原因特定の方法について─現象を我々はどこまで複雑に記述すべきか? そして原因と非原因を分かつ基準とは何か?

コレラの原因が細菌だという事実を発見したのは、ドイツの医学者コッホ(Robert Koch)である。しかし、この発見も、すぐに受け入れられたわけではなかった。コッホの説に反対していた医学界の権威ペッテンコーファー(Max J. von Pettenkofer)は、やがて、コレラ菌の存在を認めるところまでは譲歩したが、それでもなお、「コレラ菌は、コレラの唯一の原因ではない。不良な健康状態などもコレラの原因である」と主張して譲らなかった。ペッテンコーファーは、自説を証明するために、何とコレラ菌の培養液をみずから飲んでみせるという挙にでた。ところが、少しばかり腹を下しただけですんでしまい、コレラにはかからなかったのである。なぜコレラにかからなかったのかは、長らく謎とされてきたが、よく考えてみると、べつに不思議ではないのかもしれない。健康状態は干渉変数(本文を参照)として働いていたのであろう。つまり、コレラ菌の働きは、良好な健康状態によって抑えられてしまうこともありうるのである。その意味ではペッテンコーファーは正しかったといえる(『実践としての統計学』 2000:117)。

原因というものについて、考えることが多い。

なんらかの出来事を「引き起こし」あるいは「生じさせる」ものとしての、「原因なるもの」について、それを特定する方法について考えている。

例えば、マンションの20階から人が転落死したとしよう。

このような出来事に遭遇した際、我々は、何を原因の候補として挙げることができるだろうか? そして、原因の候補として列挙したものの中から、どのようにして我々は、原因を特定することができるのだろうか?

原因特定の方法その1─通時的探索

原因を特定するための前段階的な作業として、原因の候補を列挙する必要がある。その方法として、まず第一に、現象が生起する以前に生じた出来事に注意を向けてみるという方法がある。この方法は、ある出来事に先行する出来事が、その問題となっている当の出来事を「引き起こし」ているという推定に基づいている。

マンションの20階から人が転落死した。

この場合、死の原因の候補として、マンションの20階から落ちたことを挙げることができるだろう。

しかし調査の結果、死亡した人物は、マンションの20階から転落する前に、ある薬剤を摂取していたことが判明したとする。

この場合には、薬剤の摂取も、死の原因の候補として挙げることができるだろう。

さらに調査した結果、死亡した人物は、薬剤を摂取する前に、ある病気に感染していたことが判明したとする。

この場合には、ある病気への感染も、死の原因の候補として挙げることができるだろう。

さらに調査した結果、死亡した人物は、病気に感染する前に、既に同様の病気に感染している友人と、出会っていたことが判明したとする。

この場合には、病気に感染している友人との接触も、死の原因の候補として挙げることができるだろう。

さらに調査した結果、既に病気に感染していた友人は、満員電車において、その病気に感染したことが判明したとする。

この場合には、死亡した人物の友人が満員電車に乗車していたことも、死の原因の候補として挙げることができるだろう。

以下、永遠に探索が可能なので、省略する。

原因特定の方法その2─共時的探索

次に、原因の候補を列挙する方法として、現象が生起した時点で、同時に成立していた出来事を、原因の候補としてカウントするという方法がある。

マンションの20階から人が転落死した。

この場合、死の原因の候補として、人がマンションの20階に住んでいたことを、挙げることができるだろう(平屋の1階に住んでいれば、たとえ窓から落ちても死ぬことは難しい)。

また、自力歩行ができるということも、死の原因の候補として挙げることができるだろう(足が不自由であれば、窓やドアやベランダまでたどり着けず、そこから下に落ちることができない)。

また、窓あるいはドアの構造について知識があり、それらを操作して外に出ることができるということも、死の原因の候補として挙げることができるだろう(窓やドアの使い方を全く知らない人は、それを開けることで苦戦するだろう)。

また、転落を止める人が誰もいなかったことも、死の原因の候補として挙げることができるだろう(後ろから羽交い絞めされたら、飛び降りることができない)。

また、内部から開閉可能な出入り口のある部屋にいたことも、死の原因の候補として挙げることができるだろう(内部から出られないならば、その外に飛び降りることができない)。

また、やや突飛であるが、地球に引力*1があることも、死の原因の候補として挙げることもできるだろう(地球に引力がないならば、そもそも人は地球に引き寄せられることができない。つまり、下に落ちることができない)。

以下、永遠に探索が可能なので、省略する。

まとめ1

以上、原因の候補を探索する仕方について、①通事的探索と、②共時的探索の2通りの方法を概観してきた。

前者は、とにかく過去に遡り、問題となっている現象が生起する以前に生じていた出来事から、原因の候補を見つけ出すという方法である。

一方、後者は、とにかく周囲を見渡し、問題となっている現象が生起した時点において、同時に成り立っていた出来事から、原因の候補を探すという方法である。

もちろん、これら2つの探索方法を、私は意図的に単純化して描いている。
物象化と細分化の考え方をからめるならば、事態はさらに複雑になる。

原因特定の際の注意点その1─物象化概念の混入

原因の候補を特定する方法として、現象が生起する以前に生じた出来事を、原因の候補として把握するという方法があるが、過去に生じた出来事ではないにもかかわらず、問題となっている出来事を生起させた張本人として登場してくる原因の候補もある。

つまり、原因の候補が、過去に遡って特定されるだけでなく、実際には過去には生じていないものまでもが、過去に生じた出来事の顔をして、原因の候補として事後的に設定されることがある、ということである。

マンションの20階から人が転落死した。

たとえばこの場合に、死の原因の候補として、「運命」が挙げられることがある。上記のような状況が、「運命だから、死んだんだ。運命が死をもたらした。」と説明されることがある。

もちろん、「運命」なるものは実際には、出来事の経緯には一切登場してはいない。

しかし、人は事後的に、遡及的に、「運命」なるものを過去に生じた出来事のように措定し、これがあたかも最初から出来事の経緯に含まれていたかのような説明の仕方を、時折行うことがある。

正確に言うならば、出来事の経緯そのものが「運命」である。「マンションの20階から人が転落死した」という現象に対して、人は、「これは運命だ。」「その人がそんな死に方をするのは運命だったんだ」と述べたりする。

しかし人は同時に、「運命がそうさせた。運命が死をもたらしたのだ」とも語るのである。これがいわゆる物象化である。出来事の経緯、出来事の連なりに眺めることのできる表情が、いつしか出来事そのものとして、出来事の経緯に紛れ込むのである。このような物象化現象は、原因の候補を探索する際に、頻繁に観察される。

マンションの20階から人が転落死した。

日本で受け入れ可能な、原因の候補としての物象化概念は、「運命」の他に、「厄年」や「ついてないこと」や「運が悪いこと」がある。

すなわち日本では、「厄年だから、死んだ」「ついてないから、死んだ」「運が悪いから、死んだ」」という説明の仕方が可能である。日本では、「厄年」が、「ついていないこと」が、あるいは、「運が悪いこと」が、原因の候補として語られうる。

ケニア東部の山村ならば、死の原因の候補として、妖術も登場可能だろう。もちろん、妖術なるものは、出来事の実際の経緯には一切登場しない。

「運命」や「ツキのなさ」、「厄年」や「運の悪さ」などは、問題となっている現象が生起する以前の、過去に生じた出来事ではない。しかし、このような言い回しが、「ある薬剤を摂取した」「ある病気に感染した」という原因の候補とともに、人の語りにいつのまにか紛れ込んでいることがある。

この奇妙さには、注意深く観察してはじめて、気付けるものであり、日常生活を送る上では、「これら本来は原因としてカウントされないはずの怪しい存在」も、非常に自然に受け入れられている。研究者と呼ばれる人たちの間でさえも、同様の語りを観察することができる*2

原因特定の際の注意点その2─細分化のレベル

これまで、物象化について説明を行ってきた。この現象を考慮するだけで、原因探索という営みには複雑な問題が孕まれていることが分かる。

しかし、原因探索の際に注意すべきことは、他にもある。

それが、今から説明する細分化である。これは要するに、どこまで現象を細かく見ていけばいいのかという問題である。

マンションの20階から人が転落死した。

通常の通事的探索を行うならば、死の原因の候補として、まっさきに「マンションの20階から落ちたこと」が想起できる。

もしも、この「マンションの20階から落ちた」という出来事について、その前後の出来事も含めて、やや過剰に細分化して記述するならば、次のような記述を行うことができる。

「布団を跳ね飛ばし、手を床につきつつ、足に力を入れてバランスを取りながら直立し、右足を一歩前に踏み出し、右足のかかとが地面に触れるか触れないかの時点で、すかさず左足のつまさきで地面を蹴り、それを一歩前へ進める、次に左足のかかとが地面から離れる寸前に今度はまた右足で地面を蹴る。この繰り返しを計29回行い、窓の前に着いたら、手前のでっぱりに左手をあて、体重をかけつつ左手を左に移動させる、窓が半分ほど開いた時点で、右手で窓の右枠を押さえ、体重をそこにあずけ、左足で窓の下枠をまたぐ、先ほどど同様のやり方でベランダを前進し、壁を両手で抱きしめるようにして掴み、左足に重心を移しながら、右足を高くあげ、壁に右足をかける。(以下略)」

このように、その気になれば、「マンションの20階から落ちたこと」をより細かく記述することができる。

上記は、あくまで目につく限りでの表面的な動きしか記述の対象になっていないが、さらに、目に見えない、動作者の身体の内部にまで視点を移すと、次のような記述を行うことも可能である。

「右股関節周辺および太腿部の筋肉に電気信号が走り、(以下略)」

これは、「布団を跳ね飛ばし」という部分について、身体の内部に注目して行った記述である。このような記述は、無意味な行為のように思われるかもしれないが、「マンションの20階から落ちた」という出来事の以前に、確実に生じていたであろう出来事である。

この細分化は、やろうと思えば、どこまでも細かく行うことが可能であり(分子レベル、クォークレベル)、どこかで歯止めをかけなければ、きりがない。

しかし逆に、どこまで大雑把に記述することが許されるのか、その許容範囲がはっきりしているわけでもない。どれぐらいの細かさで出来事は記述されるべきなのだろうか? 記述における細分化の度合い、レベルは、誰がどのようにして決定したらいいのか? 適切な細分化のありようというものは果たして存在しているのだろうか?

まとめ2

以上、原因の探索の仕方について、至極簡単に概観してきた。原因探求の仕方としては、①通事的探索と、②共時的探索の2通りがあり、さらにこれらには、(1)物象化と、(2)細分化がからんでくるということであった。

問い:現象を我々はどこまで複雑に記述すべきか? そして原因と非原因を分かつ基準とは何か?

これまで見てきたように、原因の候補は、その気になれば、いくらでも列挙することができる。

好きなだけ過去に遡れば、好きなだけ原因候補となる出来事を見つけ出すことができる。

また、好きなだけ周囲を見渡せば、好きなだけ原因候補となる出来事を見つけ出すことができる。

さらに、物象化や細分化の度合いにより、その原因候補の数はますます増加する。

つまり、我々は、現象を、好きなだけ複雑に記述することができる。

しかし、あまりにも現象を、複雑に記述するだけでは問題である。なによりも、現象が複雑に記述されすぎてしまうと、なんらかの目的を達成したい場合、どのような手を打てばいいのか、皆目見当がつかなくなる。

例えば、「マンションの20階からの転落死」を防止したいという目的を念頭に置いた場合、転落死を説明する仕方として、「ある薬剤を摂取したために、マンションの20階から転落死した」という語りが採用されたならば、とりあえず、「ある薬剤の摂取」を制限するという手段を、「マンションの20階からの転落死」の防止策として提案し、実施することができる。

やたら複雑に現象を記述してしまえば、我々は何をしたらいいのか、分からなくなるだろう。またそれ以前に、現象は複雑に記述しようと思えば、いくらでも複雑に記述できるので、現象の記述自体を終えることが、できなくなるかもしれない。

しかし、ここで疑問である。

どうすれば、現象の記述の複雑性を縮減することができるのだろうか? 何を基準にすれば、現象の複雑さを制限することが許されるのだろうか? そしてさらに、どうすれば、あまた存在する原因候補の中から、当該の現象を首尾よく制御することに最も役立つ原因を、我々は特定することができるのだろうか?

おそらく、現象の説明の仕方、記述の仕方、ある現象を引き起こす原因候補の列挙の仕方は、人それぞれであり、また、集団によって異なると考えられる。簡単に言えば、「周囲がそういう風な現象の記述を行うから、自分もそれにならう」というノリで、現象を説明する際の複雑さの度合いは、一定の枠内に収まっていると考えられる*3

例えば、某キリスト教団体においては、「マンションの20階から人が転落死した」という現象に対して、「神」といった物象化概念を動員し、「これは神罰である。神が罰を下したから、死んだのである。」という説明がなされるかもしれない。また、沖縄においてであれば、「あんた。うがんぶすくよ〜!!(先祖供養が疎かなので先祖の霊が子孫に悪さしている。だから、ちゃんと先祖供養しなさい)」とユタに言われてしまうかもしれない。

このような状況は、いわゆる科学的と称される集団においても、ある程度は同様だと私は予想している*4。既に、集団内において、雛形となるような「現象に対する説明の仕方」が用意されており、それを人々は、インストールして使いこなしている可能性が高い。

私は別に、集団には特有の災因論が存在しており、それに沿って人々が思考していることを、批判したいのではない。

「型にはまった思考をやめて、今こそ目覚めろ!」とか言いたいわけではない。

ただ、ちょっと心配なだけである。

例えば、「マンションの20階から人が転落死した。」という現象に対して、「ある薬剤の摂取」がその原因として語られ、「マンションの20階からの転落死」の防止策として、「ある薬剤の摂取」が全面的に禁止されたとする。

しかし、もしも、「ある薬剤の摂取」を禁止したばかりに、「ある薬剤の摂取」が、もしかしたら食い止めていたかもしれない、「ある病気の進行・重症化」が実現し、そのことにより、死亡者や、病気の後遺症で苦しむ人間が増加してしまったら、悲しい。

「犠牲者をこれ以上一人も出さないようにする」という目的を掲げるならば、今回私が例として挙げた「マンションの20階からの転落死」という出来事は、どのように分析され、その結果、何が原因として特定されるべきだろうか?

参考引用文献

浜本満 1989 「不幸の出来事 : 不幸の語りにおける「原因」と「非・原因」」 吉田禎吾編 『異文化の解読』 55-92 平河出版

実践としての統計学

実践としての統計学

*1:これも物象化の産物のような。

*2:念のためあらかじめ言い訳をしておくが、物象化に気付けることを、私は、「優秀であること」の証明や「頭がいいこと」の証として、持ち上げているわけではない。物象化に気付けない人を卑下したいわけでもない。このような物象化概念が、当事者にとっての問題解決に役立つのなら、私は一切口を挟むつもりはない。ただし、事態をいたずらに混乱させ、どのような対処策を打ち出せばいいのか見当がつかなくなったり、物象化概念の導入によって致命的な不利益を私の仲間が蒙ることになりそうであるならば、私はその時になって初めて文句を言いたいと思う。現状を打破することを、物象化概念が阻むのならば、このような物象化概念の使用を私は徹底的に非難する。例えば、交通事故を防ぐという目的を設定し、この目的の達成を物象化概念が邪魔することがあれば、「役に立たない」という理由により、私はこの物象化概念を議論に無用なものとしてその場から一掃するつもりである。「交通事故は妖術のせいだ」とのみ語り、交通事故の具体的な防止策について一切意見を言わず、ただただ議論の場を混乱させる輩がいたら、徹底的に議論を仕掛けたい。また、「交通事故は妖術のせいだから、妖術返しの技術を用いて、こちらに仕掛けられた妖術を跳ね返しましょう」と述べる人がいたとしても、「仮に、交通事故が妖術のせいだとしましょう。で、その妖術返しという対応策で、交通事故を防ぐことは実際に可能なのですか? その対応策で果たして本当に交通事故が防げるのですか? 防げると言うのならば、その根拠を提示して下さい。」とその人物に質問を投げかけたい。たとえ実用的な観点から提出された意見だとしても、実際には役に立たない意見であるならば、私は遠慮なく批判する。逆に、現状変革に役立つのならば、物象化概念が登場していても、私は全く構わない。

*3:エントリーの前半において重森は、「原因特定の方法その1─通時的探索」と「原因特定の方法その2─共時的探索」の説明の際に、「原因の候補」としていくつかの出来事を列挙しているが、これらは、間違いなく、なんらかの型に沿って重森が思考した結果、選ばれるに至った出来事に他ならない。つまり、重森は、無数に存在している出来事の中から、特定の出来事を勝手にピックアップしている。重森による、このような出来事の、取捨選択が、問題解決に役立つという保証は、全くない。したがって重森は、非常に不安を感じている。

*4:あくまで予想である。私は科学についてよく知らない。科学と非科学を区別する基準もよく知らない。今後の課題である。