終戦記念日

戦争はまだ終わっていない。これからも戦争は続き、それに我々は否応なく関与させられる。このことに全くリアリティを感じられないほど、幸せな人や、忙しい人や、何事にも無関心な人の数は、確かに増えた。あの頃との違いは、ただそれだけである。

たとえば、私どもは、朝鮮戦争を経験しています。現在の戦争は、単に兵士が砲弾や弾丸を打つだけではなくて、あらゆるものが戦争に動員されるのであって、簡単にいえば、服から靴から帽子から、あるいは、ひとつの縄、ひとつの鉄線にいたるまで、全部が戦争の道具になる……
この朝鮮戦争が起こってから日本の経済状態がよくなりました。高度成長という言葉が使われていまして、日本人は自身の努力で高度に成長したのだというふうにいわれていますけれども、実は、韓国の人々、北朝鮮の人々、また、アメリカの人々──これは大体兵士でありますが──それらの人々の血によって購ったところの経済繁栄なのです。そのとき、自分が殺人犯の片割れであることを洞察するかしないかという境い目が、敢えて何かを書こうとする文学者の目を開くか開かぬかの境い目だと思われます。
朝鮮戦争も、そのあとのヴェトナム戦争も、一応、目に見えるものです。火事がまず見えて、注意すれば、火事場泥棒の姿も見える。しかし、まったく何も見えないところで、自分が殺人犯の片割れであることに、いま、私たちはなっています。(埴谷雄高 『文学的立場』1980 夏号)

幸せな人や、忙しい人や、無関心な人ではなく、文学者が、もっと必要だ。いつのまにか共犯者にされることに敏感にならなければ、自分やその子孫が、痛い目を見ることになる*1

*1:話は戦争のみに限らない。「偽装請負」や「いじめ」といった現象も含む。ところで、戦争についてだが、私は、正しい戦争はありうると思う。全ての軍事力を放棄できるほど、この世界は平和ではない。私が所属する国家は、今のところ、米国の軍事力に頼りきりである。私は、ゆくゆくは自衛の為の軍隊を、日本は自国で保有するべきだと思う。そうでないと、米国にNoと言えないままになる。沖縄から基地がなくならない。しかし、日本の組織の多くは、中央に行くほど腐るので、そんな国家が持つ軍隊は信用ならない。上官による理不尽なしごきなど不要である。また、侵略でしかない戦争に、いつのまにか動員されたくもない。どうしたものか。難しい問題である。正しい軍隊というものは存在しえるのだろうか。