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週末はこのイベントに参加したい

http://www.tvac.or.jp/di/11994.html

しかし、12:00から歯医者の予約が入っているので、ぎりぎりの参加になるのだろうか…。会場である明治学院大学には一度も行ったことがないので、たぶん道にも迷うはず。。

感想

会場が初めての場所ということもあり、30分遅刻した。しかし、無事映画を鑑賞することができた。まさに心が「ほっこら」とするような映画であった。子役たちがかわいい。

フィリピン山岳部。そこに隠れ住むようにして暮らす日系人の人々。映画では、彼らの自給自足的な生活が描かれていた。

すべてのものに魂が宿るという信仰を生き、木を切るときも、パイナップルを切るときも、「許してください。恩を借ります。」と詫びる。狩猟採集と小規模な畑作を食物の供給源とした生き方。村には電気がないので、日の出と鶏の声とともに起床し、川や森で食べ物を探し、皆で飯を一緒に食べ、暗くなれば眠りにつく。そんなゆったりとした生活。思わず「こんなユートピアあるわけねえ!」と言いたくなるような世界が映画では描かれていた。

上映後、「日本では難しいかもしれないが、フィリピンでなら、自給自足の生活はまだ可能だ。昔に戻るのではなく、昔の生活の良い所と現代の生活の良い所だけを選択し、最先端の快適な生活スタイルを追求することは可能だ。」という監督の発言に、思わず興奮する。

また、監督は、映画を撮った動機について、次のように語った。

「自分たちの村の生活を卑下し、人々は村から都市へ出たがる。あるいは海外へ出稼ぎに行きたがる。このことを当たり前のことと彼らは考えている。私はこれはもったいないと思う。私からすれば、彼らの村の生活こそが、豊かな生活であるように思えるからだ。なぜ豊かさに彼らは気づかないのだろうと私は思う。親は子どもを学校に行かせたがる。しかし、学校を出た子どもは、一流の消費者となって村に帰ってくる。つまり、やたら金を使うことを覚え、物質的な消費を行う人間になって帰ってくる。村でそのまま生きることが、どんなに豊かで素晴らしい恵まれたことなのか、彼ら自身が分かっていない。これは、ひとえに、メディアの力によるところが大きいと思う。例えば、村を出て海外で出稼ぎ*1をし、金を儲けた後帰郷して村にコンクリートの西洋風の家を立て、そこで日がな一日海賊版の映画DVDを放映して、そこに村の子どもたちが集まってくるという風景はフィリピンの山岳部でよく見られる。そのままで十分に豊かで、金などそんなに必要ないのに、皆、金を稼ぎたがるのは、メディアによって、彼らが自分たちを劣ったものとして思い込まされ、外に憧れを持つよう、仕向けられているところが大きい。だから私は、彼らについて映画を作り、彼らをメディアで鑑賞できるようにしてみた。彼らが外部に憧れて、そして自分たちの在り方を軽蔑しがちなのは、ひとえに、外部に関する情報ばかりを彼らがメディアから受けているから。だから、逆に彼らをメディアに登場させることによって、私は彼らと彼らの生活スタイルが、尊敬に値する素晴らしいものであることを、彼らだけでなく、全世界の人間に伝えたかった。」

会場からは、「私は、自分はまわりの情報に流されがちだなと、この映画を見て思いました。自分の生活をみつめなおすきっかけになったと思います。」という感想や、「金がありすぎると、欲に目がくらんで何かを消費して、さらにまた金を稼ぐためにあくせくしなければならなくなって、しんどくなると思いました。豊かさにについて考えさせられました。」という感想が寄せられた。

私は、柳田國男の『明治大正史世相編』を思い出していた。かつては自給自足で成り立っていた日本の農村が、近代化の流れとともに、新たに作られた欲望によって、外部からの物品の購入や、それによる自活技能の喪失を余儀なくされ、次第に貧しくなっていく過程。柳田が「なぜ農村は貧しいのか?」という問いに対して出した答えが「近代化による新たな欲望の創出」であったこと。このことをしきりに想起していた。

例えば、日本の農村において衣服の材料として用いられてきた麻が、綿に取って代わる過程。丈夫で長持ちするが色彩が単調である麻よりも、痛みやすく強度はないが自由自在に様々な色に染めることのできる綿の素材が好まれ、いつしか麻を使用した衣服の製作技術が忘却され、人々は金を出して衣服を外部から買うことを余儀なくされた。今この場所を生き抜くために必要不可欠だった技能・知識が農村から抜け落ちた瞬間。柳田によるこれらの描写が私の頭をよぎった。

監督は、フィリピンの山岳地帯は辺鄙すぎるので、今後も工場や産業などは入ってこないから、このまま自給自足的な生活が可能な環境が維持されるに違いないと言う。そこに住む人々にとっては迷惑な希望かもしれないが、私もそうであって欲しいと思った。

ただ、欲望はそう簡単に相対化できないのではないかとも思う。車が欲しい。コンクリートの家が欲しい。テレビが欲しい。電気が欲しい。服が欲しい。靴が欲しい。メディアや外部から来た人々によって喚起された欲望は、そう簡単に捨て去れないのではないかと思う。

しかし私は、「自給自足的な生活をしたい」という欲望の創出に務める監督を応援したいと思う。

*1:女性は家政婦、男性は日本の自動車工場で働くケースが多い。