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忘れられないCM

沖縄問題 雑記

沖縄出身の研究者と、沖縄について話す機会があった。

話をしているうちに、「沖縄で見た忘れられないCM」について話が及んだ。

まず、チューリップのポークランチョンミートのCM。これは双方にとってダントツで「忘れられないCM」であった。このCMでは、「ぬちぐすい〜や・さ〜」という沖縄口のセリフを喋る「外国人」のお婆さんが登場する。今でも放映されているのかどうか不明であるが、これはかなり強烈なCMであった。

次に、ヒデトリンという名前の殺虫剤のCM。これも、お互いにインパクト大のCMであった。このCMでは、「いっぺ〜じょうふうやいび〜ん」という沖縄口のセリフを喋る「外国人」のおじさんが登場する。茶色い髪に茶色い髭。拙い沖縄口を喋る謎のおじさんの姿は、今も脳裏に焼きついて離れない。

ひとしきり話した後、「なんでわざわざ「外国人」に、沖縄口を喋らせるのだろう?」という疑問を、私はポツリと口にした。

「ポークはデンマークとかオランダ産だから、わざとそれっぽい人を出したのでは? 同じようにヒデトリンは確かドイツ製だったから、ドイツ人っぽい人を起用したのかもしれない。それに、彼らが沖縄口を喋るのは、単に、これらのCMが、沖縄だけで放映されるからだろう。外国産の商品を沖縄で売るには、現地の言葉である沖縄口で宣伝したほうがよいということであろう。」

私の疑問を受けてこの話題は、ひとまず上記のような結論に収まった。

一夜明けた今日。昨日のお喋りにおいて「外国人」という言葉を口にしてしまったことを、私は反省した。

「外国人」という言葉の使用には、問題が多く含まれている。こちらが勝手に設定している基準*1に沿って、他人をなんらかのカテゴリーに含めているだけでなく、そこにはあからさまに「彼らは自分たちとは異なるものである。」「彼らはよそものである。」という排他的な意識が働いているからである。

もしかしたら彼らは、「沖縄人」かもしれないではないか。沖縄で生まれ育った「人間」*2かもしれないではないか。沖縄口を普段は流暢に喋る、「沖縄人」なのだけれども、「オランダ人やドイツ人」を演じるために、故意に沖縄口を拙く喋っていただけなのかもしれないではないか。

というような調子で、私は昨日の自分の言動を後悔した*3

しかし、「外国人」という言葉を使わずに、どうすればあの人たちを指し示すことができるのかと言われたら、答えに窮する。「外国人」あるいは「外人」という言葉に頼りたくなる自分がいる。

カテゴリー名で呼ばずに、その人の名前を呼んだほうが、一番いいのかもしれない。

追記:私に影響を与えた非沖縄的なCM


沖縄色の強いCMに限定して話をしてきたが、私の記憶に強く残っている本土産のCMとしては、下記の2つを挙げることができる。まずは次のオッペン化粧品のCM。


なんだか非常に情緒に訴えかけるものがある。哀しいような懐かしいような気持ちになる。このCMを現在において見ているから、このような感想を持つのではないと思う。中学生か高校生の頃から既に、このCMを見るたびに私は、このような感覚に陥っていたからである。その意味では、このCMは、「哀しいような懐かしいような気持ち」を、年代や世代に関係なく、人に感じさせるCMだといえる。おそらく、BGMの遊佐未森による『東京の空の下』が、このような感情を喚起するのに役立っていると考えられる。


次に、以下のJR東海のCM。


「少女と少年の淡い夏」の描写は特に重要ではない。このCMの最後が重要なのである。新幹線の映像とともに「JR♪東海♪」というセリフが流れる場面が、私にとってかなりインパクト大なのである。

周知のように、沖縄には電車が走っていない*4。このCMにより、私は、「本土の生活に対する憧れ」を醸成したと思われる*5


テレビというメディアは、音と映像と文字という3つチャンネルを同時に駆使できるメディアである。そのため、視聴者に影響を与えることにおいては、新聞やラジオよりも優れているメディアだといえる。

なかでも、テレビのCMは、定期的に繰返し放映されるという性質ゆえに、本来はメインであるテレビ番組のほうをさしおいて、忘れ難き強烈なインパクトを、視聴者に与えると思う。

*1:実はこの基準はかなりあやふやである。髪の色、目の色、顔つき、骨格、喋り方、訛りについて厳密にあらかじめ評価基準を設定しているわけではない。ひとえに、「説明し難い違和感」に基づいている。

*2:これもどのような基準で判別されているのであろうか。いつだったか、チンパンジーやゴリラの研究者と話をしたことがある。彼らは、チンパンジーやゴリラを「あの人たち」と表現した。単なる冗談なのかもしれないが、霊長類を研究する方々は、チンパンジーやゴリラを人間と同じものとして捉えているふしがある。いずれにせよ、これまで自然に行っていた、「なにかをなんらかのカテゴリーに含めるという行為」について疑問を持ってしまうと、かなり日常生活に支障をきたしてしまうのではないか。考え出したらきりがない。ロボットと人間を区別する基準とか。男と女を区別する基準とか。「日本人」とそれ以外を区別する基準とか。どこまで考えてものを喋ればいいのか分からず、非常に不安だ。

*3:偽物と本物を区別することをやめて、両者が渾然一体となっている状態をそのまま受容したいと常日頃から思っているのであるが、実践することは難しい。私は基本的本質主義者であり、どこかに本物があると信じ込んでしまっているのである。本物の沖縄人。本物の沖縄口。これらがどこかにあると無根拠的に確信できているからこそ、あのような質問を私は口にできるのである。

*4:モノレールは電車ではないと思う。私にとって電車とは、線路を走るものでなければならない。

*5:電車に憧れていたとはいうものの、毎日電車に乗っていると、さすがにあの頃の憧れは色褪せる。