アコークロー

下記の映画予告を見て、ふと昔のことを思い出した。

http://aco-crow.com/

私が小学校3年生の頃。

近所の森を徘徊することを趣味としていた私は、ある日、年のころ50から60代の男性に出会った。気絶しそうなほど美しく激しい夕暮れ。木々の緑が次第に漆黒へと変わっていく。そんな時間帯に、である。

お拝所(おはいしょ)あるいは御願(うがん)と呼ばれる石造りの建築物に、その頃から並々ならぬ興味を抱いていた私は、森に入ってはそれらを眺め、その場に立ち込める妖しい雰囲気を、味わうことが好きであった*1

「えーひゃあ! まじむん*2がでるよ!」とその男性は怒鳴った。

その日の私は、2人の友人と一緒だった。私は「おっさんは嘘を付いていない」と判断し、「すいません。帰ります。」と謝り、すぐさまその場から去ろうとした。

そんな私に対して、他の友人たちは、「えー!おまえなにびびってるわけ?」と不平を言ってきた。友人たちは「まじむんなんているわけねーだろ。ふらーあんに?」と、おっさんと、彼に対する私の従順な態度を、責めたてた。

当時の私はおそらく、「おっさんは嘘を付いておらず、真剣に私たちに注意を呼びかけている。だから、まじむんが存在していようといまいと、その気持ちを無駄にするのはいかがなものか」と説明したかったのだと思う。しかし、あの時はこのようには説明することができず、なんとなく「んんん」という妙な音を出し、私は友人たちを促して、森の御願所を後にした。

あのおっさんは本気で怒っていたと、私は今でも思っている*3

何年か経ち、現役のユタや、その関係者から話を聞き、まじむんや霊といった悪しき存在を認めざるを得ない人々がいて、そのような世界にチューンがあってしまった人たちが、そのような世界にチューンがあってしまっているばかりに、そのような世界にチューンがあっているからこそ初めて有用or有効となるような、お払いや呪い返し*4といった技術により、確かにプラクティカルに救われていくことが、理解できるようになった。

私は、今回のアコークローのような映画が、あまりにも説得力がありすぎる映画であった場合、沖縄におけるそのような世界に対するチューン合わせ運動の度合いが強化されるのではないか、あるいは、チューンが合わせられる対象である世界自体のあり方を変容させるノイズとして、この映画が働くのではないかと、睨んでいる。「model of reality」*5であるところの今回の映画が、まさに沖縄に住むユタやその関係者によって、どのように受容され解釈され、「model for reality」*6として機能するのか、興味がある。

しかし、特報と予告編を見てみたところ、この映画の説得力について疑問を持った。きじむなあ的な赤髪の人の赤髪がちゃちい。この人は憑依される人だろうか? 乱れてばさばさになって、前にも後ろにも伸びた状態で、なんらかの場面で血が頭にかかって一時的に赤く染まるのならまだしも、半永久的な赤髪、かつ、なかなかお洒落で今風であるならば、ちょっといただけない。安っぽい感じがする。それと、帝都物語に出てきたような得体の知れない昆虫のようなもの。あれはちょっと出さないほうがいいのではないか? まじむんとか幽霊とかいった「のっぴきならないもの」の実体は、なるべく見えないようにし、語りや事件そのものの奇妙さによって、その存在を浮かび上がらせて感じさせたほうが、怖いのではないかと、個人的には思う。実体が見えてしまったら、私は興ざめしてしまう。見えないから怖いともいえるのではないか?*7 その意味では、木に吊るされた物体はGOOD! 非常に怖い。中に何が入っているのか分からないからこそ怖い。猫*8の死体でも入っているのだろうか?*9 最後に、ユタのねーちゃんが綺麗すぎる。もっと癖のある、胡散臭いおばさんを出したほうが本物っぽくていいのではないか?*10 

言うまでもなく、まだ全編を見ていないのに評価するのは、ルール違反である。

夏に必ず見に行こうと思う。

*1:例えば、私は鳥居も大好きである。誰がどういう意図でデザインしたのか分からないが、私は鳥居に惹きつけられる。なぜ惹きつけられるのかは分からない。しかし、人を惹きつける形というものはあるのだと思う。同様に、地図上の記号として、寺院を表す卍という形や、ナチスドイツのハーケンクロイツにも私は妙に惹かれる。理由は分からない。

*2:いわゆる妖怪

*3:森や御願に行くときは、ビニール袋に入った塩を持参していた私は、結構向こうの世界に親和的な子どもであった。しかし、今は「文化からいちぬけた」状態の、冷めた人間になってしまっているので、塩など決して持ち歩かない。

*4:沖縄口で何というのか忘れた。

*5:現実のモデル

*6:現実のためのモデル

*7:怖さには、二種類あると思う。1、「何がなんだか分からないことに起因した恐怖。漠然としていていまだ把握できていないことからくる恐怖。正体不明であるからこそ感じさせる恐怖。」 2、「既に姿や特徴や本体が把握されたうえで、その凶暴さや獰猛さ危険さが与える恐怖。」 1と2を比較した場合、両者とも恐怖を与えるが、1の恐怖が人を最も怯えさせると思う。訳が分からないものに対しては、対処のしようがないから。対策が立てられないから。どう対処していいのか分からないものに対する恐怖のほうが怖いのではないか。

*8:いわゆる、まやー

*9:あるいは、魚の目玉か。きじむなあは確か、魚の目玉が好物だったはず。

*10:近所のてんぷら屋のユタがいい。ちなみに私が、もしも霊やきじむなあといった「のっぴきならないもの」を沖縄を舞台にして描くとしたら、必ず基地や米兵や日本兵や住民虐殺や勉強しかできない透明な存在的中学生やいじめと絡ませたいと思う。そして、ものすごく残酷で悲しく恐ろしい映画を撮りたいと思う。見たら二度と沖縄には行きたくなくなるような凄惨かつ残酷かつ陰鬱な場として、沖縄を描きたい。癒しとか青空とか綺麗な海とか優しいおじいやおばあなど絶対に撮りたくない。こんなものだけが沖縄だと勘違いされたらむかつく。