「人類学バトル」(第3戦) に関する記録:重森という視点より

箇条書きバージョン:経過時間数付き

  1. 人類学者になりそこねた現代芸術家に「なぜ私は映像を見て酔ってしまったのでしょうか」と問いかけ、「動体視力」なるものの存在について考えさせられること約1分。
  2. 小人を見ることができる人類学者と「小人が見えるようになった機序の記述方法」について話すこと約30分。
  3. 人類学バトルにて、初めて質問を行った自分の、その質問の射程の狭さと生産性のなさを恥じつつも、その質問から何らかのインスピレーションを得た、台湾の高地を調査地とする人類学者からコメントを受けたことにより、「とにかくなんでもいいから言葉を繰り出せば、それに意義を見出してくれる人がいること」を改めて実感するとともに、その人類学者の熱い口調に圧倒されること約5分。
  4. アイロニー、あるいは、反省のモードについて思索する人類学者の話に、耳を傾けること約20分。途中、「愛」について意見を求められ、「それについてはもうあまり考えたくなーい」とばかりに、そそくさとその場から退散すること約30秒。
  5. 社会に出て、男に幻滅した社会人1年生による「二股をかける男が多すぎる。」という報告を受け、「異性の「正しい」口説き方─そのアプローチの検討と今後の展望:ちゃんと本音に基づいて」というテーマで自説を展開し、激しく引かれること約15分。
  6. 私が人類学バトルの最中に、思い切って質問をさせていただいた、弁舌ユーモラス、かつ、どこかいかがわしさ漂う、存在自体が呪術的な人類学者と、零時過ぎのオカピの研究室にて、向かい合って話すこと約25分。
  7. 様々な見立てを使用することで、世界が次々に変容していくことそのものの快楽。言葉(言い回し、比喩、見立て)の面白さ(怖さ)を再認識し、「やっぱり比喩を磨かなくちゃ」と思い直すこと、合計して約4時間*1
  8. 中沢新一とオウム、そしてオウムと苫米地さん、そして洗脳の技法について、遠い異国で鯨を研究する人類学者に、中央線内で、一方的に情報を提供しまくること約20分。
  9. どのような言葉を媒介にして世界について自分は語っているのか。どんな言葉を媒介にして世界を眺めればもっと楽しく幸せに生きられるのか。などと考えながら、国立から北千住まで電車に揺られて帰ること約1時間。中央線から見るひさしぶりの朝焼け。新宿駅で乗ってくる妖しげでやたらファッショナブルな人々。

物語バージョン:青二才リミックス

バトル中に脳髄反射的な質問を行ってしまった重森は、そのことをすぐに後悔した。質問があまりにも揚げ足取り的なものであったことに気付いたからである。あるいは、重森が行った質問は、すべての出来事の原因をビックバンに求めるような、「非常にもっともな話なんだけど、それで?」という感想しか持たれかねない、「場違いな質問」であった。

その場の議論に何の貢献もなさないような、今後のやりとりに関して何の発展も期待させないような、相手を当惑させるだけの質問。これを重森は行ってしまったのである。

もっとその先のことを考えてから、言葉を発せばよいものを。青二才はいつまでたっても青二才である。

とはいえ重森は、そこまでバトルに入れ込んでいたのかというと、実はそうでもない。むしろ、バトルの会場以外の場所で、重森は熱く議論を闘わせていたようであった。

バトルの行われていた東大演習室の向かい側。社会人類学共同研究室の助手室において重森は、1人の人類学者と対峙していた。小人を見ることができるその人類学者は、確かに小人を見ることができるようであった。エヴァンズ=プリチャードが、アザンデの妖術の調査中に火の玉を目撃し、思わず駆け出してそれを追いかけてしまったように、その人類学者も、小人をありありと知覚し、その存在を疑うことが、できなくなってしまったようであった。

「なぜ、小人が見えるように、なったのですか?」

重森が発した問いは、目の前の人物に対して発せられたものではあったけれども、同時にそれは彼自身がいつも何事かを物するときに発する、典型的な問いでもあった。修士論文執筆中の頃と変わらず、重森には、自分が発した問いは適切な問いであるという確信があった。それしか問えないと思った。

しかしそれは、あの頃と同じく、やはり独りよがりな確信でしかなかった。その質問は、答えることの困難な類の質問であった。ここで重森は二重の意味で間違いを犯したことになる。なぜなら、まず第一に、答えられる範囲内で問いを発することが、研究者が論文を書く際の大原則だからである。せめて手がかりの見当でもついていれば、話は別であっただろうに。

そして第二に、何よりも議論というものは、長いスパンで捉えれば、本当は戦いなどではなく、何かを一緒に作り出す、共同作業であるはずなのだ。そうであるならば、その後の議論の発展性を見込んだうえで重森は、問いを投げかけるべきであった。しかし相変わらず重森の問いは、目の前の人類学者を困らせただけのようであった。その質問は、かろうじて「オートポイエーシス」という単語を、その人類学者の口から引き出すことに成功しただけであった。

あろうことか、次に重森は、自らの問いを、その人類学者に押し付けようとした。その問いを自分の代わりに突き詰めてくれ、毎日そのことのみを考えて、そのことだけについてどんどん論文を書いてくれ。このように執拗に要求する重森は、どう見てもはた迷惑である。書くべきことは他にもあるのだ。その若くて優秀な、小人を見ることができる人類学者にとっては、「世界の見え方が変容するメカニズム」のみが研究対象ではないことに、視野の狭い重森は、気付くことができなかった。

結局重森は、いろいろな人を困らせるだけ困らせて、国立を去った。

調査地における人々の営みを、ただ記録するだけでは物足りない。調査を通して、自分にとっての世界が、否定しようのないほど変容してくれれば、きっと楽しいに違いない。

今まで特定の何かとして目に映じていたものが、別様の何かとして見えてしまう瞬間。この瞬間こそが快楽なのだとしたら、明らかに重森は快楽から隔てられている。決まった形のものしか重森は、見ることができないのだ。重森はいつも、浮いているか、嵌っているかのどちらかで、何かから何かに嵌るということが、できない。

いつも、ただ通り過ぎるだけ。一生、文化とも呼称できるような檻の中にいて、高い金出して飛行機や船や車に乗り、檻ごと移動するだけ。決まった形で思考し、決まった形で喜怒哀楽し行動するだけ。多夫多妻的な生き方、サクティ、妖術、憑依霊、神、精霊、幽霊。びっくりしたり、驚いたりすることはあるけれど、絶対に入り込めない。自分は絶対に変わらない*2

ということで、今日のPVは、ある意味今日のエントリーと映像が非常にマッチしているとも見れる、スティングさんのデザートローズです。

スティングさんは、何を撮っているのだろうか。なぜ撮っているのだろうか。そしてスティングさんは夢を見ていただけで、そこをただ通り過ぎただけなのか。それとも、実際に皆でそこで歌い、楽しんだのか。

エンディングにおける、スティングさんを乗せて走り去る車が、妙な寂しさを漂わせます。

ところで、スティングさんと一緒に歌っている男の人の声がすごい。伸びやかで、とても魅惑的だ。

*1:例、「授かり婚」は、「できちゃった婚」とは、似て非なるものなのである。まさにモノは言い様(あるいは「言い様がモノ?」)

*2:変われるはずだと無理をして、例えば、よせばいいのに多夫多妻的な生き方をことあるごとに他人に吹聴し、かつ持ちかけ、結局自分も他人も傷付いたり。