読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ビリー牧師

芸術活動 気になる人 労働問題

大量消費社会批判を行うビリー牧師なる人物に、前々から関心を持っていた私は、2007年11月27日における町山氏の話に耳を傾けてみた。

ビリー牧師は、私利私欲にまみれた商人にイエスキリストが暴力を振るったエピソードを聖書から引用し、「イエスキリストが憎むのは買い物です!無駄な消費をするな!」と人々に説く。


私は「無駄な買いものはさけたい」と思う。

料理をしよう!と意気込み、スーパーで白菜や鶏肉を買いこんだものの、仕事が忙しくて調理できずに、そのまま冷蔵庫で腐らせてしまうことが多々ある。そのたびに、「もったいない。買わなければよかった…」と私は後悔する。そのため、「必要なものを必要な分だけ買うようにしよう」といつも私は心がけている。

しかし時折、「なんらかのものが本当に必要かどうかを、どのようにして判断したらいいのだろうか」と疑問に思うときがある。よく考えてみると、白菜はまだしも、鶏肉は、高価なもの・贅沢品といえないだろうか。私は白菜だけで満足すべきではないのか…*1

そして私は気づくのである。この疑問について考えることは、「私という人間がこの世界をどのような世界として捉えているのか」「どうして私は世界をある特定の姿のものとして捉えるようになってしまったのか」という認識論的哲学的な問題について思考することと同義ではないかと。

その途端とても面倒くさく感じ、私は考えることをやめるのである。

バリ島にいた頃、一週間に一度ぐらいのペースでいわゆる「儀礼」的な催しを行うバリ人たちを見つつ、「この人たちっていつもどこかで笛吹いたり太鼓たたいたりお供えものをしたり宴会開いたりして大変だなー」と考えていた。

ある日、仲の良いバリ人が「また今度、「儀礼」があるよ。お金がいくらあってもたりない…。」とこぼしていたので、「だったらやんなきゃいいじゃん。生活が苦しくなるぐらいならやらないほうがいいよ。」と言ってみた。すると彼は真面目な顔をして「いや。「儀礼」は絶対に行わなければならない。でないと恥ずかしい。」と答えた。

バリ人ではない私にとって、バリの人々が頻繁に行う「儀礼」の数々は、「そんなことしなくてもよいのではないか。。」と思えて仕方がない、消費活動・散財活動にしか見えない。しかし、それらは彼らにとっては絶対に欠くことのできない、省略することのできない営みなのである。バントゥン(お供えもの)を用意するだの、プーダンドゥー(祭司)呼ぶだの、「儀礼」にはとにかくお金がかかる。「儀礼」は、バリにおける世界のあり方にからめとられていない私には無駄な営みであっても、からみとられている彼らにとっては、欠くことのできない重要な行為なのである。

なので私は、町山氏のように、なぜかイエスキリストの誕生日に高い金出してホテルでセックスしたがる日本の人たちを、簡単には批判できないのである。

なぜなら彼らにとっては、それは大切な営み、つまり「儀礼」であるかもしれないから。

どのような根拠を提示すれば、「無駄な買い物、無駄な消費をやめろ」と主張できるのだろうか。どのような証拠を挙げれば、適切な買い物と無駄な買い物の境界を、人々に説得的に示せるのだろうか。

おそらく、根拠を示すことは困難だと思われる。なぜなら「文化」や「習俗」や「慣習」や「儀礼」といった領域と、消費活動は密接に関連しており、これらの領域がある特定の形態をしていることに、説得的な根拠を提示することは不可能と考えられるからである。このことはすぐに理解できるはずである。ためしに結婚をひかえた男女に、「結婚式など行う必要はない。結婚指輪も買う必要はない。婚姻届を役所に提出するだけでいいじゃん。それで十分結婚したことになるよ。」と言ってみよう。彼らが頭の回転の速い人たちであるならば、結婚式を行うことの重要性と、結婚指輪を買うことの意義について語ってくれるかもしれない。

例えば彼らは、「式をあげれば夫婦の自覚ができる」「公式発表の場になる」「記念になる」といった根拠を挙げてくれるかもしれない。しかし、これらはその場でちょっと考えて口に出した根拠である。つまり「とってつけたような根拠」である。いわゆる「思い付き」である。彼らは、最初からそのような根拠を意識して、結婚式をあげようとしていたのではない。要するに「文化」なのである。根拠はいらないのである。彼らは、「婚姻届を出しただけのカップル」と、「婚姻届を出したうえで式もあげたカップル」とを比較し、後者のほうが夫婦の自覚が高まったという実験結果をあらかじめ知っており、「自分たちも夫婦の自覚を首尾よく獲得してやろう」と意識して式をあげようとしているのではない。「結婚するなら式もあげなきゃ」と自動的に連想しているだけである*2

結婚式は、実際のところ「結婚するなら式をあげるのが当たり前だろう」という認識のもとで行われるのがほとんどであろう。あるいは「親がうるさいから」とかいった理由から行われる場合がほとんどであろう。かくして、式場確保や結婚指輪購入のために何百万円という買い物がなされることになる。

「なぜ?」と問われて初めて、自分たちのやろうとしていることがどうしてそもそも自分たちによってなされようとしているのかが、考えられ始め、捉え返されるのであろう。

↑上記の私のロジックはおかしい。そもそも「根拠」ってなんだよ。どんな「根拠」を示されたならば、素直に私は納得してくれるというのだ。あるなんらかの主張と、その主張を正当化する「根拠」というものは、はじめから問答無用に否応なくセットで覚えこまされるものであり、この結び付きは証明される必要がないほど強固であるとする。であれば、ある主張について私がしきりに求める「根拠」というものは、私にあらかじめセットで覚えこまされている「主張と根拠の結び付き」に合致するような「根拠」でなければならないということになる。要するに私は、徹底的に独自の世界に住んでいる「自文化中心主義的な困った人」である可能性が高い。自分にとって腑に落ちる「根拠」というものは、自分にあらかじめ埋め込まれている「根拠」に限定されているのだ。なんか、非常に器が小さいのではないか。「根拠」が示されることなく惰性的に遂行される行為を見たときに、私は「文化」や「慣習」や「風習」という言葉を使っているつもりになっている。しかし実際のところは、たとえ「根拠」が示されたとしても、けしてそれを「根拠」とは認めようとせず、あくまでも「根拠なし」として捉えたがる頑なな困った人間が約1名いるだけではないだろうか。

消費行動の原理について考えるのは疲れる。人間について考えざるを得ないからだ。

話は変わる。大型ショッピングセンターの進出と地元の商店街の関係について。

町山氏によるとビリー牧師は次のようなロジックを展開するという。

大規模量販店・チェーン店(=大型ショッピングセンター)で働く地元の人々は好きでそこで働いているのではなく、大型ショッピングセンターの進出により地元の商店街がつぶされたので、仕方なくそこで働いている。そして大規模量販店・チェーン店(=大型ショッピングセンター)で働く人々は、働けば働くほど貧しくなるワーキングプアの立場に置かれた人々がほとんどである。

私は、大型ショッピングセンターの進出が地元の商店街を破壊することにたいして危機感を感じていなかったが、上記のビリー氏による仮説を知り、背筋が凍る思いがした。

地元の商店街がつぶれ、働ける場所が大型ショッピングセンターに限定されてしまう。そこでは「十分な」賃金や生活保障が得られず、賃金アップや生活の保障を訴えようものならすぐに首を切られかねない。なんて残酷な話だろうか。

上記のような最悪の状態を避けるには、チェーン店での消費活動を禁止するだけでは不十分だと私は思う。キリスト教という強力な「宗教」の用語を駆使して、大量消費の禁止を呼びかけることは理にかなっていると思うが、ビリー牧師にお願いしたい。地元の商店街で大量消費するよう、人々に説いてほしい。地元の商店街での大量消費を煽って欲しい。そうすれば、大型ショッピングセンターに金が落ちない。地元の商店街もつぶれない。

もしも沖縄であれば、ユタが、客である中年女性に「ご先祖様が、「地元の商店街で買い物を」と言っている。」という判じを与えれば、すぐに問題は解決するように思える。

*1:私が白菜と鶏肉をセットで買うのは、白菜と鶏肉をセットで食べた経験があるからである。国立にある一松という飲み屋で。

*2:とっさに適当な根拠をひねりだすことの下手な人物に、「どうして結婚式をあげる必要があるの? その根拠は?」と聞こうものなら、「常識を知らない変人」と見なされてしまうであろう。そのように行動することの必然性を裏付ける積極的な根拠は必要ないのだ。ただただ彼らは、そのように行動することが自然であるような世界に住んでいるのだ。