フィールドにおいて超常的な存在を知覚してしまった人類学者はいかなる民族誌を書くべきか?

共同研究室で石井先生の『精霊たちのフロンティア』を読んだ。すごい。びっくりした。まさかこのような記述に遭遇するとは思わなかった。石井先生は調査地における超常的な存在である「小人」を、その目で見てしまったようなのである。

私は、現地の人々が語る超常的な存在を調査地において知覚してしまった人類学者が、そのことを論文に記述しても全く問題ないと思う*1

ただし、ファブレサーダについても、保苅さんについても、同じようなことを私は既に述べているのだが、それだけだと私は不服である。やはり、そのメカニズムの探求も同時に行って欲しいと思う。

以下、問題の記述が含まれた箇所を前掲書より引用しつつ、私のコメントを記す。

「小人」を見てしまった人類学者

問題の記述が収録された章において、まず石井は次のように切り出す。

 本章の最後ではひとつの試みとして、人類学的な現地調査の場、いわゆる「フィー ルド」におけるわたしの経験を考察の対象としてみたい(石井 2007:263)。

そして、石井は自らの経験を語る前に、身体というキーワードを用いながら、フィールドとそこを訪れる人類学者の関係について次のように述べる。

 まず、わたしたちが調査者としてフィールドに住むという状況一般について考えてみたい。先ほど述べたように、人が身体的な存在として世界に住みなすということは、身体を介した世界とのやりとりに習熟するということを意味する。この習熟の過程とは、私=身体が自己をとりまく環境を分節することであり、そのなかでの自己の位置や運動を把握することである。この過程はまた、世界/環境と身体のやりとりが習慣化していくとともに、私にとって世界が見なれぬ光景から見なれた風景へと変貌していく過程、つまり自然化していく過程でもある。
 新たな世界/環境に参入したときから進行するこうした環境への慣れと世界の自然化のプロセスは、フィールドに参入した人類学者にも不可避的に訪れるものだと思われる。ただし調査者である「私」は、自分が追求すべき事柄について執拗に問いつづけることで、環境への慣れとともに生じてくる世界に対する問いの停止、つまり「自然な態度のエポケー」を部分的に押しとどめようとする。そのようにして私は、私にとっての「現-現実」ともいうべき馴染み深い日常生活への認識、いわば自分の手持ちの現実認識を保持し、新たな現実の位相がそれにとってかわることを避けようとする。
 そうした努力にもかかわらず、私の住むフィールドは、刻一刻と私にとっての新たな生活世界へと変貌を遂げてゆき、私の手持ちの現実認識を少しずつ侵食していく。私が追求すべき問題や方法論の外部にあると思われる事柄──たとえば日々の寝食や家事や他愛もないおしゃべりのように、生活上の雑事や気晴らしであると思われるような、それでいて根本的な事柄──は、私がその場所で暮らすことに身体的に熟達するにつれて自然化していく。「フィールド」は徐々に、私にとって生活空間としての密度と自明性をもちはじめる。
 以上のような過程はもちろん一般論にすぎず、フィールドがどの程度、そこに参入した調査者にとって自然的な環境となり、あるいは適応しがたい「異世界」のままにとどまるかは、個々人の資質や調査地の状況、あるいは調査の対象などによって千差万別であるに違いない。

「フィールドがどの程度、そこに参入した調査者にとって自然的な環境となり、あるいは適応しがたい「異世界」のままにとどまるかは、個々人の資質や調査地の状況、あるいは調査の対象などによって千差万別であるに違いない。」

こう述べる石井に対し、次のような疑問がまっさきに浮かぶ。

「「個々人の資質や調査地の状況、あるいは調査の対象などによって千差万別」と言うが、探求すべきはむしろ、これらではないのだろうか? これらの分析をスルーしてはならないのではないか? 考察すべき問題を考察せず、いきなり「千差万別」と結論だけを断言するのではなく、千差万別さを生じさせる要因の探求を行って欲しい。調査地が調査者にとって違和を感じさせないほど自然な環境になってしまうプロセスの解明。私が希望するのはこれである。調査地における現実に入り込むためには、どのような条件が揃えばいいのか? 」

しかしこの疑問はひとまず置いておかなければならない。我々は石井の報告にまずは神経を集中させるべきである。石井は次のように続ける。

 それでは、呪術・宗教的な諸現象を調査の対象とする人類学者の場合はどうだろうか。妖術や呪術、精霊憑依などの諸現象は、人類学者である私が「現実」の一部として認め、それに対する懐疑を忘れてしまうまでに自然化するには、あまりにわたしたちの常識的な現実認識からかけ離れているのではないだろうか。呪術・宗教現象は、結局のところ「彼らにとってのリアリティ」と「われわれにとってのリアリティ」を分かつものであり、私にとっての自然的現実と化すことを拒む最後の領域なのではないだろうか。
 (中略) 妖術や精霊や小人などというものは、理念上はあくまで私の身体的生と交わりあうことのない、「非現実的な」存在なのである。
 それにもかかわらず、実は私の身体において、超常的なるものとの頻繁な接触にともなう現象の自然化は、他の生活全般への慣れと同様に着実に進行している。不断に問いつづける姿勢を保ち、現象のあらゆる側面を分析的にまなざすよう努めながらも、私の身体は超常的なるものを環境の一部として認識し、現実世界の要素として分節しつつある。なぜなら、妖術や呪術や精霊の存在は、私がいま生きている日常の中に織りこまれており、生活の機微とあまりにも深く絡みあっているために、それだけを「非現実的なもの」として身体的な接触や分節から排除することは、ほとんど不可能なのである。私は日々、呼吸をするように超常的なるものの存在を吸収し、それらの存在に浸透されている。
 したがって徐々に、問いつづける分析者としての態度の背後から、生活者としての不問の了解が形成されてくる。ときに私は精霊憑依や儀礼の場において、問うことを忘れてただそこにいる自分に気がつく。私は超常的なるものに満ちた世界に「住み慣れてきた」のである。
 この段階において、私は日々の生活のなかに突如として精霊や小人や妖術者が介入し、それらの存在によって日常生活が絶えず攪乱され、あるいは異化されるという状況を自然な事態として受け容れはじめる。(中略) 以上述べてきたようなことは、わたし自身の調査において、どのような形であらわれたのだろうか。この点について「小人の出現」という、およそわたしたちが「現実」の一部としては了承しがたいと思われる出来事を例にとって考えてみたい(石井 2007:264-266)。

そしてついに石井は「小人を見た」と報告する。石井は当時のことが記載されたフィールドノートを披露する。

 午前十時すぎ、ナナ・サチがマラカスを振ってナナ・ボアフォを社に呼ぶ。三回目の呼び出しで、バン!という衝撃音とともにボアフォが社に到着する。布の向こうから激しいマラカスの音。ナナ・サチは片手で布をたくし上げ、中に向かって白粉と香水のスプレーを振りかける。やがて布の向こうを覗いてみるよう、ナナがわたしをうながす。わたしは布の端から首を突っ込み、中を覗き込んだ。一メートル四方ほどの空間の中ほどに、縞模様の小さなバタカリが脱ぎ捨てられている。天井からは黒い角型の依り代が吊り下がっている。そのほかには何もない。
 キャラコの外に顔を出して「何も見えなかった」とナナに告げると、彼は祭壇の窪みにヒョウタンを差し入れて霊水を汲み、それをわたしのまぶたに塗りつけた。布の後ろを再び覗き込むと、部屋の隅に縞模様のバタカリを着た身長七十センチくらいのものがいる。黒い長髪(縮れ毛?)が顔から足元までを覆い、からだ全体が小刻みに揺れている。「エエ、エフィア、オピアフォ!」というナナ・ボアフォの声が、それの方から聞こえる。できるかぎり首をのばし、まじまじと見つめているわたしをナナが引き戻し、「見たか?」と訪ねる。「見ただろう。彼はそこにいるんだ。」(ティガレの社にて:二〇〇五年八月)(石井 2007:266-267)

若干補足が必要である。上記フィールドノートにおけるナナ・サチとは、石井のインフォーマントである司祭である。そしてナナ・ボアフォと呼ばれるものが、例の小人である。石井は、ナナ・サチに召還された小人であるナナ・ボアフォを、社の中に目撃したのである。

「小人」を見てしまった人類学者によるその経験の総括


私は、石井が見たものは、小人ではなく、人形のような気がしてならない。

あるいは石井は人形を、小人として見ることができるようになった、とも考えられる。

上記のような私の場違いな発言はさておき、石井によるこの経験の総括を見てみよう。「小人を見てしまった」という自らの経験を、石井は次のようにまとめる。

 以上のようなわたしのささやかな経験をもとに、人が多元的な世界に住みなすということを、どのように考えることができるのだろうか。
 おそらく、人がある世界/環境を「現実的なるもの」として了解し、身体的な存在としてその現実を生きるということは、その世界に身をもって「騙される」こと、あるいは「とり憑かれる」ということにほかならないだろう。その意味で小人や精霊の存在だけを単独にとりあげ、それが真か偽かと問うことは、およそ無意味なことであると思われる。わたしにとって超常的な存在を擁する多元的なフィールドに住みなすということは、司祭や代弁者たち、憑依や儀礼の場に巻き込まれている人びともろともに、神々や精霊の跳梁する異界と結ばれた現実世界に身ぐるみ騙されていく過程であったといえる。その意味で、わたし自身の「手持ちの現実認識」を維持しつつ、その分節に基づいて事象を観察し質問を発しつづけるというフィールドワークの常道からは、ある時点で道を踏みあやまり、確固たる立脚点を見失ってしまったといえるかもしれない。
 だがここで、わたしたちの身体は世界との交感を通して不断に変態をくりかえし、複数の現実の間を往復するという可能性に目を向ける必要がある。一貫した自己の視点を維持することで「われわれのリアリティ」と「彼らにとってのリアリティ」の境界を保ち、前者によって後者をも分節しつくそうとするのではなく、私=身体の移動と変容にともなってどのようにそれぞれの世界が、あるいは私自身の身体が私を騙しはじめるのか、またそのことを通して、いかにしてこの世界/環境における私自身の生存が可能となるのかということを考えてみることが重要だと思われる(石井 2007:269-270)。

どうして「小人」が見えるようになったのか?


私は、社で石井が見たという小人は、いわゆる超常的な存在である小人ではなく、人間が操作している人形ではないかと疑っている。社の地面が怪しい。人が入れるぐらいの空間がそこにはないだろうか。そこに入った人間が、人形を巧みに操作し、小人を演出しているのではないか? あるいは、小人とは、そのような背丈を備えた人間ではないのだろうか? なんらかの病気により身長がストップしてしまった人間の雇用先として、小人という仕事が存在しているという可能性はないだろうか?

このように私は、石井によるショッキングな記述を前にして、徹底して疑ってかかっている。石井が見た小人を、小人以外のものとして私は捉えたがっている。

しかし、ここでトリックや種明かしの存在を想像することにはそれほど意味がない。問題はいつでもリアリティである。「小人を見た」という石井の報告を私はそのまま字義通りに受けとりたい。そしてそのうえで私は、次のように問いたい。

「どうしたら、人は小人を見れるようになるのか? 小人を見ることができる人には、何か共通した特性があるのか?」

相変わらず私はこのように問い掛けたい。

繰り返すが、人類学者が彼・彼女自身の経験に基づいて、論文に「小人を見た」と書いてもいいと私は考える。確かに見えてしまったのだから、石井先生はその著書に、そう書かざるを得なかったのだろう。

しかし、「小人が見えること」や、「その見えた小人を巡る数々の実践に人々(石井先生も含めて)が従事すること」について、これらを可能ならしめる要因の探求と、これらの現象のメカニズムの解明も、同時に行って欲しい。「ある環境に慣れること」あるいは「騙されること」あるいは「とり憑かれること」。「小人が見えるようになったこと」をこれらのような言い回しで言い換えるだけではなく、このことを可能ならしめる要因を明らかにして欲しい。

このような民族誌はこれまで何度も書かれてきた。調査者が現地の人々が言及する超常的な存在を真に受けることは、それほど珍しいことではない。しかし、いつもそのことだけが記述されるばかりで、そのような現象がどのようにして生じたかについて十分な分析がなされないのは、読んでいて歯がゆい*2

追記:「彼らにとってのリアリティ」に入り込むこと

私は基本的に、「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことを重要視するような研究者が嫌いである。なぜか。第一に、根拠の不備が挙げられる。「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことを重要視する研究者は、その自らの主張を裏付ける根拠を示さない*3

「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことを手放しで称揚する研究者は多い。この点について私はかつて、学部時代の指導教官と激しく言い争ったことがある。「調査地における現地の人々が生きる現実に調査者自らも生きることができるようにならなければ、人類学的な他者理解が成し遂げられたことにはならない。」と述べる指導教官に対し、私は「その理由は? それはあなたの信仰でしょう? どうしてそのように考えるのですが? ちゃんと根拠を示してください。」と執拗に問い返し、猛烈に反論したことがある。もちろん、根拠が示されることはなかった*4

「一貫した自己の視点を維持することで「われわれのリアリティ」と「彼らにとってのリアリティ」の境界を保ち、前者によって後者をも分節しつくそうとするのではなく、私=身体の移動と変容にともなってどのようにそれぞれの世界が、あるいは私自身の身体が私を騙しはじめるのか、またそのことを通して、いかにしてこの世界/環境における私自身の生存が可能となるのかということを考えてみることが重要だと思われる」(石井 2007:270)。

石井先生は「小人を見た」という自らの経験を振り返り、上記のように述べる。私は「われわれのリアリティ」というフレーズに引っかかりを覚える。なぜ「私のリアリティ」ではなく、「われわれのリアリティ」という言葉が使用されているのだろうか? 私は次のように深読みする。ここでは、すべての研究者が石井先生のように「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことが暗に要請されていないだろうか? だからこそ「私のリアリティ」ではなく、「われわれのリアリティ」というフレーズが採用されているのではないか? 

「彼らにとってのリアリティ」に入り込めたことを石井先生は過剰に評価し、そうでなければ妖術や宗教に関する研究は成し遂げられないと述べている。思い込みの激しく性格の悪い私にはどうしてもそのように読めてしまう。

自分に小人が見えるようになってしまったことについて、そのメカニズムを当事者である石井先生が考察することには何の問題もない。そのような考察はどんどんやってほしいと思う。

しかし、先に引用した石井先生の文章は、他の研究者にも「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことを勧める内容になっていないだろうか? まるで、呪術や宗教を調査する研究者にとって、「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことは必須の条件であるかのような書き方になっていないだろうか?

たまたま自分は小人が見えてしまえるようになった。どのようにしてこのことが実現したのかについて私はこれから深く掘り下げて考えてみたい。石井先生はこのように言いたかっただけなのであろうか? そうであるならば、上記における私の解釈は、間違った解釈ということになる。

私は、石井先生がどちらのスタンスであるのか非常に気にかかっている。お会いできる機会があれば、この点について質問させていただきたいと思う。

*1:そのことをことさら強調することによって、自らの研究を他の研究よりも優れたものとして持ち上げるのは問題だと思う。

*2:しかし、私がここで要求している作業はかなり困難な作業だと思う。「見える系」の人たちにとって、見えることはごくごく自然のことであり、そのメカニズムについては全く分からないのが普通ではないだろうか? それに、メカニズムメカニズムとお経のように私が繰り返すこのフレーズについてだが、いったいこれは何なのだ? 機序とも訳せるこのメカニズムなるものは、自然科学(≒生物統計学)でいうところの説明変数をひとつひとつ特定することによって解明できるものであろうか?(それにこの特定作業はいかにして行うべきなのか?) 「明らかにせよ!」と私が述べ立てるところの、肝心のメカニズムという言葉自体が、いくぶん謎を抱えた概念である。「なにをどうすればなんらかのメカニズムを明らかにしたことになるのか?」というメタな問題にも同時に取り組まなければならないので、私が要求する作業は、めちゃくちゃ困難な作業だと思う。私もどうしたらいいのか分からない。自分でもよく分かっていない内容の作業を他人に行えと要求する私は、明らかに悪い奴である。

*3:示したとしても、理解不能な根拠であることが多い。例えば、「他者理解とはそのようなものだ。」という前提を押し付けるだけのものであったりする。前提は根拠ではないはずである。前提をあたかも根拠であるかのように提示するのはやめてほしい。

*4:現地の人々や、研究者以外の他人が、どのようにして「彼らにとってのリアリティ」に絡め取られているのか、このことに関する分析を行う際に、わざわざ調査者までもが、「彼らにとってのリアリティ」に絡め取られる必要はあるのだろうか? あるとすればそれは何故か? 「彼らにとってのリアリティ」に入り込むことを手放しで称揚する研究者が、この質問に答えてくれることは少ない。