8/2と8/3に頭を巡った言葉たち

  1. 被害者が加害者になること。これをどう回避すればいいのか。
  2. 日本人と沖縄人。これらのカテゴリーを、これらのカテゴリーで指し示される人々双方に利益をもたらす形で、使用することはできまいか。
  3. カレーは、一日置けばさらに美味しくなる。
  4. 編集者に『幻視するアイヌ』を強く勧められる。「おまえ、死ね」という文字に軽く衝撃を受ける。どこかで即時に購入したい。
  5. 人類館の朗読を聞きに青年座へ。涙が出た。朗読が始まる前に。事前に配布された資料には、沖縄口と大和口の対応表が含まれていた。その内容を目で追い終わるやいなや、私はいきなり泣き出してしまった。調教師は沖縄人であった。男も女も沖縄人であった。そして日本人はどこにも見当たらなかった。
  6. 朗読者である津嘉山さんに様々な人が憑依していく。語りの主体がめまぐるしく変化する。それに伴い場面も瞬時に変化する。調教師と男と女のいる人類館。精神科医と男と女のいる精神病院。上長と男と女のいる戦場。いまどこで誰が何を話しているのか。このことを察知するために脳をフル回転させる必要があった。人と場所はどんどん変わるが、常に維持されている構造に気付かされる。津嘉山さんが1人で行う朗読には、演者3人で行う上演とは違った、独得の良さがある。朗読は、観客の頭に瞬時に、語りの主体と場面を立ち上げさせることができる。衣装交換や場面転換に時間をかける必要がない。また、観念ほどリアルなものはない。ライオンを恐れる者は、ライオンという観念を恐れているときがある。脳内で補完されたリアリティに圧倒された1時間半であった。
  7. 「沖縄口が理解できない人にとって、今回の朗読は、情報を取得し損ねたという悔しさを与えるものだったかもしれませんね。」と私が云うと、その記者は次のように答えた。「演劇や朗読や映画は、別に言葉が理解できなくても理解できる部分も多い。言葉が分からなくても分かることはある。言葉は空気の振動にすぎない。言葉でしか理解できないことは実際は少ないのではないか。」 「人ごみの中、突然自分の名前を呼ばれたら、とっさに振り向いてしまう。空気の振動にすぎない言葉に、人は確実に影響を受けてしまう。私は、言葉の威力、言葉の怖さ、言葉の力について、それが過小評価できないものであることを主張したいのです。すなわち、言葉は呪術。このことを声を大にして言いたいのです。」 やや挑発的な表情をして私が云うと、記者は、なるほど、と頷いた*1
  8. 私はあと何年生きるのだろう。死ぬ間際に何を思うのだろう。そんなこととは関係なく、これから生まれてくる人々の間に、どんな言葉が、残されていくのだろう。次々とその宿主を変えて過去から未来へと生き続けていくであろう言葉たち。そのうちのどれを生かし、どれの息の根を止めたほうがいいのだろう。
  9. 『あいたい』と『motorcycle Drive by』と『BAN BAN BAN』を同時に流すと、うざい。
  10. ところで、「ネクタイの締め方」復活。

*1:しかし今思う。若干、話が大きすぎやしないか? なんかずれてないか?