今日の収穫

天気が良かったので、外出してみた。

とりあえず空を見ながら歩く。青い。木々の緑が映える。

風も強く、Tシャツのうえに羽織ったシャツが騒がしい。ミュージシャンのプロモーションビデオとかでありがちな、風がどっかから吹いているおかげで髪やら服やらがバサバサ大騒ぎになってなかなか格好いいですよ状態。

シャツのバサバサを楽しみつつ北千住駅に向かう。行く先は電車に乗ってから決めることにする。

日比谷線で上野に出て、そこからなんとなく山手線に乗り換える。乗り込んだ電車は、品川方面行きの電車であった。席に座り、どこで降りようかと思案する。

いろいろ考えるところがあったので、目黒駅で降り、目黒寄生虫館を見学しに行くことにする。

目黒寄生虫館は結構混んでいた。なぜかカップルが多い。雑誌か何かで宣伝されたのかもしれない。私はそこで、「トキソプラズマという寄生虫は、猫を介してヒトに侵入し、特に妊婦がトキソプラズマに初感染した場合、流産や奇形児が生まれやすくなること」を再確認した。

つい先日、妊娠6ヶ月の友人から「妊娠中におけるタブー」について、話を聞く機会に恵まれた。ほとんどが食生活に関するタブーであった。あれは食べてはいけない。あれも食べてはいけない。妊婦は食事に気を遣うことがありありと感じられた。話を聞きつつ私は、トキソプラズマのことを思い出していた。

トキソプラズマとは寄生虫の名前である。学部時代の卒業論文発表会にて、私はこれに関する発表を聞いたことがあった。その発表は、福岡県か山口県のどこかの川辺の集落における寄生虫に関するものであった。内容は、寄生虫がヒトの成長・発育に及ぼす影響と、戦時下の日本における徴兵制度との関係を論じるものであった(←うろ覚え)。その文脈で発表者は、その集落に伝わる「妊婦は猫を触ってはいけない」という「迷信」を紹介した。

寄生虫の人体への影響について、当時の人々は全く知識を持ち合わせていなかった。その地域では、寄生虫の存在すら認識されていなかった。しかしそれでも人々は、「猫との接触」と「妊婦の流産・奇形児の出産」との因果関係には、薄々気付いていたらしい。発表者は、この「妊婦は猫を触ってはいけない」という「言い伝え」あるいは「迷信」を紹介することにより、その地域が寄生虫感染による被害の多発する環境であったにも関わらず、人々が寄生虫という真の原因についていかに無知だったのかを、示唆したかったようであった。

発表後に、その場にいた仲の良い社会学者からコメントを求められた私は、発表者と聴衆に対して、次のようなことを述べた。

「すいません。本論からずれる発言をします。「妊婦は猫を触ってはいけない」という言い伝えは、トキソプラズマの存在を視野には入れてはいないものの、結果的には、トキソプラズマへの初感染による流産や奇形児の出産を回避させることに役立っていると思いました。その意味では、私は、その集落に伝わる「妊婦は猫を触ってはいけない」という言い伝えは、立派な「科学」であると思いました。以上です。」

すると別の社会学者が、私に横から突っ込みを入れてきた。

「いや。それは科学ではない。重森君のいう科学は、科学ではない。ポパーによると、科学とは反証可能性を備えた言明に限られる。」

私はむっとして、次のように返答した。

ポパーについては私は良く知りません。私は、なんらかの言明が実用的でありさえすれば科学と呼んでいいと思っています。「妊婦は猫を触ってはいけない」という言い伝えは、当時の人々にとって役立つものであった可能性が高いです。科学かどうかよりも、役立つかどうかが私の関心事です。その地方における現地の人々が、彼らなりに世界を把握し、その把握に基づいて病気や災害の危険から身を守ることができていたという意味で、「妊婦は猫を触ってはいけない」という言い伝えは、科学と言うに足ると私は思います。」

社会学者は、落ち着いて次のように返答した。

ポパーによると、科学の定義はそういうものではないのです。反証可能性が重要なのです。」

議論が長引きそうだったので、議論は途中で打ち切られた。なぜ科学という言葉にこれほど拘るのだろう。目的が達成できればいいやんか。役立てばいいじゃんか。当時22歳の学部4年生だった私は、非常に不服であった。

あれから既に6年も経つのだが、ポパーの著書を私は一度も読んでいない。反証可能性がなんであるのかもまだ理解していない。「反証可能性が確保できている状態」とは、「どういう事例を挙げることができれば、その言明を否定できるのかがあらかじめ分かっている状態」のことであろうか? 例えば、「カラスは黒い」という言明は、白いカラスが一匹でも見つかれば反証できるという意味で反証可能性を備えている(従ってこの言明は科学的だ!)といえるのだろうか?このような理解で正しいのだろうか?

なんか違うような気がする。もしも私が上記で披露した理解が正しいのだとすると、6年前に私へコメントした社会学者は、誤りを犯していることになってしまう。なぜなら、「妊婦は猫を触ってはいけない(触ると流産や奇形児の出産に遭遇する)」という言明は、「猫を触ったけれど、流産や奇形児の出産に見舞われない妊婦」が一人でも見つかれば反証できるという意味で、反証可能性を備えたものであり、科学的と言い得るからである。

あの社会学者は優秀な研究者であった。だからおそらく、「反証可能性」に関する私の理解は間違っているのだろう。

現在の私であれば、すぐに統計学に頼り、疫学的な調査*1を実施したうえで、その結果を科学的な結論と呼んだりしそう*2である。トキソプラズマのことをわざわざ考慮しなくても、この比較調査は成り立つはずである*3

というわけで、長くなったが、今日はぷらっと、目黒寄生虫館に行ってみたのであった。

寄生虫館を出た後、次に私は本屋に行きたくなった。それも、近々会社で、プラセボと呪術に関してプレゼンを行う予定であることを思い出したからである*4。大きな本屋といえば、浮かぶのは紀伊国屋。私は迷わず、新宿を目指すことにした。

しばらく本を物色したあと、以下の本を購入。

パワフル・プラセボ―古代の祈祷師から現代の医師まで

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  • 作者: Arthur K.Shapiro,Elaine Shapiro,赤居正美,滝川一興,藤谷順子
  • 出版社/メーカー: 協同医書出版社
  • 発売日: 2003/05
  • メディア: 単行本
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偽薬のミステリー

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心の潜在力 プラシーボ効果 (朝日選書)

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プラシーボの治癒力―心がつくる体内万能薬

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ざっと読んでみたところ、最後の奴が一番面白そう。人類学者によるプラセボに関する研究が紹介されている。新薬開発の現場におけるプラセボ効果について専門的に論じている人類学者がいるとは知らなかった。

ついでに、ラトゥールの本も立ち読み。パストゥールが微生物を発見するまでは、この世界には微生物は存在していなかったというラトゥールの主張について、もっとちゃんと読み込んでみたい。

科学論の実在―パンドラの希望

科学論の実在―パンドラの希望

*1:「猫に触れた妊婦のグループ」と「猫に触れなかった妊婦グループ」による症例対照研究、いわゆる後向き研究を実施し、両者における「流産や奇形児の出産」の発生率を比較する。

*2:何らかの手続きや論証方法が、どうして科学的というお墨付きを与えられることができているのかについて、私は全く分かっていないので、このような行為は問題である。もっと勉強しないと。

*3:トキソプラズマに感染した猫と感染していない猫が存在するとは思うが、それでも猫に触れた妊婦の方が、全く猫に触れることのなかった妊婦よりも、流産や奇形児の出産に見舞われるだろうことが予測できる

*4:私が現在勤めている会社は、研究所あるいは大学の研究室のような雰囲気の会社だ。業務に関連のあるトピックを勝手に自由に発表する場が月に一回のペースで設けられており、その発表は実績として認められる仕組みになっている。で、私は、呪いとか儀礼とか科学とかについて興味があるので、なんとかして業務と関連させつつ、これらについて触れようと画策している。プラセボというトピックは、新薬開発の現場と密接な関係があるので、このトピックについてしつこく深く、私は発表し続けようと思う。そして統計学をある程度極めることができるようになったら、ラトゥールの『科学が作られるとき』における統計学に関する箇所について皆で議論したいと考えている。また常日頃から行っている「外界の情報を処理する仕方とその洗練方法」について学ぶために、ベイトソン浜本満の論文などを皆で読む企画を、打ち出したりしようと考えている。