山口洋

やはり編集者の強い勧めを受けて、沢知恵さんという方と、山口洋という方のジョイントライプを鑑賞した。

非常に良かった。「すばらしいもの」を見たと思う。

沢知恵さんのパフォーマンスは炎のようでもあり、優しい風のようでもあった。そして山口洋さんのパフォーマンスは、頑強で一直線で、かつ、悪戯好きの馬鹿な男子のようであった。

特に私は、山田洋さんに魅力を感じた。そして私はライブ中、ひたすらコミュニケーションについて考えていた。

何かを語る際のその語り方(口調、抑揚、間の取り方)が、メッセージに対するメッセージとなっているということは、よく言われることである。いわゆるメタメッセージと呼ばれるこの、語りの内容とは別のレベルのメッセージが、どのようにどのメッセージに対して発せられているのか、このことに私は、終始注意を促されていた。

というのも、山口洋さんは、あまりにも多くのメタメッセージをランダムに発するように感じられたからである。一体、何に対するどのようなメタメッセージが今、目の前で発せられているのか。伝えたいことがあまりにも多すぎて、レベルが上手に整理されないままに、メッセージが無造作にとめどなく撒き散らされている。山口洋さんのパフォーマンスに私はこのような印象を受けた。

読み取り損ねたメッセージはいくつもあったものの、山口洋さんのパフォーマンスは「すばらしいもの」であった。存在そのものが楽しめるものとして出来上がっていた。

この「よさ」をどう伝えたらいいかとしばらく考えてみたが、なかなかいい方法が見つからない。ベイトソンが下記のように述べているように、芸術家の芸のすばらしさを説明することは難しいことなのかもしれない。

われわれの生活のすみずみに、無意識のあらゆる形態がつねに重層的に姿をあらわしている。人間関係の場でも、絶えず多くのメッセージが意識されぬまま行き交っている。(中略)メッセージが意識的・意図的なものである限り、そのメッセージは偽りのものにもなりうる。ネコがマットの上にいないとき「ネコはマットの上だ」と言うことはできるし、愛していない相手に向かって「愛してる」と言うこともできる。(中略)言葉によるメッセージよりも、それに対するコメントとして位置づけられる体感的なメッセージの方に、人はより大きな信頼を置くものである。(中略)さきほどアントニー・フォージ氏が引用したイサドラ・ダンカンの言葉を取り上げてみよう。彼女は「この踊りの意味が口で言えたら、踊る意味がなくなるでしょう」と語った。(中略)イサドラ・ダンカンの発言から読み取れる別の意味はこうだ。──もしもこれがコトバで伝えられる種類のメッセージなら、踊る意味はないかもしれないけれど、これはそういう種類のメッセージなのではない。むしろ、コトバに翻訳したのではどうしてもウソになってしまう種類のメッセージなのだ。なぜなら、(詩以外の)コトバに置き換えられるということは、それが意識的で意図的なメッセージだということを意味するわけで、この場合事態はそうでないからだ。イサドラ・ダンカンが、そしてすべての芸術家が伝えようとしているメッセージは、むしろこんな内容のものではないだろうか──「部分的に無意識的なメッセージをわたしなりに作ってみました。これを通して部分的に無意識的なコミュニケーションをやってみませんか。」あるいは──「これは、意識と無意識をつなぐインターフェイスについてのメッセージです。」 あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸を見たとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。芸術家は奇妙なジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が”身”につく。芸術家の試みが、自分のパフォーマンスの無意識的要素を他人に伝えることであるとしたとき、彼は一種のエスカレーターというのだろうか、動く階梯の上に立ちながら自分の乗っている段の位置を表現しようとするのだけれども、その努力そのものが段を上昇させてしまう、そんな状況にいるのだといえる。(ベイトソン 2000:211-213)

うーん。芸術家による芸のすばらしさを説明することの難しさについて、ベイトソンの『精神の生態学』から参考となる知見を引用して語ってみようとしたのだけれど、むやみに話をややこしくしてしまいそうな気がする。

私が、山口洋さんが演奏の合間に発するメッセージを正確に受信できなかったのは確かである。ライブ中に観察できた「意味ありげな」身振りや目配せの意味を理解できなかったのは事実である。しかし、このことと、山口洋さんのパフォーマンスのすばらしさを説明することが難しいことは、区別すべきであろう。なぜなら私は、メッセージを理解し損ねたにもかかわらず、彼の芸のすばらしさを感受することはできていたからである。ベイトソンはまるで、「技術の効果を意識して芸術家が駆使してしまうと、観客が感じる迫真性あるいはすばらしさが減じられる恐れがあるので、なるべく無意識に身を任せて芸を披露したほうがよい。」と述べているように感じられる。果たしてそうなのだろうか? メッセージに対するメッセージは、意図して発さずに、無意識的に発するほうが、観客にすばらしさを感じさせるのだろうか? そもそもどのようすればメッセージを無意識的に発することができるのだろうか? その切り替えはどのようにしたら可能なのだろうか? 

ベイトソンの文章を引用しつつ、私はこのような疑問を持ってしまった。

とにかく、いいものはいいのだ。山口洋さんが何を意図していたかを考慮する必要はない。山口洋さんがギターを演奏した。歌った。良かった。これでいいのだ。