芸術とマルチチュード
昨日は東大でのイベント終了後、歩いて芸大に移動し、以下のシンポジウムに参加した。
- 身体と医療のポイエーシス
ブランケンブルクや宮古島の巫病が言及された時には、やや好奇心が刺激された。
しかし、それらは言及されただけのような印象を受けた。辞書的な知識が並べ立てられるばかりで、それら知識の断片が有機的に結び付けられてひとつの結論に結実していく気配が一向に感じられなかった。
このような議論のスタイルに私は耐え切れない。それに、彼らが何をしたいのか私にはよく分からなかった。議論をする際には、わざと極端なことを述べたり、あらかじめ具体的な問いを掲げたりすることによって、議論に対立点を生じさせたりしたほうがよいのではないか? 輪郭がおぼろげなままの議論を、ずるずる見せられるのはつらい。
以上のことから、「これ以上ここにいるのは時間の無駄」と判断した私は、すぐにその場を去った。
その後、中央棟のC会場で、『自転車で行こう』という映画を鑑賞した。これは、プーミョンという名の自閉症在日青年の生活を追ったドキュメンタリーであった。
しかし、これも途中で見るのをあきらめた。
どうも私は、画面が揺れすぎる映像を見ると、すぐに気分が悪くなってしまうようだ。1時間ぐらい鑑賞すると、頭が痛くなってきたため、潔く会場から脱出した。
そして、この日はそのまま帰宅した。
芸術とマルチチュード
30日。花見客で混雑する上野公園を抜け、再び芸大へ。
整理券を取りそこねたが、会場に入ることができた。
今回の司会である廣瀬氏の話は比較的分かりやすかった。氏によると、ネグリは次のようなことを述べているらしい。
- 工場に労働が収まっていた時代は、労働は工場に限定され、人々は家で労働以外の活動に従事することができた。
- しかし、ニクソンショックが終わった頃から、世界全体が資本主義のプロセスに飲み込まれ、社会全体が工場化した。現在は、労働が工場に収まりきらなくなった*1。人々は常に「生産」を行うことを宿命付けられ、「表現(≒芸術)」に時間を割くことが難しくなった。
- マルチチュードとは、上記のような世界における労働者のことを指す。このとき、芸術とマルチチュードは接点を持つ。かつては存在した「労働以外の活動」を取り戻すべく、世界全体が労働と芸術の闘争の場となった。
◆
廣瀬氏が、芸術とマルチチュードとの関連について上記のように説明を与え、議論の前提を整えたあと、他の論者たちは芸術とマルチチュードについて各自思うところを述べた。彼らの話を乱暴に要約すると、下記のようになる。
- 我々には外部がない。ずっと内部に閉じ込められるしかない。
- 私はネグリを全く理解できない。
そしてやがて、舞踏家の田中泯氏にマイクが渡った。
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一番感慨深かったのが、最後の論者、舞踏家の田中泯氏の話であった。
マイクが田中泯氏に渡ったとき、空気が変わるのを感じた。
「…なんか喋らんといけんかなあ。。」
田中氏の予想外のセリフに周囲がざわめく。田中氏はそれを気にせず、自分の内側を探るように言葉を紡ぎだした。
「本当に、すべてが「生産」なんですかねえ? すべてが「表現」ともいえない気もするが…。でも、止まっていても「表現」だし、戻っても「表現」といえるし…。例えば、5歳児が水と戯れて「この水いいね!」と言ったとする。で、63歳の私が同じことをしたとしても、これは同じではないですよね?」
周囲は、舞踏家の言葉に耳を傾ける。なんだかよく分からないが、非常に強度のある話し方だ。なんだろう。言葉に重力を感じると言ったらいいだろうか。妖しい術にまんまと乗せられているような気分である。
「私は今、百姓をして暮らしています…。踊りは生きることそのものなので、特に仕事だとは思っていません…。でも、最近、踊りの仲間たちが「金がないから踊れない」と言うんです。もしかしたら、これが「生産」ですかね?*2」
そう問いかけつつ田中氏は周囲を見渡す。そして次のように続けた。
「我々のなかでも、「生産」や「表現」という言葉にはギャップが存在していますよね…。そのギャップを、ネグリはあせって無理やり統一しようとしているようでいやだ。ネグリは嫌いです。」
会場が沸いた。明らかに沸いた。やっと面白くなってきたよという声が聞こえた気がした。
田中氏は率先してトリックスターを演じているのだろうか。鮮やかにこの場の空気に風穴を開けたと思う。地に足の着いた語りで、なにかを粉砕したかのように見えた。
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司会の廣瀬氏にマイクが返された。
廣瀬氏は次に、春闘とベーシックインカムの話を始めた。すると、田中氏がいきなり次のような発言をした。
「春にジャガイモの種を蒔けばジャガイモがとれる」
周囲は沈黙している。
廣瀬氏は、目を白黒させていた。何が起こったのか把握できていないような顔をしている。しかし、しばしの沈黙の後、廣瀬氏は、「…ええ。そうですね。で、ベーシックインカムについてですが…」と話を続けようとした。
すると、田中氏が怒りのこもった声で、次のように怒鳴った。
「この話がお前の話のどこに入っているのか。分かるけど、分からないんだよ。」
いきなり喧嘩腰である。廣瀬氏は、どうしたらいいのか分からず固まっているように見える。しかしやがて、次のように返答した。
「…いえ。その話もちゃんと関係してくると思います。」
「階級をときほぐす言語をなぜ持っていないの?」
廣瀬氏の返答と田中氏の言葉が重なった。
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「普段からあなたは、そんな話し方をするの?」
田中氏が廣瀬氏に問いかける。
「本当に誰もが分かる言葉を話す人はいないのか? 「内部にすべてがある。外部はない。」と言うが、分かるけど、分からないんだよ。分かるけど分からないことについて文句を言うのが「からだ」の権利だから、言うんだけどよ。ネグリがいたら、くってかかったはずなんだけどよ。」
田中氏はかなり不満のようである。その勢いに廣瀬氏はとまどっているようであった。
◆
廣瀬氏が、専門用語や独特の言い回しを駆使していることはすぐに分かる。彼の語りは、日常生活ではあまり耳にできない特殊な語りであることは間違いない。
社会学や人類学や哲学に独特な物言いを、これらの学問との接点がないまま生活している人が、すんなり理解できるわけがない。そして、田中氏は、このことに苛立ちを覚えているようであった。田中氏は廣瀬氏に次のように要請しているといえる。
「どうか万人に伝わるような話し方をして欲しい。」
◆
議論は続行されたが、田中氏がうつむいてしまったので、なんだか非常にいたたまれなかった。
田中氏は、「分からない」ということを素直に表現したのだと思う。「分からない」ことに起因した苛立ちとともに。