配車係をバイトにすることに反対しているのは、バイク便ライダーたち自身なのである。彼ら自身が、このトリックを指示し、はまっている(阿部 2006:123)。

トリックにはまっている彼らに、トリックにはまっていることを指摘したとしても、トリックにはまっていることを彼らは、すんなりと自覚できるのだろうか? 彼らは、トリックにはまっている存在として、彼ら自身を、上から眺めるように把握することが、できるのだろうか? トリックにはまっていることを指摘されることによって、彼らは彼ら自身を突き放して眺められるような、一歩引いた視座を、獲得できるようになるのだろうか?

トリックの指摘を受けた歩合ライダーは、「トリック? なにそれ? 元歩合ライダーが配車したほうが、正確な最速の配達時間が分かって、こっちもやる気がでるだろう? 限界までスピードが出せて、歩合ライダーとしていい仕事ができるだろう? トリックって一体何のことなんだ? 俺らはいい仕事がしたいだけだ。」と返答するだけのように思えてならない。

著者によって「トリックにはまっている」と表現される彼らが、トリックにはまっている存在として自分自身をリアルに捉えること*1ができるようになるには、どのような手段に訴えたほうがいいのだろうか?

id:BJK:20070222で知った『搾取される若者たち』を読み、上記のようなことを考えた。

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

*1:アヒルとしてしか見えていなかった図が、ウサギに見えてくること。あるいは、その図を、アヒルとしてもウサギとしても、眺めることができること。今回のケースで言うならば、「元歩合ライダーを配車係にし、その指示に従って働くこと」を、「バイク便ライダーとしていい仕事をすること」としてではなく、「トリックにはまっていること」として了解すること。あるいは、「元歩合ライダーを配車係にし、その指示に従って働くこと」を、「バイク便ライダーとしていい仕事をすること」としてだけでなく、「トリックにはまっていること」としても、眺めることができること。