クリスマスの夜に

ミラーマンのことが気にかかり、googleで検索したのがいけなかった。当然のように「金城哲夫」というキーワードにぶちあたる。いつか読もう。そう思いつつも、なかなか読むことができないでいたあの本を借りに、重森は近所の図書館に向かった。

書庫の奥から見つけ出された本の名前は『怪獣使いと少年』。ウルトラマンシリーズの脚本家たちの実存に関する書物。著者である切通氏は彼らに問いかける。「あなたは、どんな子どもだったんですか?」

金城の母は、爆撃で片脚を失った。手榴弾で脅す日本兵の目を盗んで投降した金城は、敵であるアメリカ軍に助けられた。当時七歳の彼は、安堵のあまり失禁しそうになり、見守ってくれた米兵の前で木の下にうずくまって小用を足したという(金城の妹は、アメリカ軍の収容所から出た一、二ヶ月後、飢えのあまり、いたんだ食べ物を口にして急死した)。

ウルトラマン』に見られる金城の博愛主義は、日本兵に沖縄人が殺されるという戦場の狂気と、戦争の根底にある民族主義国家主義への忌避感から生み出されたものではないだろうか。

どこの国の人間でもないコスモポリタン──。

しかし、同時にそれは、自分はどこにもいられない、という不安感につながっていったのではないだろうか。金城が沖縄語をあまりしゃべれなかったことはすでに述べたが、少年期にはなんの問題でもなかったそのことが青年期を過ぎた彼を苦しめたと、多くのルポは語っている。沖縄人なのに沖縄語をしゃべれず、かといって日本人でもない。自分はいったい何者なのか?

彼は、そのままの姿で存在できる居場所を持っていなかったのではないか(切通 1993:48)。

しつこく重森はミラーマンというキーワードで今度はYoutube内を検索する。

結果、かっこいいものを見つけることができた。どこかの誰かが作ったであろうミラーマンの主題歌リミックス。映像はないが、ミラーマンの格好よさをありありと感じることができる。


時折聞こえてくるセリフから察するに、おそらくミラーマンは、自ら犠牲になって、人々を助けたのではないか。

だとすればかっこいい。そして、悲しい。

ヒーローは、人間ではあるが人間ではない。両義的な存在、いわゆる境界人である。彼らは人々のために命を捧げることを何故か運命付けられている。

なんて理不尽な話だろうか。

世界的に有名な男の誕生日とされるクリスマスに、重森は、「他人のために犠牲になってたまるか」と夜空を睨んだ。