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某映像製作マニアとのコラボ開始

本業である翻訳業の傍ら、映像製作を生きがいにしている幼馴染のC氏より、作品製作への協力を依頼された。絵コンテと、現在作成中の映像のカットを見せてもらいながら、作品の構想を聞かせてもらった。

私はあまりのその内容の素朴さに驚いてしまった。要約すると、C氏が作品で強調して描こうとしているのは、「テレビや雑誌における広告によって、人々をいたずらに消費へと駆り立てる悪意に満ちた資本家」であった。このことをC氏は、CGや実写映像を駆使してひたすら強調しようと目論んでいた。C氏の構想に、私は既視感を覚えた。何のひねりもなく、ただ単に大量消費社会を批判するだけのありきたりな作品に思えたのである。

私は包み隠さずに自分の意見をC氏に伝えた。

「古いと思う。このような作品は、今まで何度も作られてきたんじゃないか? こんなんじゃ受けないと思う。見ていてお腹いっぱいな感じがする。もういいよと思う。この作品に感化される人はいないのではないか? もうちょっと別の切り口を探したほうがいいんじゃないか?」

するとC氏は次のように答えた。

「他の人にも構想を聞いてもらったが、ほとんどの人に古いと言われた。確かに俺もそう思う。同じような主張の作品は、過去にいくつも作られてきた。お前、『ゾンビ』とか『ゼイリブ』とか、『ファイトクラブ』という映画を知っているか? これらはすべて大量消費社会を批判する作品だ。俺が作ろうとしている作品は、その意味では新しいものではない。しかし、俺は、言い続けることに意義があると思う。見てみろ。状況は変わったか? 昔から大量消費社会に対する批判はあった。しかし、現状は全く変わっていないじゃないか。みんな、必要ではないものを買い、やみくもに消費し続けている。だから、俺の作品には意味がある。つまり、俺が作ろうとしている作品は古くて新しい作品だ。」

私は自分の意見が歪だったことに気付いたので、次のように返答した。

「なるほど。お前は、今まで何度も繰り返し伝えられてきたメッセージを、あえて反復して伝えようとしているということか。自覚的なわけだな。すまん。俺は、どうしても作品というものを、新規かどうかという観点から評価してしまう癖があって、メッセージ自体を繰り返すことの重要性を忘れていたと思う。」

すると、C氏は下記のように述べた。

「世の中、シニシズムが蔓延しているよな。達観して俯瞰したつもりの人間が多くなっているように思う。俺はそうではない。例えば、『ファイトクラブ』という映画のラストに関する解釈についてだが、あれは3通りの解釈が成り立つ。1つは、カード会社を爆破することで、大量消費社会を見事に破壊したという単純な解釈。2つ目は、ブラッドピット演じるタイラーが作中の映画館でやっていたような、○○○の画像のサブリミナルな挿入がラストにあるんだが、このことから、この大量消費社会を批判する『ファイトクラブ』という作品さえ、大量消費社会における商品の一部でしかないと見なす、シニシズムな解釈。3つ目は、ラストにおける○○○の画像のサブリミナルな挿入の存在を、タイラーのような大量消費社会に不満を持つ反社会的な同士がどこかに存在し活動している証拠とみなすという解釈。俺は、断然3つ目の解釈が好きだ。」

機関銃のように話すC氏に圧倒されつつ、私は次のように答えた。

「『ファイトクラブ』は俺も見たことがある。だけど、ラストの場面ってそんな意味に解釈できるとは知らなかった。もちろん俺も3つ目の解釈が好きだ。」

そう言うとC氏はすかさず次のように言った。

「そうか。なら協力してくれるよな?」

私は頷いた。

協力することをいやいや承諾したわけでは決してない。基本的に私は、何かを作ることが好きなので、いろいろ考えるところはあったが*1、C氏の申し出を引き受けることにした。それにしても、C氏は今時珍しく熱いうえに強引だ。この性質は、なんらかの社会的な運動を行ううえで、有利に働くと思う。

「あと、『ゼイリブ』って映画だけど、あれは傑作だ。サングラスをかけると、地球人を新聞や広告で巧みに洗脳し、搾取しているエイリアンの姿が見えるって設定で、真実を知った主人公は、エイリアンとそれに組した人間だけが裕福になっていくように設計された社会を破壊するべく、反社会的な活動に乗り出す。で主人公は、自分の仲間にも、真実を知ってもらいたいのだが、仲間は、反社会的な活動を行って警察にマークされてしまった主人公と関わることで、自分の家族に迷惑が及ぶことを危惧し、サングラスをかけてくれという主人公の要望を頑なに拒否する。しかし主人公はあきらめずに、真実が見えるようになるサングラスを、無理やり仲間にかけさせようとする。そして10分ぐらい二人は格闘する。ラリアットしたり組み合ったりして、要するにプロレスする。そして、力尽きてしぶしぶサングラスをかけた仲間は、主人公と同様に真実の世界に驚き、怒り、主人公に協力するようになる。あの場面はいい。俺は、この路線でいきたい。俺は、今の社会を挑発するような作品を作りたい。」

熱い。C氏は熱い。好きな映画について語らせたら、ずっと一人で喋り続ける。

思えば私も、この世界を激しく憎んでいたことがあった。「大量消費社会=ものを消費しない人間は死ぬべき社会=金を稼げない人間は死ぬべき社会=能力のない人間は死ねべき社会」という図式のもとで、世界を把握していた私は、10年前は確実に怒り狂っていた。学校で優秀な成績を納めることを絶えず期待され、そして企業でも同様のことを期待される。そして周囲からだけでなく、自分が自分に課す期待に押しつぶされ、期待通りの自分になることができないことを苦にし、自殺したり精神的な病に罹ったりしていく人々。そのうちの一人は紛れもなく自分であると、このように10年前の私は、自分自身について、自分自身が生きる世界について、理解していた*2。そして怒り狂っていた。そんな私だったから、ある友人からは「しげちゃんがもしも60年代に学生だったら、絶対に火炎瓶投げているね」と言われたことがある。

「お前は、昔と較べて、冷めたよな。もっと昔は熱かったのに。」

C氏は私に言う。

怒りが消えたわけではない。私は現状に満足しているだけである*3。今のところは。もしも実際に自分が偽装請負や違法なリストラなどの被害に遭うことがあれば、私はしっかり怒るだろう。能力以上のことを仕事で要求され、そのノルマをこなせないことを理由に理不尽な扱いを受けたのならば、怒りつつ猛烈に反発するだろう。だからそのことをちゃんとC氏には伝えた。冷めたわけではない。今のところは落ち着いているだけだ。C氏にはこのように伝えた。

帰り際、C氏に強く勧められ、『ファイトクラブ新生アルティメットエディション』というDVDをタワレコで購入した。約4000円だった。大量消費社会を批判する作品を消費する自分をしっかり感じながら。

とりあえず、今一度『ファイトクラブ』を見直してみようと思う。

*1:まっさきに頭に浮かんだのは、「大量消費社会(←つーかこの言葉の定義自体がよく分からん)は、そもそも批判されるべきものなのだろうか?」という疑問である。店と客が存在しており、店の人は商品を客に売らなければ生活することができない。つまり、どうしてもこの社会において消費することは必要不可欠な行為である。それを全面的に人々がやめた時、企業の倒産が引き起こされ、そして、大量の失業者が生まれるのではないか。もちろん、いつものように私は極端に物事を考えている。大量消費社会に対する批判は、「モノを買わせるな。モノを買うな。」ではなく、「モノを必要以上に買わせるな。モノを必要以上に買うな(あるいは、非合法的非倫理的な方法で生産された商品を買うな)」という批判であることを私は知っている(しかし、どこまでが「必要」でどこからが「必要以上」なのだろうか?)。要するにアクティビスト達は、消費行動が極度に活発化され、その頻度が異常なほど多いことに警笛を鳴らしているのだ。このことは理解している。

*2:しかし今は分からない。あまりにも世界は複雑すぎて、何かを何かのせいにすることに私は、躊躇してしまうようになってしまった。なんらかの出来事を引き起こす原因として、なんらかの出来事を持ち出すことに、自信がなくなってしまった。原因となる出来事と、結果となる出来事を、より正しく適切に理に適った仕方で結び付けて提示する方法の探求に、現在は関心が、シフトしている。

*3:現在の自分が所属している労働環境には特に不満や文句はないということである。もちろん、他の人々が不当に扱われていることには怒りがわく。しかしその怒りは、自分が当事者であるときに感じる怒りとは、やはり異なる。後者の怒りのほうが、前者の怒りよりも激しい。私はなによりも自分を第一に考えるのである。私は、私が楽しく生きることができるように、行動したい。もしも私がより生きやすくなるような社会の構築を推進している人々がいるならば、私は彼らを応援したいと思う。できる範囲で。先日、秋葉原ヨドバシにある本屋で、雨宮処凛さんによる『生きさせろ! 難民化する若者たち』という本を立ち読みした。派遣やバイトの人間に対する企業の理不尽な扱いに、怒りを覚えた。もしも自分がそのような扱いを受けたならば、私は迷うことなく経営者に喧嘩を売るだろう。余裕があれば、運動を開始するかもしれない。私は、雨宮さんのように実際に日本における労働環境を改善するための行動はしていないが、彼女の活動は応援させていただきたいと思っている。