A Place To Call Home

会社で同僚の女の子に「実家が沖縄なんですね。羨ましいです。将来沖縄に戻って生活したりするんですか?」と聞かれた。

沖縄へ観光に行く人々は周囲に多い。とても喜ばしいことである*1。私も沖縄は大好きだ。沖縄ほど、見ていて飽きない夕陽に恵まれた土地はない。そして食べ物。イナムドゥチが好物の私にとって、沖縄はなくてはならない場所である。

しかし私は、沖縄に戻ろうとは思わない。私にとって沖縄は、嫌いだけど好き、好きだけど嫌いな、複雑な場所なのである。沖縄口があまり理解できず、おまけに肌の色が非常に白い私は、沖縄ではナイチャー扱いされる。沖縄人に同化しようと振舞えば振舞うほど、自分に演技くささを感じ、居心地が悪い。そしてたぶん、むこうはむこうで私のような中途半端な存在が嫌いなのだと思う*2

「「沖縄人(ウチナーンチュ)/日本人(ナイチャー)」の二項対立は不毛だ」と、沖縄研究者が訳知り顔で言おうと無駄である。沖縄という場所では、この二項対立は絶大な存在感を持って、人々の思考に君臨している。例えば、沖縄出身の作家である目取真俊は、『[http://www.amazon.co.jp/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%80%8C%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%80%8D%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4-%E7%94%9F%E6%B4%BB%E4%BA%BA%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9B%AE%E5%8F%96%E7%9C%9F-%E4%BF%8A/dp/414088150X:title=沖縄「戦後」ゼロ年]』において、「私は、今でも大半の日本人は腹の底で沖縄人をバカにしていると思います。」(目取真 2005:173)と明確に述べている((目取真の告白を「単なる妄想」「根拠のない思い込み」と断定し、「やれやれ困ったものだ…。まだそんな二項対立で思考しているのかね君は。時代おくれだよ。」とあきれてみせる沖縄研究者がいたならば、私はそいつを「お気軽で能天気な構築主義者」と呼びたい。いくら不毛に映ろうが、そのリアリティを否定してどうする。リアリティを否定することに終始するのではなく、どのようにしてそのようなリアリティが構築・維持されているのか、そして、このリアリティを改変するためにはいかなる技術が有用か考えて欲しい。))。まさに目取真は「沖縄人/日本人」という二項対立に沿って思考している。そしてこのような思考法は、沖縄ではあまりにも自明である。「沖縄人/日本人」の二項対立は単なる区別の為の概念ではない。それは日本人に対する憎しみとともに、沖縄人の脳に焼き付けられている。

だいたい小学校に入るあたりからその辺の事情に私は気付いていた。なんだか分からないけれど、私は仲間扱いされない存在らしい。どうすれば私は沖縄人になれるのか。そう考えた私はわざと沖縄口を駆使したりして、沖縄に馴染もうと努力した。

しかしかえってそのような姿は卑屈に映ったのかもしれない。それに、いつしか普通に振舞うときでさえ、私は周囲が「この人ナイチャーなのになんで過剰に沖縄人のように振舞おうとするわけ?」と考えているという妄想に、取り付かれるようになってしまった。演技をしているという意識が常にどこかにある状態である。私はますます居心地が悪い*3

そんなこんなで私は、沖縄にいると疲れる。じっとしているだけで体力を消耗する。いろいろ考えてしまって落ち着かない。だから沖縄は故郷とは呼び難い。呼びたいけれど、呼べない。自分を認めてくれなかったこと。いや。自分をそのまま放置して、そっとしておいてくれなかったこと。沖縄で受けたこの仕打ちに、私は恨みを持っている*4。私は繊細なのだ。基本的に弱い人間なのである。

今でも私には自分を沖縄人として認めて欲しいという欲求がある。しかしそれはかなわない願いであり、また、かなったところで疑い深い私は「お前ら私を認めるふりをしているだけだろう。どうせ後でナイチャーとしての私の悪口を陰で言うんだろう?」と勘ぐるので、結局気分は最悪のままだ*5

私にナイチャーという自覚が最初からあれば、こんなねじれた悩み方をしなくてよかっただろうに。「私は日本人だ!」という揺るぎない確信があれば、いくら沖縄でナイチャー扱いされようと、何も感じなかっただろうに*6

ということで、今日の曲は、ジョーイ・テンペストさんによる「A Place To Call Home」です。

ジョーイさんは次のように歌います。

「私は気付いているべきだった。故郷と呼べる場所が我々には必要だということに。」

私は最初から気付いていました。なぜなら故郷は初めから、遠いところにあったからです。


*1:「旅客機は超低空飛行で沖縄近海を飛行するので、窓から沖縄が地図通りに観察できるよ! 窓際の席だったら見てみてね!」と、ことあるごとに私は沖縄へ行く人に言う。ただし、飛行機が超低空飛行で沖縄近海を飛ぶ理由には決して触れない。

*2:もちろん、そんなことを全く感じさせない沖縄人の友人も複数いる。沖縄人あるいは日本人といった枠組みとは別のところで、私を受け入れてくれる沖縄人の友人もいる。しかし、どうしても私は一般化してしまう。ナイチャーに敵意を抱き、私にそれをぶつけてくる沖縄人は、ごくごく少数なのだが、私はそれを過大視してしまう。

*3:おそらく、妄想なのであろう。「お前はナイチャーだろう?ナイチャーのくせして沖縄人のふりをするな」と、沖縄人からはっきり言われたことは、私は一度もない。しかし、「(お前は)ナイチャーか?」と問われたこと、確認されたことは、何度もある。このような体験が、「「この人ナイチャーなのになんで過剰に沖縄人のように振舞おうとするわけ?」と沖縄人は考えている」という想像を、私にさせているのだと思う。妄想を持つ者には、妄想を持ってしかるべき理由および背景が存在している。このように私は考える。そしてこの妄想は、なかなか消えない。忘れているときもあるが、時折ひょいと顔を出す。そして私の「世界の見え方」に確実に影響を及ぼす。

*4:こんなゆがんだ私と対照的なのが、Cocco先輩だ。Cocco先輩は[http://www.beats21.com/ar/A01020202.html:title=沖縄に対する愛]を堂々と明確に口にする。本当に沖縄が好きなのだろう。羨ましい。あと、付け加えておくが、私は沖縄人を憎んではいない。私は沖縄人などいないと思っている。安里さん、金城さん、新崎さん、新里さん。このような名前を持つ人間と私は出会ってきただけであり、沖縄人なるものとは出会ったことは一度もない。私が憎むのはただひとつ。私の世界の見え方を、現在の状態のものに、作り上げ固定してきたものである。故郷と呼ぶことを、私に躊躇させるような沖縄。このような沖縄にした、因果関係自体を、私は激しく憎んでいる。そして、その全体の概要と、そのほぐし方を私は知りたいのである。

*5:一番最悪なのは、自分が自分を沖縄人として認めきれないことではないかと思う。「あなたは沖縄人だよ!」と私を沖縄人として認めてくれる沖縄人のその言葉を素直に受け入れられない私がいる。

*6:「沖縄人/日本人」の二項対立を消し去れば問題は解決するかもしれない。当たり前の話だが、このような概念があることが、このような概念に基づいた言動を可能にしている。しかし、口が裂けても、「沖縄人/日本人」の二項対立を忘れてくれなどと、私は沖縄人には言えない。そんなご都合主義が許されるわけがない。昔、沖縄人は日本人に同化させられた。いや。正確に言えば、沖縄人を日本人に同化させたい日本人と、日本人に同化したい沖縄人の共犯関係が「一部で」成立した。沖縄人は日本人になろうと努力した。日本国民として自らを改造した。しかし沖縄は、今でも植民地的な境遇に置かれたままである。沖縄人は日本人として未だ認められていないのだ。沖縄は日本(と米国)の植民地であり続けている。憲法9条は確かに素晴らしい憲法かもしれない。しかし、沖縄にある米軍基地が日本を防衛してくれることを見込んで初めて掲げることのできるのが憲法9条ではないか? 背後に米国の軍事力を控えさせているからこそ、「平和が大事。戦争しません。軍事力は放棄します。」などと言えるのではないのか? そして沖縄は、日本の防衛のために利用されているのではないのか? それも非常に危険な形で。以上のことを全部ひっくるめて、沖縄と日本の関係を見たとき、日本人にしか見えない私が沖縄人に「沖縄人/日本人」の二項対立を忘れてくれなどと言えるだろうか? 恥ずかしくて、言えない。沖縄人は日本人を憎んでよいと思う。憎まれておかしくないことを、沖縄人は日本人にされてきたし、今でもされているのである。もとはと言えば、「沖縄人/日本人」という枠組みで思考することを有無を言わさず強制し、「沖縄人は日本人になるべきである」という強迫観念を沖縄人に植えつけたのは、日本人ではないか。「差別されたくなければ日本人になれ」と脅迫したことを忘れたとは言わせない。にもかかわらず、今度は「沖縄人/日本人」という二項対立はすべてきれいさっぱり忘れろと言うのか。まるで、形を変えた同化主義政策のようだ。過去のコンテクストを忘れるように促し、今でもひたすら痛めつけられている存在としての「日本人としていまだ認められない沖縄人」という言い回しを、禁止するかのような、恐ろしい発言である。ところで私は、あたかも自分が日本人であるかのようにして、上記の文章を書いている。矛盾しているようだが、私は「自分は沖縄人である」という自覚を持ちつつ、一方では、「沖縄人にとっては自分は日本人でしかないのだから日本人としての自覚を持たねば」という意識をも有している。このように、私の中では沖縄人と日本人という2つの自覚が存在しているのである。まるで私は、OSが2つ同時に起動しているせいで、フリーズばかりしている使えないパソコンのようである。