満員電車における悲鳴の大切さあるいは喧嘩へのお誘い

ボクシングの試合中は、目の前にいる人間の顔を、思い切り殴ってもよい。なぜなら、リング上の二人は暴力を行使しあうことに同意しているからだ。リング上で血を流し、目がつぶれ顔を腫らしながら殴りあう二人を、観客は手に汗握りつつ観戦する。すべては同意の上だ。

では、満員電車ではどうか。

都会の満員電車は戦場である。見ず知らずの人間がいきなり体当たりを食らわせてくる異様な状況である。

しかし、いつゴングが鳴ったというのだ。いつこんな試合に出ることに私は同意したというのだ。次々に行使される理不尽な攻撃(体当たり、肘打ち、圧迫)にひたすら私は耐え忍ぶ。

そう、耐え忍ぶ。

なぜ、私は反撃しないのか。

戦うことの同意を、まだ取り付けていないからである。

しかし、あまりにも腹の立つ攻撃を仕掛けられたならば、ちゃんと相手の目を見て次のように尋ねようと思う。

「すいません。私と戦ってくれませんか? 私はあなたを殴りたくて仕方がありません。」

もしも相手が「こいつ気違いか?」というような表情をしたら、次のように言おう。

「なんでさっきあなたは私に体当たりをしてきたのですか? 故意でないなら「すいません」ぐらい言ってください。あるいはそんな無茶して電車に飛び乗るのはやめて、おとなしく次の電車を待ってください。そうでないと、戦いに飢えた人と思われて、戦いを申し込まれてしまいますよ。」

なぜ、こんなことを書いているのかといえば、今日の帰りの電車で以下のような出来事に遭遇したからである。

日比谷線の電車に乗り込んだ私を、後ろから押す人間がいた。「すいません」ぐらい言えばいいものを、全く何も言わずに、勢いよく「どん!」と押してくるのである。振り向くとそこには、背中を一方的にこちらに押し付けてくるスーツ姿の若者がいた。

押されるがままにされると、私は連動して他の人を押してしまうことになりかねない。私は咄嗟に腕を組んで体重を落とし、背中で無言で押してくる若者のその背中に、肘をそっと突き立てた。そうすることにより、「これ以上押すな。もう十分だろう。」というメッセージを伝えたつもりであった。

若者は、さすがに異物感を覚えたらしく、怪訝そうな顔をしてこちらを見た。私と目があった。私は目をそらさずに、肘も直さずに、彼の目をみつめた。怪訝そうな顔をしたいのはむしろこちらである。なぜお前は無言で押してくるのか。せめて「すいません」と一言ぐらい言えばいいものを。いつから、電車が混んでいるときは暴力を行使してもいいことになったんだ。そういうことすると、こちらも暴力を行使するぞ。満員電車を、個人の同意に基づいた戦いの場として捉えるぞ。このようなことを考えながら若者の目を私は凝視した。

若者は何事もなかったように、また背中を向けた。背中にあたっていたものが私の肘であったことが分かり、それで満足したかのようである。しばらく何事もなかったように電車内でじっとする二人。

しかし、若者は上野駅で下車する際に、なにか言いたげな様子であらためて私のほうを見た。短い間だったが、眠たそうな目で2,3秒、彼は私を睨んだ。もちろん私は睨み返した。「何か用か?」という素振りで相手の顔を見た。しかし若者は、あきらめたようにして私に背を向け、ふっと人込みに消えた。目で彼の姿を追ったが、彼は二度とこちらを振り向かなかった。

そして妙な後味の悪さだけが残った。

おそらく、あの若者は「自分は変な男に電車内で肘鉄を食らわされた」と思っていたのではないだろうか。自分が無言で体当たりを私に食らわしたことを忘れ*1、すっかり被害者気取りになっていたのではないか。

私は反省した。ちゃんと怒ればよかった、と。「押さないでください。」あるいは「いて!」と声をあげるべきだったと。

言葉を使って、自分はどんな心境にいるのかを相手に伝える必要があると、私は思った。向こうは、自分が相手に攻撃をしたことを全く自覚していない。私にとっては、理不尽な体当たりに他ならない行為を、彼は、体が触れたぐらいにしか、捉えていないのだろう。

余談だが、プロレスにおいては、実際にリング上で戦うレスラーよりも、実況中継が重要な役割を果たしている。リング上で起きている現象が一体何なのかを語る者がいなければ、レスラーたちのパフォーマンスは単なる動作・運動でしかない。なんか動いているねとしか映らない。レスラーの腕が相手のレスラーの首に当たったのではなく、あれは「ラリアット」なのである。そしてそれは「危険だー!あまりにも危険すぎるー!」のである。まともにくらうと命を落としかねない。実況中継こそが、プロレスを成り立たせているのである。

真空状態に慣れてはいけないのだ。ちゃんと語って世界を作り出さなければならない。

おしくら饅頭のポーズで、背中から電車内に勢いよく突進し、私にダメージを負わせていながら、被害者面はないだろう。自分が他人に行った行為を、攻撃として捉えられて欲しくないのなら、「すいません」とちゃんと言って欲しい。その、目下攻撃として受け取られかねない行為が、実は攻撃ではないことを、何らかの方法で伝えて欲しい*2

なんというか、申し訳なさが足りないのだ。なぜそんなに堂々と、無言のまま背中を他人に押し付けることができるのだ。人間をなんだと思っているんだお前は。人間はモノではない。理不尽なことをされたら傷付く。お前は普段からそうなのか。会社でもそうなのか。会社のエレベーターが混んでいたら、上司や先輩にもおしくら饅頭アタックを仕掛けるのかお前は。

長くなったが、以上の経緯により、今後私は電車内で理不尽な扱いを受けたならば、ちゃんと相手に、喧嘩を売ることにした。あるいは、「いて!」とか「押すな!」といった「悲鳴」をあげることにした。

相手が喧嘩の強い人間だったら困るので、本当にこれからどこかの道場で、格闘技を学ぼうと思う。

*1:いつも疑問に思うのだが、どうして後から電車に入ってくる人は、既に車内に乗っている人間に、堂々と体当たりをしてくるのだろうか。まるで、後から電車に乗る人間は、車内にいる人間に、体当たりを行使してもよい権利を得ることができるかのようである。あるいは、そのような不文律があり、何も問題ないかのようである。そして、車内にいる人もどうかしている。どうして彼らは後から乗ってきた人の攻撃にひたすら耐え忍ぶのであろうか。自らに行使された暴力に対しては、我慢するのではなく、しっかりと反発すべきではないか。怖いから、あるいは、面倒くさいからという理由で、異議申し立てを行うことを怠っていると、より相手の攻撃をエスカレートさせてしまうように思う。理不尽な仕打ちに対して、黙し続けるのは、心が広いからではなく、気が弱いからだ。ちゃんと喧嘩したほうがいいのではないか。電車内ではお互いに攻撃しあってよいという規約があるのであれば、話は簡単なのだが。人々は無言のまま、絶対に言葉を発さずに、死んだ目をして電車に乗っている。みんな自分のことが嫌いなのだろうか。自分は理不尽なことをされても当然の存在だと思い込んでいるからこそ、反撃をしないのだろうか。では、攻撃してくる人間は、自分のことが好きなのであろうか。違うと思う。彼らは単に、車内の人間を人間とは思っていないのだ。マネキンか人形としか思っていないのではないか。物を言わないことをいいことに、やりたい放題なだけであろう。あるいは、「許してくれるはず」と甘えているのかもしれない。こんな輩には、ゲリラ的な報復か、言葉による「戦いへのお誘い(ようこそ男の世界へ)」を行うべきだと私は考える。

*2:逆のことも言えるかもしれない。目下攻撃としては受け取られないはずの行為が、短気でプライドの高い私によって、攻撃として捉えられているだけかもしれない。しかし、このようなリフレーミング行為に耽溺してしまうのは危険である。「殺人」は、「相手のカルマをこれ以上増やさせないために行われる神聖な行為」としてではなく、やはり許すまじ「殺人」という行為としての「見え」を備え続けてしかるべきだと私は考える。なんでもありにしてはいけない。そう強く思う。「セクハラ」を「愛情表現」とは呼ばせない。「体罰」を「根性を鍛える大事な特訓」と言い換えられてなるものか。もちろん、全ての行為は、どのようにも言い換えられる可能性を常に持つ。これこそが正しい見立てだと、誰も決めることなどできない。しかし、だからこそ声を大にして、アスペクトを固定させるべきなのである。「見え」を押し付けるべきなのである。ウサギがアヒルよりも好きならば、ウサギにもアヒルにも見える例の図を指差し、「あれはウサギだ!」と言い続けるべきなのである。そのように語り続けるべきなのである。なんでもありにしてたまるか。