読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

アコークローの感想

良かった点

  1. いまだその生態が明らかにされていない未確認の生物(?)としてキジムナーが描かれていたのは新鮮だった。脳が作り出した幻影ではなく、はたまた従来の幽霊や妖怪や精霊といったカテゴリーに含められるような存在としてでもなく、まさに「よく分からない存在」として、キジムナーが描かれていたことが、新鮮だった*1
  2. ユタがきれい。
  3. エンディングの「夕陽差し込む路地の風景」がよい。糸満のどこかの集落なのだろう。行ってみたい。
  4. 「めんそーれーしにへた!」に笑った。
  5. 浜辺の茶屋の景色が良い。あんなに海が近いのか。まだ行ったことはないけど、きっといいところだはず。
  6. ユタと主人公たちの本音トークの場面は、迫力があってよかった。沖縄出身の女優がユタを演じていたので、客に対するユタの説教風の接し方が、うまく実現されていたと思う。特にユタが「こういち!」と怒鳴る場面とか。
  7. 死んだはずの赤い髪の女性が、生きている人間のように描かれていたのが面白かった。良くも悪くも全然怖くない。「あい。そこにいるよ。」と、私がこれまでインタビューをしてきたユタ達は、猫でも見つけたかのような口調で、そこかしこに霊の姿を認めた(もちろん私には見えない。)。このような、霊が恐ろしいものとしてではなく、当たり前の存在として受け取られているという沖縄の現状を、この映画はしっかりと踏まえていると思う。死んだはずの赤い髪の女性が、堂々と家の中に立っていたり、木からぶら下がっていたりすることは、いわゆる従来の霊なるものが与えるような怖さを、人に与えない。「死んだはずの人間」が目の前に現れるということが、この映画では、ことさら騒がれることなく、「ああ。霊か。」とでもいうような調子で認知されてしまうような、包丁で指をちょっと切っちゃったみたいな、あるいは、交通事故に遭って怪我をしたというような、「あまり好ましくないがよくある出来事」として描かれていた。この点には大きく同意できる。「霊の出現なんて日常茶飯事のことなので特筆すべきことではない」とでもいうような、沖縄における「霊の存在に対する当たり前感覚」がちゃんと描かれていて良かった*2

悪かった点

  1. 幽霊やキジムナーの演出が貧乏臭い。はっきり言って怖くない。むしろ滑稽。意図して幼稚な演出を行っているのならば話は別だが、客を怖がらそうとしてあのような演出しかできないのならば、問題だと思う。映画の質を落としかねない*3
  2. なんで赤い髪の人には鎌が深く刺さるのか?
  3. ユタを格好よく描こうとしすぎ。小説家でタバコをスパスパ吸いまくる若い女性のユタという設定はいかがなものか。ユタの描かれ方が悪い意味で格好よすぎるために、ユタがユタらしくない。地に足の着いていない印象を与える。ユタの職業は、てんぷら屋ぐらいがいいのではないか。
  4. 話の流れが唐突すぎる。なぜあの場面でハブに咬まれるのだ。話が出来すぎている。都合よすぎる。
  5. キジムナーを彷彿とさせる格好を、あの女性がしている理由が分からない。なぜ髪を赤く染めている必要があるのだろうか? 映画製作者側としては、「赤い髪の女性=キジムナー」という等式を、観客に受け入れてもらいたいのであろう。しかし、やり方がうまくないと思う。無理やりこじつけすぎているように思える。もっと、さりげなく、しかし確実に、「赤い髪の女性=キジムナー」という等式を観客に植え付ける方法はないのだろうか?
  6. ユタのセリフが、台本をそのまま覚えたような棒読み調だったのは、意図されたものなのか? ユタ役の女性の演技が単に下手なのだろうか?
  7. 「赤い髪の女性」殺人犯たちが、自分の目玉をくり抜こうとするのはなぜ? 彼らは、赤い髪の女性を、キジムナーと同一視しすぎ。同一視するのは構わないが、同一視するに足る理由が説得的に示されていない。赤い髪の女性の髪は文字通り赤い。キジムナーの髪は赤い。だから赤い髪の女性はキジムナーだ。という素朴な三段論法のみでは、私は不満足だ。納得できない*4。「赤い髪の女性=キジムナー」という等式を、観客が受け入れざるをえなくなるような仕掛けを、映画製作者側は洗練させるべきだと思う。この点に関しては、やはり京極夏彦氏による一連の著作が参考になると思う。彼は、現象自体の特徴を精密に描き、その現象自体に付与されてしかるべき名前として、妖怪の名前を効果的に持ち出す。現象そのものを、妖怪として認識するように、うまく読み手を誘導していく。次第に読み手は、現象を妖怪の特徴において、かつ、妖怪を現象の特徴において眺め把握し理解するようになる。そして次第にこの往復運動は、「現象=妖怪」という等式を強固なものにしていく。読み手の認識のあり方は固定され、もはや現象は、妖怪以外のものとしては認識できなくなる。京極夏彦氏はこの点を熟知しており、これを実現させる方法に秀でていると思う。もっとも、小説と映像とでは、視聴者を引き込む仕方が若干異なるのかもしれない。小説には小説独自の、映像には映像独自の、「人を引き込む演出方法」が存在していると思われる。「見せ方」に関するレパートリーが両者では異なると考えられる。しかし、「赤い髪の女性=キジムナー」や「久遠寺姉妹=姑獲鳥」といった、物語提唱者側がその客に受け入れてもらいたい等式、共有して欲しい認識を、よりよく違和感なく鮮やかに視聴者に植え付ける方法には、小説にも映像にも共通した点があるのではないかと、私は予想している。人になんらかの認識を共有させたいのならば必ず使用するべき基礎的なテクニックがある。このように私は予想している。

全体的な感想

映画冒頭でユタは、元カレの霊(?)に苛まれる女性に対して、霊(?)のお払いが終わった後に、「すべてはあなたの脳が生んだ幻影」と語る。

しかし、キジムナーという存在は、「よく分からない存在」として、ユタに説明される。つまり、キジムナーは、「脳が生んだ幻影」という、京極堂風の解釈では捉えきれないものということになる。

私は次のような疑問を持った。

冒頭で「脳が生んだ幻影」というセリフを出しておきながら、キジムナー(と赤い髪の女)については、そうではないような描き方をするのは何故なのだろうか? 

一貫していないのである。この一貫のしなさは、何に起因しているのだろうか?

「よく分からない存在」は、いわゆる「科学」の進歩とともに、その正体が完全に把握され、既知のものとして理解済みにされた途端、それまで備えていた不気味さを失う。恐怖の対象であり続けたとしても、その恐怖の質は異なる。こちらの理解の範囲を超えた、手持ちの世界観・秩序では説明できないイレギュラーな存在だからこそ、持つことができる怖さというものがあるはずだ。

このような考え方を、この映画を作った監督は持っていたのではないか。だからこそ、キジムナーはユタによって、幽霊や妖怪とは違った、「よく分からない存在」として説明されたのではないだろうか。

映画製作者側は、キジムナーの不気味さ、キジムナーの不可思議さを、あくまでも一切減じることなく強調・報告したいがために、キジムナーを、今はやりの京極堂的脳還元説に基づいて「全ては脳が作り出したまぼろし」としてではなく、かといって従来の幽霊や妖怪や精霊といった、「よく分からない存在」だけれどもなんとなく市民権を得た当たり前の存在としてでもなく、「謎の生命体」として描くことにしたのかもしれない。 

そうすると、このアコークローという映画で展開されているのは、「孤独な人間には、普段はガジュマルの木に潜んでいるキジムナーという謎の生命体が寄生し、「大の男を跳ね飛ばす」「遠隔地からもう一人の自分を飛ばし、生身の人間のように活動させることができる」「木に逆さまになってぶら下がる」といった、人間離れした能力を身に付けさせる。」という、キジムナーに対する、従来の解釈とは異なる新解釈(ややSFチックな)といえるだろう。

しかし、幽霊でもなく妖怪でもなく精霊でもない「未知の生命体」であるところのキジムナーが、どうしてユタのお払いによって退治されてしまうのだろう。ユタのキャパシティーは意外と広い、ということだろうか。

*1:このことをユタが客に説明するのも面白い。やっぱりユタは医者か探偵か科学者のようだ。説明飢餓で苦しむ人々に物語を提供する謎解き係。

*2:しかし、私がこのような感想を持つのは、映画製作者側による霊の演出の仕方が単に下手だからなのかもしれない。映画に登場する霊はちっとも怖くない。このことが、「霊に対する沖縄人特有の感受性」とやらに、私を思い至らせている可能性がある。本当は、映画製作者側は、霊で客を怖がらせたかったのかもしれない。しかし怖がらせる技術が稚拙なために、怖がらせることに失敗しているのかもしれない。

*3:「はい。これは幽霊です。血が出てます。顔色が土気色です。目が血走っています。」というナレーションが聞こえてきそうな、あからさまに幽霊なるものをドーンと提示するやり方では、恐怖をかきたてることは難しいと思う。熊やライオンや毒蛇を目の前にしたときの恐怖とは異なり、幽霊なるものが与える恐怖というものは、もっと別の、よく分からない理解できない把握できない意味が分からないという点、存在そのものが不気味だという点に起因した恐怖だと私は思う。幽霊は、あまりにもあざとく鮮やかに物体として見せてしまうと、興ざめだ。見えたとしても、ほんの一瞬。あるいは、声だけとか。手だけとか。見えるとしても姿がぶれているとか。あるいは、諸々の出来事を綿密に検証した際に、どうしてもつじつまが合わず、不可解な点を補うミッシングリンクとして、どうしても間接的に想定せざるをえないような、あぶり出してようやく浮かび上がってくるような存在としておぼろげに描くほうが絶対怖い。姿を見せるよりも、その姿を勝手に一方的に想像させたほうが、よっぽど怖い。

*4:ここで私が抽出してみせた三段論法は、『精神の生態学』292ページにおいてベイトソンが注意を促す論法と同じだ。すなわち「人は死ぬ。草は死ぬ。人は草である。」という、「三段論法の規範的構造から逸脱(ベイトソン 2000:292)」した論法。このような「述部が同じものを同一視する」という思考法は、分裂病者だけでなく、すべての人間に親和的な思考法だと私も考える。しかし、今回のようなこの論法の使用法は、私を納得させてくれない。これは何故だろうか。隠喩があまりにも隠喩として明示されすぎているからだろうか。簡単に言えば、「これみよがし」だからだろうか。ちょっと分からない。ちなみにベイトソンは次のように述べている。「〜隠喩というのは、人間の思考と表現の道具として欠くことのできないものであり、すべての人間のコミュニケーションが具えた特徴だという点を考慮しなくてはならないと思う。科学的なコミュニケーションさえ、隠喩によって支えられている部分が大きいのである。サイバネティックスの概念モデルにしろ、精神分析で使っている「心的エネルギー」に基づく概念モデルにしろ、表示のついた隠喩(隠喩であることが明らかにされている隠喩)の群れにすぎない。分裂病者の特異性は、隠喩に走る点ではなく、それが隠喩であることが表示されない隠喩を使う点にある、と明記すべきだ。(ベイトソン 2000:292-293)」 ベイトソンが言及する「三段論法の規範的構造から逸脱」した論法、あるいは彼によるアブダクションという思考法に関する『精神と自然』での指摘は、「分かる」という現象や、「納得する」「真に受ける」という現象のメカニズムを解明するうえで、非常に参考になると私は思う。しかし私はまだこの遺産を使いこなせていない。くやしい。ところで、ちょっとグーグルで検索してみると、次のような興味深い論考も見つけることができた。読んでみたがいまいち釈然としない。もっと読んでみよう。http://www.genbaken.com/contents/discussion/nakashima/nakashima1_0.htm