員は上司の命令に逆らってほしいと私は思います。

>女性蔑視や民族差別的な性向を持つ方が公務員として偏向した公権力(当人にとっては正義)を振るう事も容認されるのでしょうか?

女性蔑視や民族差別的な性向を持つ上司の命令に何でも従う公務員は、問題です。今回の長居公園の場合、野宿者差別的な性向を持つ上司の命令に、公務員たちは盲目的に従ったといえます。これは許されないことです。

なによりも大阪市は、公園の利用方法について、テント村の住人と話し合いをすべきだったと私は考えます。