読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Difang(あるいは郭英男)

この曲を初めて耳にしたのは高校一年生の頃。曲の合間に、伸びやかな気持ちの良い声が聞こえてきたとき、「喜納昌吉っぽいこの声は一体誰だ?」と疑問に思ったことを覚えている。


あれから何年経っただろうか。なんとなくこの曲について調べていたら、Difang(あるいは郭英男)という人物に辿り着いた。

Difang(あるいは郭英男)さんは台湾のアミ族の長老であり、民謡の歌い手として有名なのだという。上記の曲で使われていたのは、この人物の声であった。Difang(あるいは郭英男)さんは既に亡くなっているが、生前の様子を伝える映像をyoutubeで見つけることができた。


長年の疑問だった「喜納昌吉っぽい声」の持ち主が判明して、かなり満足である。

しかし、Difang(あるいは郭英男)さんと、彼の声を無断で使用したアーティスト及び音楽会社との間で、著作権を巡る争いが引き起こされていたことを知り、驚いた。

確かに、youtubeで私が見つけた「酔っ払い老人の歌(?)」と題された歌は、エニグマの『return to innocence』とそっくりである。勝手に使ったと言われても仕方がないと思われる。

しかし私は次のような疑問を持った。この「酔っ払い老人の歌(?)」は、Difang(あるいは郭英男)さんの「完全オリジナル」なのであろうか? 台湾で昔から歌い継がれていた民謡の一節という可能性はないのだろうか? もしくは、Difang(あるいは郭英男)さんが幼い頃から慣れ親しんできた数々の台湾民謡の、様々な部分を取り入れた末に出来上がった、複合産物という可能性はないのだろうか? もしも前者が事実であれば、民謡の一節を耳にした人物がそれを自分の曲に引用することには、別段何の問題もなさそうな気がする。そしてもしも後者が事実であれば、オリジナルとコピー(=複合産物。ミックス)の境界を決定する作業が必要となり、これがどのようにしてDifang(あるいは郭英男)さんと、彼の歌を無断で使用したアーティスト及び音楽会社の間で行われたのか非常に気になる*1

あまり使いたくない言葉であるが、「酔っ払い老人の歌?」は、「文化」と呼ばれたりするのであろう。とりわけ、「台湾の文化」と呼称されたりするのであろう。そして、この「台湾の文化」を無断で利用したアーティスト及び音楽会社は、「台湾の文化」を「領有」した不届きな輩として、批判されたりするのであろう。

しかし、私は疑問に思う。「文化」というカテゴリー名で指し示される事物には、その事物を所有するにふさわしい集団がいるということが自明のこととされているが、このことはどのようにして立証されえるのだろうか? そんなことを言うと、土地も物もお金も何もかも、すべて共有物ということになり、なにひとつ自分の手に残らないぞと怒られそうだ。しかし気になってしまう。 

たとえば、「エイサー」とよばれる行為がある。しばしば「エイサー」は「沖縄の文化」と呼ばれる。そして当然のように「エイサー」は、沖縄人がその所有者とされている。そのため、沖縄以外の場所で、沖縄人以外の人々によって営まれる「エイサー」は、沖縄人からニセモノと呼ばれる。あるいは、「自分たちの文化を無断で使用している。けしからん。」という怒りを沖縄人に抱かせる。


私は、このような態度が嫌いだ。誰が「エイサー」をしてもいいではないかと思ってしまうのである。「エイサーは沖縄人のものだ」と主張することに私は魅力を感じない。そもそも「沖縄人」と「日本人」というカテゴリーを盲目的に使用してしまうこと自体に、私は気持ち悪さを感じてしまう。

しかし、「エイサー」が禁止され、その担い手である「沖縄人」が差別され、「日本人」になることを強制された時代を考慮するならば、上記のような私の感想は、「平和な時代に生まれてよかったね。おめでたいよお前。」と言われかねない、能天気なものであるかもしれない。

幼い頃の私は、特に沖縄の文化だとか誇りだとか祖先の霊を送るための神聖な儀式だという意識なしに、沖縄で「エイサー」を踊っていた。意識していたことといえば、「唐船ドーイが流れ始めたら退場しなきゃ」ということぐらいであった。神聖な儀式が、保育園や小学校の運動会で実施される理由は今でもよく分からない。もしかしたら、保育園や小学校の運動場は、神聖な場所だったのだろうか。

このように私の「エイサー」に対する態度は、非常に軽薄である。

しかし、「エイサー」を踊りたくても踊れずに、ひたすら卑下された人々が確実に過去に存在していたことはしっかり覚えていて、「エイサー」を自由に誰もが楽しめるようになった現在においても、「エイサー」を踊りたくても踊れなかった人々やこのような人々についての記憶を継承する人々が、「エイサー」を自由に誰もが楽しめるようになった現在の状況に感じてしまう怒りと複雑な感情は、忘れないようにしようとは思う*2

なんか話が別の方向に行ってしまったが、もう眠いので、思考終了。

*1:「酔っ払い老人の歌(?)」という歌そのものが問題ではなく、「酔っ払い老人の歌(?)」を歌う人物がDifang(あるいは郭英男)さんであったために、もしかしたら、歌ではなく、声を無断で使用されたという論理で、Difang(あるいは郭英男)さんが勝訴したのかもしれない。

*2:ただ、半永久的に「日本人」に対する怒りを持ち続け、それを子孫に伝達していこうとは思わない。過去の「日本人」は、現在の「日本人」とは異なる。現在本土に住んでいる人間すべてを、「日本人」というカテゴリーに含めて、彼らを、「「沖縄人」を差別した過去の「日本人」」と同一視し、そして敵視することを、私は不毛な行為だと考えている。なぜなら敵視したところで、何も得られそうにないから。